第一〇一話 互いのためにも断つ
「……いいよ。伊藤がそう言うのなら、俺もこれ以上はお前を責め立てない」
「…っ。ほ、本当か…!」
「あぁ。…ここで嘘なんて言ったって仕方ないだろう」
…正面から向き合ってきた彼を、許すことだった。
あれだけ心の奥底で怯え続け、恐怖心さえ抱くことになった相手。
根付いたトラウマを生み出すこととなった元凶に対して、こうもあっさりと許しを与えられるようになった自分に蓮自身も驚きながらも…その表情は、決して晴れやかなものなどではない。
むしろ面持ちに浮かべられた情感は言葉とは裏腹に、怒りも憎しみも喜びもなく。
問題はまだ終わっていないと言わんばかりに、真剣な眼差しだけを隣にいた周助へと向けていた。
しかしその佇まいは当然のもの。
確かに周助のことを、過去の苦い記憶であり忘れられない体験を味わわせてきた彼のことを許すと口では語った。
だが、それでもまだ蓮には──どうしてもこの男に、聞いておかなければならない点が一つだけ残っていたから。
「ただ、その前に一つだけ聞かせてくれ」
「な、何だ?」
「…どうして、今だったんだ? 俺に謝ろうとしてたなら、もっと前でも──それこそ中学を卒業する前でも、タイミングはあったんじゃないのか?」
「…ッ! …そ、それは…!」
他の何を差し置いても、蓮が今ここで尋ねておきたいと思った事柄はただ一つ。
彼が言わんとしていることは理解した。
経緯がどうあれ、こうして今日この場で再会した周助が謝ろうとしてくれていたことも納得はした。
ならば何故…今の今まで、このような謝罪の場を設けようとしてこなかったのか。
彼と蓮の関係値が以前よりも離れてしまったからだと言われてしまえば、それまでだ。
ただ、だとしても曲りなりにも同じ中学に在学していたのだから謝る機会は何度となく存在していたはずなのだ。
彼に謝罪をする気があったというのなら尚更の話。
けれども実際に起こった現実としては中学時代に謝られた記憶など皆無であり、なあなあの状態で卒業を迎えてしまった。
この歪とさえ言える流れの全容。
向けられてきた言葉とは裏腹に矛盾してしまっている点があるような、どこかで引っ掛かりを覚えざるを得ない違和感らしきもの。
単なる考えすぎであればそれはそれで構わなかった。
それでも目の前の周助が見せた、微かに表情を歪めるような素振りを目の当たりにしてしまえば何かしらの事情があったのだろうことは流石に察せる。
少なくとも、何一つ理由もなく言葉を交わさないまま別れる結果となったわけでは無い事だけは確かだ。
だから今、ここで問いただした。
どのような事情であれ、その点だけは全容を明らかにしておかなければならないと思ったからこそ更に深く尋ねていけば……眼前の彼がもたらしたリアクションは、どことなく狼狽えたものへと変化している。
そうして、所々の言葉を詰まらせながらも──こう言われたのだ。
「……実を言うと、な。少し前から、相坂には謝っておかないといけないって考えてたこともあったんだ。そっちの言う通り、謝罪をするタイミングだって作ろうとすれば作れたってことも間違ってない」
「だったら、どうしてそうしなかったんだ?」
「…みっともない話だよ。結論から言っちゃうなら、多分──怖かったんだと思う。一度俺たち全員、親とか先生に叱られてから自分のしでかしたことを思い知らされて…お前から、何か仕返しでもされるんじゃないかって考えたんだ。…そうされても、文句なんて言えるはずもないのにな」
「…!」
少しずつ語られてきた口調は、徐々にその勢いを落とし力なきものに変化していっていた。
しかし当の本人はそれを自覚しているのかしていないのか…判断は定かではないものの、そこから明かされたのは間違いなくあちら側の本心だったのだろう。
現に言葉を重ねている周助の様子は、もう隠しようもなくなってしまった己の情けない昔話を喋ることで明らかに項垂れてしまっている。
「だから、相坂とはあれから距離を置くようになったんだ。…いつかお前から、報復をされるんじゃないかなんて思い込みを持っちまったからな。本当に、全部全部……自業自得な妄想だったよ。……ごめん」
「…そうだな。最初から最後まで自分勝手だ」
「…ッ」
──そうしてそこまで説明されて、蓮はようやく事の全てを理解できた気がした。
かつての友人から心無き言動を浴びせられ、信頼関係に疑いの目を持つようになってしまった蓮。
いつしかその価値観は彼の中で誤魔化しようもない確固たるものとなり、それと同時に中学時代との友人とは会話をすることさえ恐れるようになってしまった。
…だが、その境遇は向こうにもまた似たようなものだったのだ。
蓮が彼らと必要以上に関わることを恐れていたように、あちらも蓮と再び交流することに少なくない恐怖心を抱いていた。
たとえそれが、自分たちが無意識だろうと故意にだろうと傷つけてしまっていた相手から何かしらの報復をされるかもしれないという…身勝手に過ぎる被害妄想によるものだったとしても。
無論、蓮がそのことに対して同情などする意味はない。
大前提として、この件について蓮は傷をつけられた側であり彼らは意図していなかったとしても傷つけた立場であるのだ。
意図の有無は関係ない。
どんな過程を経ていようともこの事実が変わることはなく、反省の色が見えようが蓮からすれば知った事ではない。
むしろ彼の立場を考えると、大なり小なり周助の言っていたことを実行しようとしていてもおかしくはないくらいで……それでも。
蓮はこのことに関して、彼らを必要以上に追い込む気概は既に失くしていた。
「──俺さ。今、高校に入学してから一人親しくしてるやつがいるんだよ」
「え…? 相坂?」
ゆえにこれは、どちらかというと単なる彼の独白。
誰に聞かせるわけでもない、意味もない独り言に近いもの。
「入学したばかりの頃はな、やっぱり伊藤たちとの件もあって誰かと話すのは怖くもあったよ。…だけどさ、そいつはそんなこと知った事かって勢いでこっちまで近づいてくるんだ」
「………相坂」
始まりは、本当にただの偶然だった。
道端で彼女を見つけてから些細なきっかけで交流を重ねるようになり、依然として誰かと親密なコミュニケーションを取ることに恐怖心を持ってしまっていた彼のすぐ近くまで構うことなく接近してきた一人の少女。
けれどもそれがいつしか彼の中にあった恐れを優しく溶かしていき、蓮の信頼を勝ち取るまでに至った……彼女との時間。
あの少女との関わりがあったから、今の蓮はここまで立ち直ることが出来た。
過去のトラウマとして根付いてしまっていた記憶を、どうでもよいことだと断ずることができると確信するほどに彼女の存在は大きなものへと変化していた。
「そいつのおかげで、今は伊藤とも普通に話せるくらいになってるんだ。最初から最後まで、あいつに助けられてきたんだよ」
「…そう、なのか。……相坂は、良い相手に会えたんだな」
「あぁ。ありがたいことにな」
だからもう、彼は過去の友人を恐れない。
蓮自身さえも気が付かぬ間に乗り越えられていた禍根を前にして、二度と過剰なほどに恐怖心を抱くことはないと自分にも言い聞かせるように蓮はこの場であえて口にした。
そしてそう伝えれば、周助は心なしか羨ましそうな眼差しと苦笑を浮かべた後にガックリと肩を落としていた。
…よって、これもまた蓮にとっては過去の因縁に決着をつけるための提案となる。
「だからさ、伊藤。……俺たちももう、必要以上に関わるのはここまでにしよう」
「……えっ? ど、どういうことだ?」
「簡単なことだよ。お互いのためにも、俺たちは今から関わり合うのは何の得にもならないんだ。…だから、俺もお前の方に何かをすることはしないって約束しておく。それと同じように伊藤も、こっちと関わるのは──やめにしよう」
「あっ──…」
蓮から投げかけた提案は、さして複雑でも何でもない。
しかしその重みだけは向こうにも伝わっただろうと確信させるものであって…要するに、お互い今から先の場面では友人ではなく、他人に戻ろうとの案を持ち掛けたのだ。
きっと互いにとっても、それが一番良いことだと直感していたから。
それぞれが相手のことを恐れ続け、心の奥底で友人だった相手に怯え続けるなんてことは厄介以外の何者でもないと理解していたから。
ならばいっそのこと、全ての関係性を白紙に戻してしまった方が円満な解決に導くことが出来る。
…当然、簡単な話ではない。
いくら傷つけ傷つけられた相手であろうと、一時は間違いなく友人として関わっていた相手との縁を完全に断つだなんて即座に判断できるはずもない。
おそらくこう告げられた側たる周助の胸中にも、思うところは様々あったろう。
その内心で何を考えているかまでは蓮にも察せるところではないが…それでも、この瞬間だけはただただ向こうが出す結論をジッと待ち続ける。
そこから何分が経ったのか。
あるいは数秒程度しか経っていないのかもしれない。
されどごく短い時間が永遠にすら感じられた沈黙の時間も、周助が重々しい雰囲気の中で発してきた返事によって終わりを告げた。
「……分かった、よ。…相坂がそう言ってくれるなら、俺も過干渉はしない」
「…ありがとな。こっちの提案を聞き入れてくれて」
「礼を言うのはこっちの方だよ。……相坂、今まで──ありがとう」
「……お前も、今後は気を付けてな」
「………」
──彼が最終的に出した返事は、蓮の案を受け入れること。
もうこれで、二人の間に余計なしがらみは無くなった。
ここから先、蓮と周助は友人という間柄でもなく、中学時代の因縁を絡ませた相手ですらなく…完全な他人という関係値に戻ることとなる。
悲しくないとは言わない。寂しくないと言ったら嘘になる。
しかし、これがお互いにとっての最善だと信じているからこそ決意に踏み切った相手の思いを踏みにじるのは…違うだろうと、どちらもが把握していたからこそ。
余計な言葉は飾らず、最後の最後に友だった相手へと今までの別れを伝えてから──周助が静かに立ち上がり去っていく後ろ姿を、蓮は視線を外すことなく見つめ続けていた。
…これで、本当の意味で蓮を取り巻いていた過去の一件は──終幕を迎えた。




