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甕に帰る狸  作者: futan
第一部 傾聴
9/25

8

 その老人は病室のベッドの上で陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。

 

 当時大学を出たばかりで職も決まらずバイクで故郷長野の近県の郷土資料館や博物館を巡っていた。その頃は興味が湧いた民間伝承や民話の採取が目的だった。それまでの自分は所謂オタクと呼ばれる人種でアニメや漫画にしか興味が持てなかった。だがゼミの単位習得のため訪れた地元長野の小さな郷土資料館に展示されていた出土品や古い民具に魅入られてしまった。琴線に触れるとはこの事なのだろう。モニターの中で完結する二次元の世界にしか興味が無かったはずの自分が土器や古い民具に強い関心を持った事に我ながら不可解に思いもした。しかし現実の出土品や使い込まれた古い生活用品など見ているとその道具達から滲み出るような時の重みや使われていた当時を想像する事で新たに得る知的好奇心に胸をときめかせた。合わせて民間伝承や民話などの収集にも関心が向いた。民間伝承や民話を採取して何かをしようとは思っていなかった。ただ知りたい、集めたい。それだけだった。それに収集はオタクの本能だ。

 以前の自分ならオタクスキルのひとつである情報収集力を駆使しネットを駆けめぐりモニターの中で好奇心を完結させていたと思うが実物を見てしまったらその物が醸し出すオーラのような物を感じられずにはいられなかった。 

 その日は隣の新潟県まで足を伸ばした。この町へ入り一息入れようとコンビニへ立ち寄ったところ駐車場で倒れてしまった。搬送された病院では病名は熱中症と診断された。

 病室で目覚めた時、隣のベッドで本を読んでいる老人が居た。病室の窓から入る光を透かし陽炎みたいに揺らめいて見えていた。自分の腕から点滴チューブが伸びた状況を理解出来ずに呆けたようにその姿を見つめていた。揺らめく陽炎の中から老人は突然話し掛けてきた。

「君もタヌキか・・・」

「はぁ」

まだぼんやりとした意識の中で投げ掛けられた言葉の意味を推し量る自分に構わずに老人は更に声を掛けてきた。

「君は『甕に帰る狸』と言う話は知っているかね?」と問い掛けてくる。側にいた看護師が会話に割って入り「また、その昔話の話ですか。垂井さんは誰にでもそのお話の事を聞くのね。さあ、さあ、お薬の時間ですよ」と看護師は此方へ目配せし穏やかに言うと垂井と呼ばれた老人の掌に錠剤を乗せた。

 それが垂井源一郎との出会いだった。

 

 空は白み、残月は消えかかりあの日出会った垂井さんのように儚く見えていた。

 意識を完全に取り戻した自分に垂井さんは太い黒縁の眼鏡の奥で睨み付けるような眼差しを送り付けながら話し掛けてきた。よく田舎町などで見掛ける気さくで話好きの老人には見えなかった。どちらかと言えば気難しく他人を寄せ付けない。そんな印象の人に急に話し掛けられどう対応すればいいのか戸惑を覚えた。垂井さんは高校で物理の教員を勤め上げ定年退職後は道楽で郷土史の私家版を編纂していると一方的に話始めた。

 入院中、ほんの三日程だったが垂井さんとは似たような趣味の為か深い意思の疎通が出来たように思う。

 垂井さんはこの町の郷土史を語ってくれた。だがそれは垂井さんにとって同好の士との楽しい会話では無かったようだ。自分が抱えている秘密や他人には理解できない思いを必死で伝えようとしている。そんな風に感じられた。実際、垂井さんが話してくれた郷土史は創作としか思えなかった。だが驚くべき程精密に作り上げられた信じ難い物語だった。それでも話は興味深くメモを取りながら聞く程だった。

 入院二日目の午後。垂井さんからこの町は砂丘の上に出来ている。その砂丘から出土した遺物と歴史に黙殺されたある文化の関係を聴いている時に垂井さんの元へ四十歳位の女性が訪ねてきた。家族かと思い挨拶をすると訪問者は垂井さんの担当ケアマネージャーだった。

「お話が弾んでいる時にごめんなさいね。退院後の事でお話が」と微笑み焦茶色の大きなトートバックから書類を取り出し始めた。ケアマネージャーに会釈し自分のベッドに戻った。盗み聞きするつもりは無かったが話は耳に入ってきた。

 新しいケアプランを持って来たと声が聞こえて来る。今の状態では退院後の一人暮らしは難しい。でも施設やケアハウスなどへは行きたくない。自宅で暮らしたいと言うのが垂井さんの望みだった。デイサービスの回数とヘルパーの回数を増やしましょう。今の垂井さんの状態ならまだ居宅で生活出来ますよ。ただ、不足の事態に備え行く行くはショートステイの利用も視野に入れた方が良いと思います。ケアマネはゆっくりと静かに説明した。その間垂井さんは黙ってケアプランの書面を見ていた。見ていただけで読んではいないようだ。垂井さんとケアマネージャーの話はまだ終わりそうも無いので時間潰しにデイルームへと向かった。背後でサービスを増やすため介護度の変更申請を・・・と声が聞こえてきた。

 デイルームで窓の外を眺めながらコーヒーを飲んでいると先程のケアマネージャーが声を掛けてきた。

「先ほどはお話を邪魔して済みませんでした。広瀬と申します」と名乗り正面に座り込むと名刺を差し出した。

「垂井さんとはどのようなお話をされていたのですか。あんなに沢山話す垂井さんを見たのは初めてなもので。あの人は他人との係わりを極度に嫌う方で・・・」

「この町の郷土史や伝承ですよ」テーブルに置かれた名刺を眺めながら答えた。

「もしかして、タヌキとかの昔話ですか」

「ええ、なんでも記録さえ憚られた民の民話とか言っていました」

「そうですか。ありがとうございました。何にしても誰かとお話したり交流を持ったりすることは良いことだわ」

訝る顔付きでもしていたのか広瀬さんは此方の表情を読み取り「ごめんなさい。垂井さんは本当に無口な方であの性格でしょう。毎月のモニタリングでも殆どお話してくれないの。それでどんな話題で盛り上がっていたのか気になっちゃって」と広瀬さんは困ったような照れ笑いを浮かべる。

「はぁ」

垂井さんとは昨日会ったばかりの人間だしどう答えて良いのか分からず生返事を返す。

「垂井さんのするお話はどう思いました」と広瀬は探るように聞いてきた。

「面白いです。とても興味を惹かれます」

「その話が作話でも・・・ですか?」

広瀬さんは顎を引くと興味深そうに此方を見つめ返してきた。

「創作であろうがなんであろうが話が面白いです。作り話でもあれだけ破綻も無く奥の深い設定は素晴らしいですよ」と話しながら自分が好きなアニメと同レベルで扱っていることに苦笑いが浮かんでくる。

「垂井さんて・・・、何か儚い感じがしません。いるのにいないような・・・」

広瀬さんは宙を見つめ独り言のように呟いた。

「はぁ。そう言えばそんな感じするかも」と質問の返答に広瀬さんはっとすると慌てて「ごめんなさい。変なこと言っちゃった」

大袈裟に腕時計に目を落とすと「あら嫌だ。垂井さんの退院前カンファがあるんだったわ。ありがとうございました」と言い残しデイルームから出て行った。あの人も同じ印象を抱いていたのだと後ろ姿を見送った。

 垂井さんの話にたまらなく惹かれ退院後、故郷へ戻ると何かに取り憑かれでもしたように呆気に取られる両親を尻目にこの町へ移り住む支度を始めた。自分でも理解できない衝動的な行動だった。本当に自分の意思なのか、何かに導かれているのではと疑問に思うことさえ有った。だが狂おしいまでに惹かれている「甕に帰る狸」という垂井さんが採取した民話。かつてこの地域に広がる潟の潟産みの神話。その話の結末を知りたいという欲求からは逃れられなかった。あの民話の事を思う度に胸の奥底から湧き上がる知りたいと言う欲望。知れば満足するのだ。それがどんなにつまらない結末だろうとがっかりする事はない。とにかく知りたかった。

 あの民話の持ち主、潟人はこの町の禁忌に属し町の人々は近寄ることは疎か語る事や記録さえも許さなかった。この地域で消し去られた文化が生み出したものだと話してくれた。潟人は昭和の中期までは存在していたと言う。潟人は人々に無視された民族だ。この地域の住民は彼等に対して暴力的な行為などは殆ど見受けられ無かったが住民は極力接触しないようにし無視を決め込んでいた。何故潟人をこの土地から追い出そうとしなかったのかと垂井さんに訊ねると文字通り彼等は触れてはいけない民族だったのだよ。彼等へは暴力や差別を介しての接触さえ禁忌だった。

 被差別民のような存在だったのですかの問いには違うと応答が返ってきた。根本的に違う。もっと限定的で潟人の話はこの町だけの問題だった。おそらく時の行政だって知らなかっただろう。極めて異質の存在だったと推察できる。と言ったきり掌を見つめ押し黙ってしまった。

 疑問も残る。見ることも語る事も記録さえも存在しない民族の事を垂井さんはどうやって知ることが出来たのか。「甕に帰る狸」は何処で採取したのだろう。ケアマネの広瀬さんは作話と言っていたが垂井さんの話は作話と思えない程不思議な強い実在感を持っていた。垂井さんの話す言葉の裏には何かがあると感じさせる語り口は好奇心を刺激しもっともっと知りたいと思わせた。

 この町へ移って直ぐにデイサービスセンター大月へ就職を決めた。入院中に耳に挟んでいた垂井さんが通所しているデイサービスだ。慢性的に人手不足に悩むこの業界での就職は思ったより容易かった。垂井さんだけでは無く他の年寄り達からも「甕に帰る狸」以外の昔話を収集出来るかも知れないとの打算的な考えも働いていた。

 何処か遠くで聞き覚えのあるメロディーが聞こえる。あれは目覚ましのアラームだ。意識が四年前の記憶の底から浮かび上がる。ノロノロとベッドから這い出し出勤の身支度を始める。三十分後、昨日の夢が原因で寝不足なのか妙に気怠く重い体を引き摺るよう車に乗り込み発進させた。

 デイサービスまでは車で十五分程。車を走らせていると何か様子が違って見えている。何が違うのかと自問してみるが答は浮かばない。何処か何かが違うのだ。デイサービスへ近づくにつれその思いは締め付けられるように強くなりあの目眩にも似た感覚に見舞われる。運転出来ない程度では無い。構わずに車を走らせた。そこのコンビニの角を右折すれば直ぐにデイサービスが見えてくるはずだ。が、右折してもそこにあるはずのデイサービスセンター大月は見えて来なかった。ぼんやりと揺らめく霞の中に見渡す限り葦が群生する湖沼が広がっていた。大気は白み例の渦が空から沸き上がるように浮かび上がっていた。

 異常な状況に加え渦を見ていると禍々しい恐怖が沸き上がり逃げるようにシフトをリバースへ入れアクセルを思い切り踏み込む。来た道を国道までバックのまま飛び出し、町へ車を向けた。曲がり角のコンビニも消えていた。何故町へ向かおうと思ったのか解らず混乱し思考停止状態のまま走行していると車に異常な振動を感じ反射的にブレーキを踏み込んだ。車を包み込む程の砂埃が舞い上がる。路面がいつの間にか砂利道になっている。この道は間違いなく送迎で通い慣れた国道だし左手に流れる川も間違いなく栗ノ木川だ。だが護岸工事がされていない。景色が変わっている。ここは何処だと呟き回りを見渡した。東には見慣れた飯豊連峰が見えている。やはり甕潟だ。間違いなくここは甕潟の大月のはずだ。

 そう甕潟・・・の。何か重大な思い違いをしているような思いが胸に浮かぶ。何だろうと必死に胸の中を探る。頭の中で鈍い光りが一閃する。自分が垂井さんを追いかけ移り住んだ町の名は甕潟だったのだろうか。違うような気がしてならない。胸の底から違うと曖昧な返答が響いて来るだけだった。今となっては自分が移り住もうとした町の名前さえはっきりしない。

 やはりこの町に捕まっているのだ。この町から出る事は出来る。故郷長野へも何度も里帰りしている。しかしこの町を出た後の記憶が曖昧なのだ。気が付くとこの町で生活している。両親に会い一緒に食事をし、近況報告した記憶は確かにあるのに実感がまるで無く夢で見たようなぼんやりとした記憶になっていた。何か解らないが色々な事を沢山忘れている気がする。何が分からないのか解らない事がさらに不安を増大させていた。

 汽笛の音に我に返った。モクモクと黒煙を上げ蒸気機関車が通り過ぎて行く。沿線に建ち並んでいたはずの住宅が一件も見あたらない。水田が寂しげに広がっているだけだ。この何処か見覚えのある風景は郷土資料館に示されていた昭和二十年代頃のモノクロ写真で幾度となく見た風景だった。

 タイムスリップの一言が抵抗も否定もなく脳裏に浮かび上がる。自分でも不思議なほど落ちつていていた。不安はあるがこんな理解できない状況下でパニックを起こさず冷静に辺りを観察出来ている。自分がアニメオタクのせいかも知れない。アニメではよくあるシチュエーションだ。そう思うと少しワクワクとした物が胸の底で沸き上がってきた。だが依然として景色が霞み歪んで見えている。それに加え強烈な違和感が生理的な気持ち悪さをもたらしていた。再び町へ向かい車を発進させた。

 駅の前で車を停めると予想通り木造作りの駅。橋上駅舎になる前の旧駅舎だ。やはりタイムスリップってやつだと確信を深める。駅には人影はなく駅員さえ見あたらない。これはタイムスリップしたとしても変だ。人子一人いないなんておかしい。当時の人間がいてもいいはずだ。車を駅に乗り捨て本町通りへ向かった。

 町は色褪せていた。色褪せて見えているのだ。不思議な事にこの町では自分だけが色を持っている。自分だけがハッキリと像を結んでいた。本町商店街にはシャッターのある店は無くガラス引き戸の店が並んでいた。古いモノクロ写真でしか見た事のない昭和初期の商店街の光景が広がっていた。お茶屋も酒屋も八百屋、金物屋から全ての商店が開店しているが人間が見あたらない。相変わらず風景は歪んだりうっすらと渦が見えたりしていた。

 突然、強烈な気配を感じたかと思うとぼんやりとした人影が通りに溢れていた。目を凝らした瞬間、雑踏の中にいた。飛び交う掛け声や騒めきや騒音に包まれていた。昨日見た夢とも現実とも区別の付かない出来事と同じ様子が広がっていた。人混みに揉まれ少しホッとする。雑踏の中で人が掠めたり、肩がぶつかったりしている。実体がある。人がいる。だが人々も風景も相変わらず色褪せて見えている。全身で感じる強烈な違和感も増している。生理的なこの感覚は細胞レベルで違和感を訴えているとでも表現すればいいのか。身体の奥底から本能みたいなモノが叫んでいる。ここは自分の場所ではないと。理屈でも言葉でも言い表せない感覚だった。

 どこからとも無くチンドンの音色が聞こえて来る。どきりと口から心臓が飛び出そうな程胸が脈打つ。高鳴る動悸で胸が苦しい。おぞましい予感が頭を過ぎる。徐々にチンドンの音色が近づいて来る。予感が確信に変わる。辺り一面が吐き気を催す生臭さが漂い始めた。

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