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10:10万人に一人の種


 地下室の広さは、大体六畳くらいだろうか。天井も低く、アージェンや晴嵐は平気だが、フュールは少し背を屈めないと頭が擦れる。全体的に粗末な作りで、床も壁も土が丸出しだ。

 一体ここは何の為の部屋なのか──と、彼女が疑問を募らせていると、不意にフュールが「ミャガッ」と悲鳴を上げた。アージェンもその鋭い声にビクッとなりながら、彼の視線の先を辿る。


「おいフュール、何が……ロッ!?」

「フュール殿、何か見つけたので……ヒャッ!?」


 そして、晴嵐とほぼ同時に驚愕の声を上げた。そこには、一人のブリーフ一丁の男が腕を縛られた状態で転がっていたのだ。こいつが件の中立存在の正体か、と彼女は理解する。


「何だあれ……」

「い、生きてるのでしょうか?」

「どうしますか、司令官殿? 射殺しますか?」

「いや、まずは様子見だ。あんたらは下がってな」


 後衛二人を押し止めながら、アージェンは倒れている男の元にゆっくりと近づく。しつつ、彼の様子を観察する。

 魔法の光に照らされ浮かび上がる彼の姿は、何とも白い。肌も白ければ伸びっぱなしの髪も白く、ついでにブリーフも白い。白髪はこのゲームでは日常茶飯事だが、ここまでに色白な肌もセットな事を考えると、もしかしたら彼はアルビノなのかもしれない。

 血塗れのナイフを取り出し、苦労しながら彼の腕を戒めている縄を切る。そうして、軽く彼を揺さぶりながら声を掛けた。


「あんた、生きてるか? 生きてるなら、返事をしてくれ」


 すると、彼はほんの少しだけ身じろぎをした。どうやら生きているらしい。彼の身体を両腕で抱えて助け起こし、しかし体温が低過ぎる気がするな、と思った瞬間、アルビノ男が動いた。


「アアアアッ!!」

「ぎッ……!?」


 彼は吶喊したかと思うと、アージェンの顎を思いっきり殴り上げたのだ。突然の事に対応し切れず、彼女の身体はぐらりと揺らめく。男はその隙を見逃さずアージェンへと体重を掛け、そのまま押し倒した。

 マウントポジションを取られたアージェンは、ぐらぐらする頭のまま男を見上げる。長い前髪の合間から覗く紫がかった赤の目は欲望に赫赫と輝き、口からは二本の牙がちらりと見えている。吸血鬼の生き残りか、と彼女は瞠目した。視界の端で、先ほどまで中立を示す色だったマップ上のアイコンが、敵対のそれになっているのを捉える。


「し、司令官殿!!」


 晴嵐が叫ぶ声と、弓を構え矢をつがえる音が聞こえた。だが恐らく間に合わない。男の牙は、今にもアージェンの首筋に突き立てられようとしている。


(どうする──)


 思考が超高速で展開される。今彼女の前に有る選択肢が、脳裏で反芻される。

 一、このまま噛み付かれる。これは選びたくない。HPをごっそり持って行かれる事請け合いだし、吸血鬼に噛み付かれると魅了系のバッドステータスが付与されるとwikiに有った。操られた挙句に二人の仲間を害するのに荷担させられ、そして殺されるなんて結末は勘弁願いたい。

 二、この男を自分で蹴散らす。可能ならこの選択をしたい所だが、どうやら筋力のステータスが負けている様で、片手で纏めて地面に縫い留められた腕はビクとも動かない。魔法は詠唱が間に合わないし、こちらも現実的ではない。

 故に、彼女は第三の選択肢を選ぶしか無かった。例えそれが、一番目の選択肢と同レベルのリスクを孕んでいる物だとしても。

 牙が皮膚に食い込む直前、アージェンは叫んだ。


「──《魔性開放》!!」


 それは、半魔という種族固有の、能動的に発動させる事の出来るスキルだ。使用する事で契約を交わした魔神との同調度を高め、異形となる事と引き換えに、一時的に竜人をも上回るステータスを手に入れる事が出来る、ゲーム内で一日に一回だけ使用可能な切り札である。


「ぐぎゃっ!!」


 その悲鳴は覆い被さっていた男の物だったのか、それともアージェン自身の物だったのか。頭等変貌する部位の装備が外れ、同時に頭頂部にある小さな角が大きく太く伸び、紋様の有る右手から異形化する。HPとMPが全回復し、能力値が大幅に上昇する。

 ブーストされた腕力は、いとも簡単に吸血鬼の男をはね除ける事が出来た。肩辺りまで丸太の様に太くなり、己の背丈よりも長くなった腕を振るい、彼女は男を壁に張り付ける。本来爪の無い部分にまで生えた鉤爪が、彼を傷つけた。


「……クソが、この力は使いたくなかったのによォ……」


 角や右腕の他にも、赤黒く変化した肌に爛々と金色に輝く双眸が有る。声はがらがらと枯れ、自分でも聞き取り難くなっている。その上、心の内にふつふつと耐え難い破壊衝動が湧き上がって来て、このまま目撃者を全員殺してしまえ、と囁く自分が生まれる。


(見た目は割と原型保ってるけど、中身の方がヤバいな、こりゃ)


 何とか理性の鎖でその衝動を繋ぎ止めながら、アルビノ男の方を見やる。既に彼は恐怖のあまりに気絶したようで、ぐったりと脱力していた。アージェンはそれを認めると、そっと彼から右手を離した。

 そして離した右腕を、今度は天井に向ける。巨大な掌をそこに当てたまま、化け物じみた声で呪文を唱えた。


「zi'e'ai .oi lo bapli ku pe mi lo vi drudi cu daspo .ei」


 普段の数倍の威力の魔法の衝撃波が発生し、大きな音を立てて地下室の天井が崩れる。フュールたちが瓦礫に押し潰されない様、異形の腕を駆使してその破片を弾き切った。

 吸血鬼が日光に晒されるようになった事を確かめた所で、彼女は呆然と固まるフュールと晴嵐の方に顔を向ける。すると、何かの糸が切れたように、フュールが叫び声を上げた。


「う、うあっ、うわあああああああああああっ!! じっ……zi'e'ai le'o doi fagri!」


 彼の手に有る魔法書が開かれ、構築された魔法陣が火の玉を放ち、そしてアージェンにぶつけられる。アージェンはそれを左腕で受け止め、肌を焼く熱に短い悲鳴を上げた。


「あッ……!! あつい、よ、フュール……やめて、くれ……」


 そう言いながら、彼女は《魔性開放》状態を解除し、元のより人間に近い姿に戻る。その後遺症として、凄まじい疲労感が彼女を襲った。がくり、とその場に崩れ落ちて座り込む。

 錯乱状態だろうにフュールの魔法の威力は普段通りで、左腕は酷い火傷になって爛れていた。痛みも感じない程に重度の熱傷だが、相手の同情を誘う為に痛そうに振る舞う。しかしフュールの顔に、つい先ほどまで宿っていたアージェンに対する厚い信頼は戻らない。


「貴方……半魔だったのですね」

「まーな……ごめん、今まで騙してて。ハゲってのは、この通り嘘なんだ」

「信頼していました……貴方の事を」

「……そうか」


 早い所傷を治したい所だが、今妙な動きをして相手を刺激する事は憚られる。ただひたすら、自分に悪意が無い事を示すように、両腕を無造作に投げ出したままフュールの顔を見上げる。

 はぁ、という掠れた溜め息が漏れた。あくまでゲームの中の話だとはいえ、こうして責められるのは気分が悪い。身体の中にどろりと溜まる倦怠感と相まって、ほろりと涙が零れた。


「……ああっ、僕はどうすればいいッ!?」


 ふと、フュールが悲痛な叫びを上げた。開いていた魔法書をバシンと地面に叩き捨て、両手で顔を覆い、長い耳をしなだれさせてその場に膝から崩れ落ちる。


「半魔は見つけ次第殺せ──そう教えられて僕は育ちました! ハイエルフとしてのその信念に従うなら、僕は貴方を殺すべきなのです!

 けれども! 貴方は僕の命の恩人で! 誰よりも信頼出来る仲間で! 大切な友人なんです! ……だから、分からない。半魔である貴方を、僕はどうすれば良いのか……」


 たった数ヶ月の付き合いなのにそこまで行くか、と一瞬思ったが、こちらの世界の時間は現実よりずっと早く進んでいるのだった。アージェンが現実で一日過ごす間に、ヒョの中では24日も経過する。半月でおよそ一年過ぎるから、彼にとってのアージェンとは10年以上もの間組み続けていた仲間なのだ。

 これはワンチャン有るか、とアージェンはやや期待しつつ彼の様子を見守る。そうしていると、踞り続けるフュールの後ろから、据わった表情をした晴嵐が進み出てきて、彼女の元にかがみ込んだ。


「……司令官殿。本来、ドロイドには半魔を駆逐するという本能が組み込まれているのであります。けれども、自分たちE4シリーズには、『知性が有り、信頼に値する者は除外する』という例外措置が設定されているのであります。

 司令官殿……貴方はその例外に類されるべきである、と自分は判断するのであります」


 自身の仕様を語りながら、晴嵐は首の後ろ辺りから生えている二本のコードを操り、その先端をアージェンの左腕の火傷部分に翳す。そして、常人には不可能な程の早口で呪文を唱えた。


「zi'e'ai .uu.ia galfi lo ny zei senta nejni pe mi lo ry zei senta pe do」


 焼け焦げた肉が復活し、皮膚が再生する。けれども彼の魔力では傷は治り切らず、神経が復活した所為でじくじくと腕が痛み始めた。あまりの痛みに、自分で魔法を唱える事も出来ず悶絶していると、ふとフュールが先ほど叩き付けた本を取り上げる。


「……アージェンさん、僕は決めました」


 本に付いた土ぼこりを払い、彼は静かに本を開いた。そして、完全に精彩を取り戻した表情で詠唱をする。


「zi'e'ai .uinaisai mi vimcu .a'o lo velxai ku pe do .uo」


 思わず身構えたが、フュールが行使した魔法は彼女を殺傷せしめる物ではなく、彼女の傷を完全に癒す物であった。中途半端な所までしか治ってなかった傷が、完全に癒えて消えてなくなる。


「フュール……」

「半魔は忌むべき存在ですけど、貴方は違います。普通の半魔は卑怯で残酷で、自分勝手なおぞましい化け物ですけれど、貴方はそうではない。

 先ほどは錯乱して攻撃してしまい、申し訳ありませんでした。許してください、アージェンさん」

「や……良いんだ。あんたらがどれだけ半魔を嫌ってるかは知ってたからな、バレたらこうなる事は覚悟していたさ。……けどよ、ありがとな、そう言ってくれて嬉しい」


 相手の佇まいから完全に敵意が消えた所で、アージェンは緊張を解き、流れっぱなしだった涙を手で拭う。ゲームの話だとしても、こうして自分の操作しているキャラクターが嫌われずに済んだというのは嬉しい。


「しかし……貴方の様に、理性を保っている半魔は初めて見ました」

「まぁ、わたしは“使者”だからな、多少は規格から外れてるだろうよ」


 NPCの半魔は大体モンスター扱いで、基本的に先ほどアージェンがなったような異形の姿をしている。そうでない者も居るのかもしれないが、その場合は正体を隠してしまうので、この世界の住人の半魔への認識は、フュールが抱くような物になるのだろう。

 そんな事を思いながら、アージェンは外れた装備を元に戻していく。頭装備だけは戻さず、小さな角を露にしたままにして、そして彼女は気絶しているアルビノの吸血鬼の元に歩み寄った。


「司令官殿、その不届き者を一体どうなさるおつもりでありますか?」

「ま……ちょっと落ち着いてコイツを見てみなよ」


 力無く伸びている半裸男を見下ろし、二人もそれに倣う。二人とも少しの間頭を悩ませていたが、すぐに彼女の言わんとしている所を理解し瞠目した。

 そう、彼は今も日光に晒されているにも関わらず、無傷なのだ。普通の吸血鬼は、こうして日光に当たるだけでそこから火傷のような傷を負い、体力が削られていく。先ほど一悶着有る間も日に当たり続けていたのだから、本来ならば既に骨も残さず蒸発している筈なのだ。

 それなのに彼はこうして生きているし、今もダメージを受けている気配は無い。しかし彼が吸血鬼でないという事は有り得ない、あの牙は間違いなく吸血鬼のそれだった。それらの事実から導き出される答は、一つ。

 アージェンはメニューを開き、彼のステータス画面を表示させる。その種族の欄には、『吸血鬼・デイウォーカー』と有った。


「日光が平気で、必ずしも生き血が必要でなく、そして通常よりもずっと強い吸血鬼、デイウォーカー。すっげぇレアモンじゃねぇか。だから親の吸血鬼に怖れられて、ここに閉じ込められてたんだな」


 公式サイトの解説を諳んじながら、ぐったりとしているデイウォーカーを優しく抱え、仰向けに寝かし直す。そしてHPを回復させる魔法を唱えた。アンデッドに回復魔法を使うと最悪死ぬが、吸血鬼の類いは普通に回復する。

 吸血鬼に殺された者は基本的にグール等のアンデッドになるが、稀に同じ吸血鬼になる者も居る。大体、100人に一人程度の割合だ。それだけなら、レアケースではあるが予想出来ていた事である。

 しかし、それがデイウォーカーとなると話は別だ。割合としては、吸血鬼にされた者の内、大体1000人から2000人に一人がなる。作りたいと思ったならば、最低でも10万人程吸血鬼に食わせなければならない計算だ。

 そんな10万人に一人の種族たる男の頭を、アージェンは先ほど彼を突き飛ばしたのと同じ人物だとは思えない程優しげな顔で撫でる。そうしながら、彼女はフュールたちの顔を見上げながらこう問いかけた。


「ねーお母さん、この子ウチで飼っても良い?」

「誰がお母さんですか。それに飼うって……そいつは人の姿をしてますけど、吸血鬼という立派な魔物なのですよ。その脅威は貴方が身を以て体験したではありませんか」

「そうですよ、司令官殿! モンスターは即刻、射殺するべきなのであります!」

「んな事言ったら、わたしだって一般的にはモンスターにカテゴライズされる存在だし……」

「うっ」

「んぐっ」


 まぁ、彼が普通の吸血鬼だったなら、アージェンとて容赦無くコキャッと首を折るなりしていただろう。だが彼はデイウォーカーであり、プレーン吸血鬼より人に近い生態をしているのだ。会話も可能だろうし、普通に殺してしまうのは勿体ない。味方に出来れば心強いだろうし、可能ならば仲間にしたいのだ。

 アージェンはインベントリから、常に携帯している大きな風呂敷を取り出す。そして捻って紐の様にすると、それを使ってデイウォーカーの腕を後ろ手に縛り上げた。


「まぁ、ちょっとだけ彼と話をさせてよ。駄目だったら殺してもいいから」

「はぁ……司令官殿の言う事ならば、自分は従いますが……」

「お願いですから、気を付けてくださいよ?」


 二人が頷くのを認め、アージェンはデイウォーカーに向き直る。そしてその頭に手を翳し、力強く詠唱をした。


「zi'e'ai .a'a ko mo'u senva ca lo cnino cerni!」


 状態異常『気絶』を取り除く為に、『目覚めよ』といった具合の文言と共に回復魔法を発動させる。すると弾かれたように男はびくりと身体を震わせ、そしてアージェンの顔を見上げた。


「……あ、あ、何故」

「やぁ、痴漢君。ハウアーユー?」

「ひぃっ!?」


 なるだけフレンドリーに話しかけたつもりだったが、彼はアージェンの顔と、頭の角を見るなり引き攣った悲鳴を上げてその場から逃げようとした。しかし腕が縛られているため思うように動けず、鼻っ柱を地面に打ち付けるのみに留まる。


「う、あ……あ、うああっ」


 そこで日光が差し込んでいる事に気付いたのか、尺取り虫の様に身を捩り、どうにか暗所へ逃げ込もうとする。デイウォーカーでも、ダメージこそ受けないが日光は苦手らしい。ただ単にアルビノだからなのかもしれないが。


「待ちな。ちょっと話を聞きなって」

「あ、やだ、やだ、死にたくない、殺さないで」

「大人しくしてれば殺しはしない。約束する」


 そう言って彼女はフュールたちに目配せする。彼らはその意図を察し、それぞれ武器を地面に置いた。すると、デイウォーカーはやや安堵したように息を吐き、逃げるのを止めた。


「……俺はこの通り、何も持ってないぞ。叩いたって、出るのはゲロくらいだ」

「見りゃ分かるわ。ま、欲しいのはあんた自身なのよね、アルビノ君。あんた、名前は?」

「名前……」


 彼は無言で首を横に振る。どういう事か──と逡巡し、そしてすぐに察しをつけた。

 閉された村、アルビノ、謎の地下室。それらの要素から見出せる筋書きは、アルビノであるが故に疎まれ、この粗末な地下室を作られ、そして産まれてこの方名前も与えられずここに閉じ込められ続けて来た、といった物だ。他人の辛い過去をほじくり返すのもアレなので、それ以上は問い詰めない。


「そうか。じゃあ話は変わるが、あんた、生きたいか?」

「俺は……」


 一瞬の沈黙。彼は少し息を吸った後、絞り出すようにこう答えた。


「外に行きたかった。ここから外に出て、自由に生きたかった。だから、その為に計画を練っていたのに……あの吸血鬼に殺されて……俺は……」

「自分がどんな生き物になったのか、ってのは分かってる?」

「……ああ。何となくだが」

「よし、説明の手間が省けた。ならさ、わたしたちに付いてこないか?」


 彼が息を呑むのが分かった。アージェンはいつもの様に余裕を持った笑顔を浮かべ、言葉を続けていく。


「わたしたちは見ての通り、冒険者だ。わたしの仲間になって、わたしの為に戦うというのならば、わたしはあんたの為に生きる術と居場所を与えてやろう」

「……俺は吸血鬼だぞ。魔物を匿うってのか」

「わたしも半魔だ、似たようなもんさ。それに、あんたも人を襲わなきゃ、ただちょっと強いだけのヒューマンと変わりない」


 自身の角を示しながら、からからと笑う。そうしながら、彼女は男の腕を縛っていた風呂敷を解いた。男は驚くが、もう彼女に襲いかかろうとはしない。返り討ちにされる事が分かり切っているからだ。


「それと、あんま頻繁には無理だが──zi'e'ai cupra lo kabri」


 防御魔法を応用し、周囲の空気を固めて色付け即席のコップを作り出す。次に左手のグローブを外し、そしてナイフを取り出した。息を吸って気合いを入れた後、アージェンは思いっきり左手首を切り裂く。


「ぬいッ!!」

「ちょっ、アージェンさん!?」


 人生初のリストカットは、滅茶苦茶に痛かった。鋭利な痛みに肩を震わせながら、彼女は流れ出る血を先ほど作ったコップに注ぐ。動脈を狙って切ったから、結構な勢いで出血した。

 何度か傷を付け直し、コップの八分目程まで血が溜まった所で、短く呪文を唱えて傷を塞ぐ。流した血の量は然程でもないが、《魔性開放》の倦怠感と相まって、少しばかり頭が重い。


「っはぁー……と、こんな具合で、血を提供してやるぞ」


 自身の血液が注がれたコップを手に取り、ずいっと吸血鬼の男の元に差し出す。要は直接牙で噛まれるのが危険なだけなので、こういう形でなら血を与える事が出来るのだ。

 彼が唾を呑み込む音がした。どれ程の間彼がここに閉じ込められていたのかは分からないが、長らく飲まず食わずで過ごして来たに違いない。それこそ、只人ならば餓死して乾涸びる程の期間を。

 男は恐る恐るといった様子で、両手を差し出しコップを受け取る。少しの間、彼は迷うようにその鮮血を眺めていたが、飢餓には勝てなかった様でぐいっと一息に飲み込んだ。


「ぶはっ、はぁっ、ああっ……ああ……美味しい、美味しかった……ううっ」

「そうか。si'e'ai」


 一滴残さず飲み干された事を確認し、彼女はコップを維持していた魔法を解く。そしてインベントリから、買ったきり使っていないアバター装備をいくつか取り出し、それを男に押し付けた。


「じゃあこれを着て。街に戻るからな、その格好のままじゃ連行されちまう。さっさと支度しな、レオロ」

「れ……おろ?」

「あんたの名前だ。いつまでも名無しの権兵衛じゃ不便だろ? 気に入らなけりゃ、他のにしても良いが」

「いや……分かった、俺はレオロだ」


 未だに状況を完全に飲み込み切れていない様だったが、腹が満たされたためかその受け答えは割としゃんとしていた。吸血鬼の男改めレオロが服を着終えた辺りで、アージェンはメニューを開き、クールタイムの終わった転移を使用した。

 フュールは何だかビクビクしてたし、晴嵐は不服そうだったが、アージェンは甚く上機嫌だった。何せ、もの凄くレアな上に強い種族で、ついでに好みなカラーリングの仲間を手に入れる事に成功したのだから。

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