異世界転生して、スローライフを送っていた少女 前段
もしこのペットが、犬や猫なら「かわいいな……」なんて言いながら背中でも撫でてやるのだが、それをやるには少しばかり度胸が必要だと思った。
グォォォォーーーー!!
真夜中の雨に濡れた真っ白なドラゴンが、俺に向けて厳つい咆哮をあげる。
幼体とはいえ、かなりのデカさだ。小型のダンプカーほどはあるだろうか? 大きく開いた口には、鋭く尖った牙が見えた。その隙間には、仲間の腕が挟まっている。
鱗のような硬い皮膚の下で盛り上がる筋肉。ドラゴンは前足でぬかるんだ地面しっかりと掴み、今にも飛びかかってきそうだ。不気味な紫の光を放つ瞳は俺だけを見据えている。
やれやれ、現実世界で空想上の生き物と戦っているのは、世界広しといえ、この世に俺だけだろう……
だが、今の俺はドラゴンよりも、上司の無茶ぶりの方が厄介だ。
なぜ今こうなっているのか?
少し時間を少し遡ろう……
◆英◆
みんなは知らないだろう。異世界から現実世界へ戻る時には、絶対に目を開いてはいけない事を。
──戻ってきた俺たちは今、真夜中の廃校のグラウンドで、しとしとと降る雨に濡れている。
「おぅえぇぇ……」
今回の任務で救出した少女、菊田雫は、移動中に見える膨大な量の空間情報にストレスを感じて吐いている。心因性嘔吐だろう。手のひらに収まるサイズの装置を作動させて待っている間は、基本的に目を閉じる事を勧めている……のだが。
──「おい、大丈夫か?」
そう言って彼女の背中に触れたが、その手は払いのけられ、さらに顔を平手で打たれた。
パシッ!
「触らないでッ!」
「いってぇ……」
彼女はもう一度俺を叩こうと腕を振り上げた。だが、もう片方の手で自らを制すると、グラウンドに伏して声をあげて泣いた。彼女のように、突然異世界から連れ戻された人は様々な行動を取る。
今回はビンタ。痛いし腹は立つが、自ら死のうとしたり、馬鹿みたいに喚き散らかす奴よりかはマシだ。
彼女は突然顔をあげた。口を引き結んで俺を睨みつけると、肩を上下させて荒い呼吸をはじめた。
この後の展開は、なんとなく予想がつく。俺は目を細めた。
白いワンピースの上から浅葱色のローブを羽織った、いかにも魔導士っぽい装束の彼女は、手のひらを俺に向けて詠唱をはじめた。
「火の精霊達に命ずる! 我が手の中に集い! 紅蓮の焔となりて、目の前の敵を焼き尽くせッ!」
……
彼女の手から、その“紅蓮の焔”とやらは出ない。
ん! ん! と、何度も俺に向かって手を伸ばすが、煙すら出ない。
ゲームやアニメのように、本気で手から炎を出そうと努める彼女の姿は、傍目からは魔法使いになりきった異常者に写るだろうか。
囁くような雨音が、『ここは現実の世界だ』と、彼女に冷たく教えているように聞こえた。
「落ち着け、お前は異世界では魔法使いだったのかもしれないが、現実世界では存在するエネルギーの法則が違う。残念だが、もう魔法は使えない」
「う、う……うあぁぁぁぁ〜!!」
俺にビンタ以上の攻撃を与えられないと悟った彼女は、両手を地につけて慟哭を再開した。
こうなったら長いんだよな……面倒くさい。
俺は耳のイヤホンマイクで班長に現状報告をする。
『ピッ』
「っかれっス……排除完了……えぇ、泣いてますね……女性なんで。……了解です」
この周辺を警戒している仲間の情報では、異世界から俺達を狙ってくる追跡者が現れたという報告はない。だが、油断は禁物だ。
さて、雨に打たれている彼女をいつまでもここに居させるのは流石の俺でも忍びない。校舎側へ連れて行くか。それにしてもよく降る雨だ。傘くらい持ってくればよかったな。
そんなとりとめのない考えをしていると、ズボンの裾が掴まれていることに気づいた。
俯いている彼女が掴んでいるのだ。
「……なんでよ?」
声が震えている。
「なんで私を連れ戻したのよ?」
彼女はさらに強く掴んだ。
なんでって──
【魔王を討伐したあとの異世界で、恋人と楽しいスローライフを過ごしていたら、突然黒スーツの男がやってきて問答無用で元の世界に戻されました】
──とまぁ、そんな事されたら怒るのも無理ないか。昔、俺も同じ事をされたから気持ちは分かる。
「お前が違法な転生アプリを使って異世界に行ったからだ。それと、お前の両親から捜索依頼が出ている」
「イヤよ。あっちの世界にもどしてよ、お願い」
彼女は首を横に振り、俺を見上げて懇願する。
「悪いがそれはできない。お前は今日からまたこの世界で生きてくれ」
諦めの悪い奴だ。
「あっちの世界に恋人がいるの! 友達も! あたしだけの家も! 頑張って作った牧場も! ペットのシロも! 現実世界が嫌だったから転生したのに!」
俺の足にしがみつき、声を荒げながら這い上がってくる彼女からは、狂気を感じた。
追跡者の存在を確認するまで、ここで待機するつもりなのだが、こうも絡まれるとは……
彼女を黙らせるために少し“能力”を使おうとした瞬間、背後から声をかけられた。
「もう少し気の利いた言葉は掛けられんのか? 英。救出対象者の心情に寄り添えと教えたはずだが」
振り返るとそこには、俺と同じ黒のスーツに身を包んだ長身の女性が、傘を差したままタバコを咥えて立っていた。
容姿端麗……大袈裟ではなく、その言葉にふさわしい条件の見目を持ち合わせた女性だが、両の頬には大きな切創が目立つ。ポニーテールで束ねた金髪の先端は、少し痛んで広がっていた。
「お疲れ様です。九鬼班長。なぜここに?」
「少し離れた場所に次元の歪みは発見したが、そこからは何も出てくる気配は感じられなかった。監視だけなら他の部下たちだけで足りる」
そう言いながら九鬼班長は、ぬかるんだグラウンドを進み、俺たちに近寄る。
「本当は一服したいだけなんでしょ?」
「ははは、心外だな。私は彼らに成長の機会を与えたんだよ。……それよりお嬢さん、まずはこの男の非礼を詫びよう。不遜な態度で説明すらまともにせず、貴女を混乱させてしまった。申し訳ない」
九鬼班長は濡れた地面に片膝をついて彼女を傘の中に入れた。
「班長、タバコ……彼女も俺も未成年ですよ」
「あぁ、そうか。だが英は十八になっただろう?」
「タバコと酒は二十歳から。それと副流煙のことも気にしてくださいよ」
まったく、この人は……頼れる大人なのに一般的な常識が備わってないな。
九鬼班長は胸ポケットから携帯灰皿を取り出すと、タバコを口から落としてその中に収めた。
「一体なんなんですか、あなた達は……?」
怯えた彼女は九鬼班長から後退り、傘の外に出る。
「自己紹介が遅れましたね。菊田雫さん。私は九鬼と申します。こっちの男は英。我々は異世界転生した方を現実世界に連れ戻す仕事をしている者です。非公表ではありますが、政府の組織に属しています」
九鬼班長は菊田を落ち着かせるために、ゆっくりと、優しい口調で素性を明かした。
正直、ここまで親切に正体を明かす必要などない。この後は施設に送り、異世界での生活と、俺たちと出会った記憶を全て改竄する予定なのだから。
「今から我々と一緒に落ち着ける場所に来ていただきます。そこで再びこの世界で生活するための準備を……」
「私はッ! ……私はそんなこと望んでない、なんで今更! ……今更ッ!」
菊田は語気を強めて班長の言葉を遮った。しかし、それ以上言葉は続かない。
「人智を超えた力を簡単に手に入れてしまうと、ほとんどの者は堕落するか、更に力を欲するかに別れます。生きる為に必要な、知恵や努力を放棄してしまうのです。菊田さん、貴女にはそうなってほしくない」
班長はそう言うと、菊田を再び傘の下に入れた。
──面倒くさい。早く施設に入れてしまえばいいのに。班長は優しすぎる。
班長は常日頃から『救出対象者の心情に寄り添え』と言っているが、最終的に記憶を変えるんだ。優しくする意味なんてあるのか?
ピピッ! ピピッ!
耳の奥に緊急要件を告げる二連二拍のアラームが届いた。瞬時に体が強張った。班長も、自分の耳のイヤホンを押さえている。
『九鬼班長! 聞こえますか!? 次元の歪みから高レベルの追跡者が出現しました! こいつは……ドラゴンです!』
「わかった! ソイツを転送しろ! ここを戦場にする! お前たち、戦闘は禁止だぞ!」
俺は菊田を抱え上げ、班長をその場に残して校舎側まで駆け出した。
「イヤだ! 離して!」
俺の腕の中で菊田は子どものように暴れる。鬱陶しい。
校舎の庇の下に菊田を乱暴に放ると「ぎゃん!」と言う声が聞こえたが、構うことなく振り返って九鬼班長を注視する。
班長はすでに傘を捨て、何処からともなく取り出した巨大な戦斧を両手で持ち構えていた。
ィィィィイーーーーーン!!
空間が捩れる不快な音が鳴り響き、空中に小さな黒点が現れる。その点はすぐに大きな球体となり、中から白いドラゴンが降って現れた。
ドスゥゥーーーーン!
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*次回、ドラゴンとの対決…『序幕 中段』




