騒乱6
「まあ、戦ですって? それも、堀内衆と一向門徒を相手に戦うのですか?」
なんとか小夜の魔の手を逃れた初は、廊下の隅にうずくまった。
冷や汗をこぼしながら、懸命に息を整える。まだ全身に小夜の指先の感覚が残っていて、初は恐怖に軽くえずいた。
「直定、初の話は本当なのですか? 戦になるなど、私は聞いておりませんよ」
「いえ、これはあくまで備えをしておるだけ。実際に、戦になることはないと思われまする」
小夜の流し目に、直定が慌てて答える。
うずくまっていた初は、二人の会話を聞いて、ぱっと顔を上げた。
「そ、それは真ですか、兄上!?」
直定は「わしは、一戦交えても良いと思っておったのだがな」と渋面を作りながら、
「噂を聞き付けた畠山家が、調停に乗り出してきた。こちらには、有馬家当主の身柄もある。堀内とて、この申し出を突っぱねるわけにはいくまいて」
父上はかなり立腹しておったがな、と直定は苦笑する。首を傾げる初の頭を、直定は優しく撫でつけた。
「一向門徒の件も、青海殿が動いておられる。三河にも、海生寺からの使者が送られ、話し合いの席が設けられたそうじゃ。戦になるのは、本願寺とて本意ではないはず。確約はできぬが、まず大丈夫であろう」
直定の言葉に、初はようやく心を落ち着けることができた。
よかった。少なくとも、自分のせいで戦になることだけはなくなった。
胸を撫で下ろす初を優しげに見つめていた直定は、不意に表情を引き締めると、
「それに、今は熊野衆や寺同士で、小競り合いをしておる場合ではないしな」
ぽつりとこぼされた呟きに、初は目を瞬かせる。
「兄上、それはどういう──?」
「おら、早くこっちに来い! きりきり歩かんと、足腰立たんようにするぞ!」
突然上がった罵声に、初は意識を奪われた。
庭に視線を向けた初は、おかしな格好の一団を目にして、ぱちぱちと目を瞬いた。
「……夜叉丸。お前ら、なにやってんだ?」
緋色の狩衣をまとった夜叉丸は、初の声に、びくりと肩を跳ね上げる。
夜叉丸だけではない。伊助に岩太と、夜叉丸党の年長組は、揃って色とりどりの衣を身に着けている。
まるで仮装行列のような格好をした夜叉丸たちは、恐る恐るこちらを振り返る。子供たちの顔を目にした初は、思わずその場で仰け反った。
「な、なんだお前ら? なんで化粧なんかしてんだ?」
白粉まみれの顔が五つ。それも美少年ならともかく、お世辞にも整っているとは言い難い顔が並ぶと、もはや異常としか感じられない。
目尻と唇に紅まで差された夜叉丸は、もじもじと恥ずかしがりながら、
「だって……お方様が、この格好でいろって……」
初は、じろりと小夜に視線を向ける。
なぜか、うっとりした顔の小夜は「やっぱりいいわぁ」と、羞恥に震える夜叉丸たちを見つめた。
「ねえ見て、初。まるで、お猿さんみたいじゃない? なんて可愛いんでしょう」
ため息を漏らす小夜に、初は瞼を眇めた。
相変わらず、この人の感性は独特だ。あんまり特殊過ぎて、時々ついていけなくなる。
次は女装もいいかしら、とこぼした小夜に、夜叉丸たちは身震いする。
もはや、羞恥さえ通り越したのだろう。一人、無の境地に達しつつある伊助に合掌した初は、ふと夜叉丸たちが連れた幼子に目をとめた。
「あれ? お前らの仲間に、そんな子いたっけ?」
夜叉丸党を引き取る際、初は全員と面通しを行っている。
人を雇う以上、相手の人品を確認するのは、雇い主の義務だ。現代で町工場の経営者だった父親に、何度も言い聞かされている。
岩太に腕を掴まれているのは、7、8歳ほどの子供だった。
伸び放題の蓬髪に、垢で真っ黒になった顔。穴だらけの着物は、土と泥で汚れている。手足は細く、明らかに栄養が足りていない。小柄な体格から7、8歳と予想したが、本当はもっと年かさかもしれない。
首をひねる初に、夜叉丸はふるふると首を振った。
「とんでもない! こいつは館へ忍び込んだ、盗人でございます!」
「厨の中で、食いものを漁ってたところを見つけたんです」
「姫様のところへ連れて行って、成敗してもらおうと思って」
夜叉丸の郎党たちが、幼子に厳しい眼差しを向ける。
ひどく濁った眼をした幼子は、疲れ切った顔で、初たちのやり取りを眺めていた。周囲で交わされる会話にも興味なげで、まるで人形のように佇んでいる。
「盗人か。ならば、法度に従って裁きを」
顔を固くした直定の横を、小夜はするりとすり抜ける。
ほとんど妖怪みたいな動きで幼子に迫った小夜は「まあまあっ!」と、両の瞳を輝かせた。
「ちょっと薄汚れてるけど、磨けば光るわ。私、お猿さんだけじゃなくて、猫も欲しいと思ってたの。この子ならきっと、とびきりの美猫に」
「母上。この子が怖がるから、ちょっと抑えて!」
ずいずいと迫る小夜を押しのけ、初は幼子の前に立った。腰をかがめ、目線を合わせようとする。しかし、幼子の茫洋とした瞳は、初の姿を捉えようとはしなかった。
「お前、名前は? なんで盗みになんて入った? 腹でも減ってたのか?」
厨にいたという話からして、十中八九、食べものが目当てだろう。身なりからして、どこぞの土地から流れてきた、孤児かもしれない。
どこから来たのか? 親はどうしたのか? 身寄りがないなら、海生寺の孤児院を紹介しようか?
初は根気強く話しかけるが、幼子は反応する気配を見せない。
一向に進展しない会話に、業を煮やした直定は、初の肩を掴んだ。
「もうよい。幼子とはいえ、盗みは盗み。安宅家に法度に従い、この者には鞭打ちの刑を科す」
「待ってください、兄上。相手は子供ですよ? ここは、穏便に済ませるべきです」
「そうよ、直定。この子は後で、私が貰うんだから。鞭打ちなんて、やめてちょうだい」
不穏な単語を発した小夜は、幼子の周囲をぐるぐると回っている。様々な角度から幼子の姿を眺め、吟味している様には、不安しか感じられない。
「それでは道理が通りませぬ。他の土地ならいざ知らず。我が安宅領では、誰であろうと法度に従うのが習い。たとえ幼子が相手であろうと、法度に背いては、周囲に示しがつきませぬ。初も、そのように聞き分けのないことを申すでない」
「ですが、幼子に鞭打ちとはあまりにも……」
「初?」
ぽつりと、幼子の声。
直定と言い争いを続けていた初は、背後を振り返った。
さっきまで、何の反応も見せなかった幼子が、初を見ていた。濁っていた瞳には、意志の光が宿り、それはやがて憎悪の色へと変わっていく。
「お前……安宅の初姫かっ」
「そうだけど……それが、どうかしたか? もしかして、どこかで会って」
突然、幼子は身をよじった。細い身体のどこにそんな力があったのか、夜叉丸たちの手を振り切る。
幼子の両手が、初へと伸びる。素早く反応した直定が、寸でのところで幼子を抱き留めた。
片腕一本で幼子を抱えた直定は、そのまま幼子の身体を地面に叩き伏せた。
「何のつもりじゃ!? 貴様、もしやどこぞに雇われた刺客か!」
激高した直定が、腰の脇差に手を掛ける。首筋に刃を押し当てられても、幼子は暴れるのをやめなかった。
「お前のせいで……お前のせいで、お父ちゃんは!」
幼子は狂ったように、全身を暴れさせた。肌が傷つき、幾つもの赤い筋が幼子の首に刻まれていく。
固まっていた夜叉丸たちも、慌てて幼子に組み付く。両手足を押さえ込まれた幼子は、炯々と光る瞳で、立ち尽くす初を睨め上げた。
「このっ、離せ! こいつのせいで、おらたちはひどい目に遭ったんだ! おら、こいつを一発殴らないと、気が済まねぇ!」
「ふざけたことを抜かすな! 薄汚い小童風情が、我が安宅家の姫に手を出したこと、後悔させてくれる!」
気が高ぶった直定は、脇差を振り上げる。
刃が幼子の首に振り下ろされる寸前。小夜は脇差を持った直定の手を、後ろから掴んだ。
「おやめなさい、直定」
「離してください! こやつは、初をっ……」
小夜は、直定の頬に手を当てた。怒り狂う直定をなだめるように、指先がそっと、頬を撫で上げる。
「おやめなさい。童のしたことに、そう目くじらを立てないで。初も、怪我はありませんね?」
「は、はいっ。この通り、なんとも!」
両腕を広げた初に、小夜は満足げにうなずく。
呆然とする直定の手から、小夜は脇差を抜き取った。そのまま直定の腰に残った鞘に、脇差を刺し戻す。
「いい子ね」と、直定の頭を一つ撫でた小夜は、組み伏せられた幼子の前にしゃがみ込んだ。
「あなた、名は何というの?」
「……タケ」
「そう、タケというの。良い名ですね」
にこりと、小夜は微笑んだ。それはまるきり母の笑顔で、普段の小夜を知っている初は、ちょっと信じられない心持ちになった。
「タケ。あなたどうして、私の娘を襲ったりしたの? この子が何か、悪さを働いたのかしら?」
押し黙るタケに、小夜は微笑みを向け続ける。
タケを捕らえていた夜叉丸たちに命じて、その四肢を解放させる。戒めを解かれたタケは、まるで手負いの獣のような瞳で、小夜を見つめ返した。
「教えてちょうだいな、タケ。話してくれないと、何もわからないわ」
周囲に視線を走らせ、さんざんに逡巡した末。タケは、ぼそりと言葉を吐き出した。
「……おらのお父ちゃんは、木地師だ」
「そうなの。きっと腕の良い職人なんでしょうね?」
「大和で一番の腕利きだった。お父ちゃんの作る木椀は評判で、都から買い付けに来る客だっていたんだ」
小夜の相づちのせいか、タケの言葉はだんだんと滑らかになっていく。
自分の父親が、いかにすぐれた職人だったか。とつとつと語ってみせるタケに、小夜は笑みを浮かべたまま、うなずきを返す。
徐々に熱を帯びていくタケの語り口は、しかし、唐突に冷え込んだ。
「……去年のはじめころから、いつもお父ちゃんの木椀を買ってた商人が来なくなった。他の職人のとこに出入りしてた商人も、いなくなった。もっと安くて、良い木椀が手に入るようになったからって」
タケの蒼褪めた顔に、初の胸がざわめく。
なにか、とても重大な事態が起こっているという予感が、初の両肩にずしりと圧し掛かった。
「紀州の木地師が、新しい轆轤を使うようになったって。それを使えば、誰でも簡単に見事な木椀が作れる。だから、お父ちゃんの木椀はいらないって」
立ち尽くす初に、タケの瞳が向けられる。急速に膨れ上がる予感が、初に耳を塞げと告げるが、現実は待ってはくれなかった。
「その轆轤を作ったのは、安宅家の初姫だって商人が言ってた。お父ちゃんは、こんなの一時のことだって木椀を作り続けたけど……でも、商人は結局、帰って来なかった。みんな安い紀州の木椀を買っちまう。木椀だけじゃねえ。盆も箸も、それまで大和の木地師が作ってた品物は、みーんな紀州から買うようになった。木椀が売れなくなったお父ちゃんは、都に働きに行くって出て行って、それで……」
憎悪を含んだタケの視線が、初の瞳を貫いた。
「みんな、お前のせいだ……お前のせいで、お父ちゃんは帰って来なくなったんだ。他の木地師たちも、みんな仕事がなくなっちまった。お前のせいで、おらたちは、こんなみじめな暮らしを……」
うつむいたタケの口から、嗚咽が漏れる。ぽたぽたと滴った雫が、乾いた地面に吸い込まれていくのを、初は黙って見つめていた。
「この者に食事を。それから風呂に連れて行って、身体を洗ってあげなさい。身の振り方については、少し落ち着いてから考えましょう」
直定は、もの言いたげな視線を向けたが、小夜にひと撫でされて引き下がった。
夜叉丸たちに連れられ、タケは去っていく。とぼとぼと歩いてく小さな背中を、初は見ることができなかった。
「初」と、小夜の声。のろのろと顔を上げた初は、小夜の微笑みを目にした。
「大丈夫ですか、初? 今日はもう休みなさい。夕餉は、部屋へ運ばせますから」
「……は、母上。私は」
「初」と、小夜は話題を断ち切った。「休みなさい。これからのことは、明日、考えればよいのです」と、初の背中に手を当てる。背を優しくさすられ、初は言われるがままに歩き出した。
「直定、タケのことですが。決して無体な扱いを──」
小夜の呟きを、鈍い振動が遮った。
重く、腹の底に響くような音が、熊野の山々にこだまする。何事かと身構えた直定は、素早く周囲の者に指示を飛ばし始めた。
「誰ぞ、表に行って見てまいれ! 何が起こったのか、速やかに調べるのじゃ! 残りの者は槍を持ち、館の守りを固めよ!」
自身も小者から槍を受け取った直定は、素早く館の門へと駆けていく。
「まあ、恐ろしい。いったい、何の音だったのかしら?」
その場に伏せていた小夜が、周囲を見回しながら立ち上がる。
館に勤める者たちが騒ぐ中、ひとり呆然と立ち尽くす初の姿に、小夜は小さく眉をひそめた。
「初、部屋へ戻りましょう。この騒ぎなら、直定に任せて」
「矢代村だ」
初は、館の屋根上を見つめた。日置川の河口近く、矢代村のある辺りを見て、顔から血の気が引いていく。
初の視線を追った小夜は、黒い煙が立ち昇っているのを目撃した。
「あれはいったい……あ、初!」
小夜の制止も耳に入らず、初は一心不乱に駆け出した。
次回の更新は、8月21日です。





