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春を忘れて大樹は眠る  作者: 夢山 暮葉
第三章:神樹の慟哭
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24:跪く想いは

 泥のような眠りから目を覚まし、アージェンは朝日を呼び込む窓を鬱陶しげに眠たい瞳に捉えた。風雲たちとの話が終わった後、少し休もうと思って自室のベッドに横になったのだが、どうやらそのまま寝てしまっていたらしい。

 ゲームの中だというのに眠ってしまい、その上あんな悪夢を見るだなんて、どれだけ自分は参っていたというのだろう。少し考え──相談室の頓挫、ログインしてから24時間経過した事、昨日顕在化した現実の自身を忘れた問題等々──有り過ぎる心当たりに濁った声を漏らした。


「ヴァー……コーラ飲みてぇ」


 むくりと起き上がり、メニューから現在の時刻を確認する。月長の月10日、8時41分。昨日最後に時間を確認した時には22時くらいだったから、まぁ健康的な睡眠時間だ。

 あちこち跳ねまくってぼさぼさになった髪を撫で付けながら、音声入力で外していた装備を戻していく。そうしてとりあえず身なりは整えたが、きっと酷い顔をしているだろうから、外に出る前に顔を洗うべきだろう。インベントリからタオルを一つ取り出す。


「zi'e'ai .aucu'i djacu bumru」


 汎用魔法で水の霧を生み出し、タオルを湿らせる。そして良い塩梅で濡れたタオルで、ごしごしと顔を拭いた。拭き終わった後小さく「si'e'ai」と唱えれば、魔法で生成していた水が消えタオルはあっという間に乾く。


「zi'e'ai .a'acu'i jinsa」


 次いで汚れを取り除く魔法をタオルに使った後、それをそのままインベントリに戻す。そしてやおらに立ち上がり、その場で大きく伸びをした。


「……なんだかなぁ」


 こうして動かす身体は“アージェン”の物で、声も現実の“五条あけみ”の物ではない。しかしながらも、『自分は五条あけみであり、アージェンは単なるキャラクターである』という認識の方が強いのが現状であった。


(……希望って、何だろう)


 グローブに覆われた右手を眺めながら、彼女は思う。この身が望むべき物とは、希望とは、何なのだろうか。




 こつり、こつり、と鳴る自身の足音に耳を傾けながら、アージェンは宿舎の廊下を歩く。彼女は三階建ての宿舎の二階の片隅に有る部屋から出た後、壁に手を付きながら階段を降り、そして玄関を目指していた。

 玄関に辿り着き、両開きの扉の片方だけ開ければ、潮の香りが一気に吹き付けてくる。同時に、鳥やら虫やらの鳴き声が耳に届いて来た。ふと目を落とした草むらの中に、背が翡翠色で腹がオレンジ色をした小鳥が屯しているのを認める。

 ふくふくと羽毛を膨らませて寄り添い合う鳥たちの姿に、暫し彼女は癒された。この島は何処何処メンバーによって魔物が殆ど駆逐され尽くしているから、こういった普通の動物たちにとっては楽園のような環境なのだ。


(ああ~……可愛いわぁ……)


 深く満悦の溜め息を吐いた後、アージェンは一時止めていた足を再び動かし始めた。鳥が居た辺りの草むらを避けつつ、砂浜へと向かう。

 果たして、砂浜は今日も今日とて白と青の美しいコンストラクションを白日の元に晒していた。踏むと鳴る砂の上にブーツの足跡を残しつつ、陽光を反射して煌めく海の側に近寄る。

 そのまま、彼方に横たわる水平線を見渡す。そして目の焦点を遠くに合わせ、全ての思考を放棄して、ぼんやりと海の果てを眺めた。


「……疲れたなぁ」


 先ほど起きたばっかりだが、心身に降り積もった疲れはしつこくこびり付いて剥がれない。どうにか考えを単純化出来ない物だろうか、と頭を抱える。

 “アージェン”と“五条あけみ”。帰りたい気持ちと、それを諦めたい気持ち。降り掛かる多くの課題と、力不足の自分自身。ヘイゼルをどうしても助けたい自分、見守るべきだと主張する自分。いくつもの彼女自身が心の中で交錯し、そして出口の無い葛藤の迷宮を形作っていた。

 自分でもよく分からない状態になったその心境を整頓し、簡単で分かりやすい物に戻そうとしても、周囲の状況がそうさせてはくれない。八方塞がりとしか言い様の無い有様であった。

 もし今すぐこれらが解決されるとすれば、それは見えざる運営の手によってログアウト不可バグが取り除かれるという可能性だけだろう。そうすればヘイゼルも皆も危険なダンジョンに赴く必要が無くなるし、その他全ての懸念事項も丸ごと取り払われる。

 けれどもそんな一縷の望みに縋り、身も心も焦がすような真似はしたくなかった。現実世界への帰還に執着したとして、もしそれが叶わなくなってしまったら──碌な事にならないのは、目に見えていた。


「っだぁーっ、もうっ!!」


 気分転換をしに来た筈なのに、うだうだと暗い事ばかりを考えてしまう。唸り声を上げながらぶんぶんと頭を振り、脳内から悪い気を追い出そうとしていると、きゅっきゅっと砂が鳴る音が背後からし始めた。


「どうしたのですか、アージェンさん」


 掛けられた声に振り向けば、そこには風雲の姿が有った。苦悩によって死んだ魚のような目になっているアージェンとは対照的に、夢と希望に満ち溢れている笑顔を浮かべている。こんな状況下でもこういう表情が出来るからこそ、風雲は何処何処のリーダーたりえているのだろう、と彼女は思った。


「んあー、気分転換に来たんだけど……失敗してた」

「ああ……無理もないですよね、こんな有様ですから」


 事実を端的に告げる彼女の言葉に、風雲は悲しげに眉尻を下げながら共感の言葉を紡ぐ。困ったような笑い顔と共に、彼はこう問いかけた。


「アージェンさんは、どんな風に考えていますか?」

「えーっと、何を?」

「帰りたいか、帰りたくないか、です。……正直、あの言葉は耳に痛かったですよ、ボクは。

 皆を帰らせる事こそが完全無欠のハッピーエンドだと思っていたけれど、そうとは思わない人も居る……何が正しいのか、分からなくなってしまいました」


 風雲は珍しく弱音を吐きながら、がっくしと肩を落とす。潮風がその恐ろしく量の多い白髪を靡かせるのを眺めながら、アージェンは彼の問いに答える。


「わたしは……どちらかと言えば帰りたい、だと思います。

 帰れれば、今発生してる面倒事も全部無くなるし、友人もこれ以上嫌な目に遭わずに済むだろうし」


 彼の提示した選択肢の内どちらかを選べと言われれば、そういう答が出た。その望みに身を焦がす事は避けたいが、こういう質問の際に選ぶくらいなら良いだろう──その程度の思考だったが、彼女の言葉は確かに風雲の中の何かを後押ししたらしく、彼はうんうんと一人頷きながら表情を和らげさせる。


「そっかぁ……やっぱ、そうだよねぇ。うん、ヒョの世界がどうなるのか気になるのは本当だし、うん、ありがとうございました」

「あ、うん、どういたしまして」

「よーし、そうと決まれば早速準備だ! じゃあね、アージェンさん、また今度!」


 風雲はその場にふわりと浮き上がり、くるくる回転し始めたかと思うと、そのまま転移を使用し何処かへと消えた。彼の回転が生み出した砂上の波紋を見下ろしながら、アージェンも少し笑顔を浮かべる。

 芯から前向きな風雲に当てられて、少しは気分が上向いた。悩みは依然として振りほどける気がしないが、だからといってこのまま腐っていては、何の糸口も見つからない。


(……何かしよう、何か)


 メニューから転移画面を開き、何処に行こうか逡巡する。やがて彼女は転移先をエジャの世界樹広場に設定し、そして起動させ砂浜から姿を消した。




 世界樹広場では、如何にも強そうなプレイヤーたちがちらほらと佇み、口々にロジバンの合い言葉を読み上げていた。新ダンジョンに赴く者の見送りに来た者たちに混じって、アージェンは彼らの姿を見守る。


「じゃあ行ってくるモロ! モロヘイヤ食べて待っててモロ!」

「分かった、君の頸椎に見立ててアスパラ折って待ってる」

「野菜の種類違うし、怖い事言わないで欲しいモロ……」

「立派な願掛けだよ。ほら、『折る』って字と『祈る』って字、似てるだろ?」


 緑色のハンカチを振りながら地割れに向かう変な語尾のエルフと、そんな彼をニコニコ笑顔で見送る蝶の羽の翼人。翼人の周りには他にも何人かプレイヤーがおり、その閉ざされた和気藹々ぶりから、何らかの内輪ギルドなのだろうと推理する事が出来た。


「では、行って参ります、シャノワールさん」

「う、うん、いってらっしゃい」

「必ずやこのオレが、バグ解決の手がかりを見つけて来ます!」

「いいや、見つけるのは俺だね。だからシャノワールさん──」

「僕ですよ、手がかりを掴むのは。シャノワールさんもそう思うでしょう?」

「え、いや、その、皆で協力すれば良いと思いますよ、あは、あははは……」


 ダンジョンに行くらしい複数の男性プレイヤーと、彼らを曖昧に笑いながら見送ろうとしている猫耳獣人のゴスロリ少女。彼女は所謂『姫』であるらしく、見栄を張る取り巻きたちの目は下心に輝いていた。

 地割れから離れた所で繰り広げられ続ける、一時の離別を惜しむドラマから目を離し、彼女は崖っぷちで呪文を唱えている者たちの方へ注目を移す。絶え間なく地の底から光の帯が伸び、唱え終えた者たちをてきぱきと浚ってゆく様を眺めながら、響くソプラノの歌声に耳を傾けた。


『.i doi xamsi le xamsi…….i doi tumla le tumla……』


 海よ、海。大地よ、大地。──何かを求め、呼ばわるような声は、意識して耳を澄ませなければ、辺りの喧噪に飲まれて聞こえなくなってしまいそうな程に幽かであった。


『…….uonai.uu.ii.a'onaibe'u.uinai……』


 “鍵”の詩に呼応して響く声は、冬に挫けた世界樹の声。彼女は何を思って、何の為に、レベル100のプレイヤーたちを集めているのだろうか。


(んー、まぁ、わたしレベル足りないからなぁ……)


 その真相を直に確かめる術を、アージェンは持ち合わせていない。レベル70代からカンストまで上げるのは、一朝一夕にはとても成し得られない。どんなに必死に経験値稼ぎを行ったとしても、ゲーム内時間で一年くらいは掛かるだろう。

 軽く肩を回しながら、そろそろここを立ち去ろうかとメニューを開く。しかし、まだ転移のクールタイムは終わっていなかった。ならばエジャの街でもぶらついて時間を潰そうか、と考え歩き出そうとすると、ふと見覚えの有る赤銅の髪が視界の端に捉えられた。


「……!!」


 その色の主を素早く探し当てる。難しい顔で広場の光景を眺めている彼女の姿は、間違いなくヘイゼルの物だった。すかさず予定を放棄し、アージェンは彼女の元に駆け寄る。

 アージェンの足音にヘイゼルも気付いた様で、まずちらりとこちらを一瞥し、すぐに驚きと歓喜に榛色の瞳を瞠目させた。思い詰めていたような表情から一転、柔らかな笑顔を口元に浮かべる。


「あ、アージェンさん! こんな所で遇えるなんて……嬉しいわ」

「お久しぶりです、ヘイゼルさん。こちらこそ、逢えて嬉しいですよ」


 ここの所色々と余裕が無く、中々こうして会う事は出来ていなかった。アージェンはヘイゼルと手を取り合い、この僥倖に浮かれる。


「どう、調子は? ここん所、色々有ったけれど……」

「ぼちぼち……うーん、あんま良くないかな。如何せん、ぐちゃぐちゃ過ぎて」

「あはは、だよね、私もだよ。一応、少しはマシな状況になって来たけれど……まだ大きな光明は見えないわ」


 そう言いながら、ヘイゼルは地割れの方を見る。その黄昏れている様に、皆には公表されていない何かを彼女は見たのだろうな、とアージェンは察した。


「……うちのサブマスのナツメグさんがね、ダンジョンに入ったまま帰れなくなっちゃったの。彼の力はまだ必要だったのに……」


 ナツメグという人物は、時折ヘイゼルの話に登場するから、ぼんやりとだが知っている。甚く優秀な補佐であるらしい彼の喪失は、彼女にとってもの凄く大きな痛手なのだろう。


「早く終わらせたいわ。もう、疲れたのよ。こんな事態になるって事が最初から分かっていたら、こんな責任有る立場は全力で回避してたわよ……!」


 不安げなその独白をした事により、心の中の堰が切れたのか、彼女は震える声で自身の苦しみを吐露する。人々の上に立つ為にひた隠しにして来た、己の弱さと闇を。


「逃げたいわ、投げ出したい……けれども、今私が逃げるわけにはいかない……知ってる……」


 顔を歪め、涙を堪えるように目を閉じるヘイゼルに、アージェンは腕を伸ばす。荒れ狂う感情を反映するようにがくがくと震えるその肩に、そっと手を乗せた。そして声を投げかける。


「ヘイゼルさん、わたしはね、あなたに居てもらえればそれで良いんです。生きて、これからもわたしと友達でいてくれれば。

 だから、いつでもわたしの所に逃げて来て良いんだ。例えそれによって情勢が悪化しても、わたしがあなたを悪意から守る」


 そうするから、どうか危険な新ダンジョンには行かないで。帰れなくても良い、こっちで暮らそう──続けたかったその言葉は、喉の奥で捻り潰した。それは、ヘイゼルの行動と信念を阻害する物になりかねないから。


「……ありがとう、アージェンさん」


 ふと、肩に乗せた手にヘイゼルが触れた。手袋越しの感触に、アージェンは彼女の顔を見る。そこには、幾分か安らいだ表情が浮かべられていた。


「でもね、私は帰りたいの。だからダンジョンには行くわ。……この世界も心地が良いけれど、私は現実のアニメが見たい。ドラマや、漫画や、ゲームや音楽……現実のそれらは、こちらでは手に入らないから」


 呑み込んだ筈の言葉を見透かしたような彼女の台詞に、アージェンの心臓は跳ねた。それすらも面白がるようにヘイゼルは微笑み、更に声を連ねる。


「貴方の気持ちは本当に嬉しいわ、ありがとう。もし、ダンジョンのイベントをクリアしても駄目だったら、その時は二人で一緒に暮らしましょう。

 他のプレイヤーなんて放っておいて、バタエフェのマスターでもなく、バグ解決運動の指導者でもなく、現実の“私”でもなく──ただの“ヘイゼル”として」


 そう語りながら、彼女は強い意志の籠った榛の瞳を地割れへと投げかける。旅立つプレイヤーの消える姿を、寂寥と恐怖と決意の入り混じった視線が追いかけていた。


「……分かりました。いつでも、待ってます」


 溢れそうな感情を抑制しながら、アージェンは答えた。そして思う──憂いや悔やみを内包しながらも、ヘイゼルは進む強さを持っている。いつも折れそうになっている自分とは、全く以て大違いだ。


「そんな寂しそうな顔はしないで。大丈夫よ、実力の有る仲間と一緒に行くし、必ず帰って来るわ。約束する。

 ……と、そうだわ」


 俯くアージェンに、ヘイゼルはふと思い立ったように声を上げる。一体何だろうかとその様子を見ていると、彼女はメニューを開き、そしてそこから一つの首飾りを取り出した。

 木製の小さなボタンに、灰色と白のグラデーションの羽根が二枚付いた、シンプルな首飾りのアバター装備。よく見ると、ヘイゼルの胸元にも同じ物が揺れている。驚いていると、彼女はそれをアージェンの首に掛けた。機能装備のままにしていたHPブーストの首飾りが、その見た目を上書きされる。


「本当は、アップデートのあのイベントが終わった時に渡そうと思っていたのだけど、色々有ってすっかり忘れちゃってて。でも、今思い出せて良かったわ」

「ヘイゼルさん……あ、ありがとうございます」


 アージェンは自身の首飾りに触れながら、礼の言葉を告げる。すると、ヘイゼルも同様に首飾りを撫で、少しはにかむように微笑んだ。


「これで私とアージェンさんは、いつでも首飾りで繋がっている……だから、もう寂しくならないわ。ね?」


 心からそう考えているように語る彼女はまるで太陽のようで、不用意に触れれば火傷しそうな程である。しかし例え己が身を焼かれようとも、アージェンは絶えずヘイゼルに惹かれるのだろう。夜の蛾が光に誘われるように。

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