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騒乱5

 その後、どこをどう歩いてきたのか覚えていない。気が付くと、初は安宅湊に降り立っていた。


「姫様、どうかなさいましたか? お顔の色が優れんようですけど」


 心配げな顔をする船頭たちに手を振り、初はふらふらと歩き出す。


 人が死ぬのは、決して珍しい話ではなかった。


 今は、戦国の世だ。どこそこの誰が、戦で命を落としたという話は、耳にする機会も多い。そうでなくても、病や怪我で死ぬ人間は数知れなかった。医療技術も未熟で、ほんのちょっとしたことで、呆気なく人は死んでいく。

 頭ではわかっていたはずだ。なのに、妊婦の死という現実は、ひどく初の心を打ちのめしていた。


 武家屋敷が建ち並ぶ通りを抜け、ふと、初は館の馬場を目にした。

 いつも家臣たちが修練を積んでいる場所。普段ならば、弓や鉄砲、乗馬の訓練が行われているはずなのだが、今日は少々様子が違っていた。


「なにしてんだ、あれ?」


 土が剥き出しになった馬場に、無数のむしろが敷かれている。

 筵の上にはつるを外された弓、鉄砲、槍。普段は、館の蔵にしまってあるはずの足軽具足までもが、所狭しと並べられている。


 普段から馬場を使っている家臣たちだけでなく、侍女や下男など大勢の人々が筵の間を走り回る様に、初は首を傾げた。


「おい、そこで何をしておる!」


 馬場を囲む柵越しに様子をうかがっていた初は、誰何すいかの声に振り返る。

 背後に郎党を従えた信俊のぶとしは、初の顔を見るなり、小さく舌打ちした。


「なんじゃ、お前か。今は忙しい、暇つぶしなら他の場所にいたせ」

「兄上、これはいったいなんの騒ぎです?」


 初の問いかけに、信俊は「見てわからんか」と馬場を示す。


「戦の準備よ。これより安宅家は、堀内家の者どもと一戦を交えるのじゃ」

「なっ」


 絶句する初に、信俊は「何を驚いておる」と薄笑いを浮かべた。


「堺での諍いは聞き及んでおる。堀内め、自らを熊野別当くまのべっとうなどとうそぶきおって。その驕り高ぶった鼻っ柱、わしがへし折ってくれる!」


 手にした槍を掲げ、信俊は気勢を上げた。背後の郎党たちも、信俊に同調する。


 戦だと吠え立てる一団に、初は数瞬、声を失った。


 戦? 安宅家と堀内家が? 疑問がぐるぐると渦を巻き、まともな思考を奪っていく。

 なんとか自失から立ち直った初は、立ち去ろうとする信俊の袖に縋った。


「な、なぜです!? なぜ、堀内家と戦などという話に!?」

「武士の対面を傷つけられたのだ。このまま黙っていては、武家の名折れよ。槍を交えるのは、当然のことではないか」


 怪訝そうな顔をする信俊。まるで初のほうが、おかしいとでも言いたげである。


「で、ですがっ。堺での一件は、新三郎よりさだ兄上の活躍で、我らが勝ったではありませんか! これ以上、戦をする必要など、どこにも……」

「小勢を蹴散らした程度で、収まる問題か。堀内家は、我らに牙を剥いたのだ。この先も、戦を仕掛けて来ぬという保証はない。ならば、こちらから打って出て、叩き潰すのが上策よ」


 それに、と信俊は初が掴んだ袖を振り払った。


「敵は、堀内だけではない。一向宗もまた、我らの敵じゃ」


 信俊は、忌々しげに歯を剥き出す。


「本願寺の坊主共めっ。非道を働いたのは、奴らが先だというのに、我らを詰問してきよった。挙句の果てに、国質くにじち郷質ごうじちなどと騒ぎ立てておる」

「くにじち?」


 なんだそれはと困惑する初に、郎党のひとりが語ってくれた。


 国質も、郷質も、簡単に言えば質取しちとり行為だ。金を貸した相手が債務不履行に陥ったり、あるいは利権を侵害された、名誉を傷つけられた場合に、当事者以外の者の身柄や動産を質に取る行いである。

 質に取られるのは、債務者、加害者の同国人や同郷の者。まったく面識のない人間が、質に取られることも多いという。


 本願寺側は、海生寺からの謝罪と賠償。寺を焼き討ちした罪人の処断が行われない場合、熊野の人間を質に取ると訴えているらしい。それも、浄土真宗の寺院が存在する地に足を踏み入れた者を、無差別に襲うと。


「そんな無茶苦茶な……」


 この時代の理不尽さを承知している初でも、この慣習には眉をひそめざるを得ない。

 もめ事を起こした相手と、同郷というだけで捕えたり、傷つけたりする。とても、まともな人間のする行いとは思えなかった。


「長袖者共が、我らを小領主と侮りおって。目にもの見せてくれる!」


 怒りを募らせる信俊を、初は呆然と見上げた。


 戦になる。安宅家と堀内家が。このまま行けば、一向宗とも戦わねばならない。そうなったら、いったいどれほどの犠牲が出るのか……


 初の脳裏を、まだあどけなさを残した少女の笑みがよぎった。初に腹を撫でられ、これで安心と微笑んでいた少女の姿を、初は思い出した。


「……戦をすれば、人が死ぬんですよ?」


 うつむき、こぶしを握る初に、信俊は鼻白んだ。


「死を恐れる武士などおらぬ! 初、貴様も武家の娘ならば、自ら槍を取るくらいの気概を示せ。己が恥辱を雪ぐためと、兵共を鼓舞せよ!」


 武門の娘として振舞えと、信俊は初をたきつける。その獣のような視線から逃げるように、初は館へと駆け出した。

      








「兄上! 直定兄上はおられるか!?」


 館中に響くような声で、初は直定を呼ばわった。


「兄上、兄上ぇーっ!」

「何事だ、初!? また誰かに襲われたのか!?」


 廊下の向こうから血相を変えて走り寄ってきた直定に、初は飛びついた。


「兄上、戦をするというのは本当ですか!?」

「怪我はないか、初? 傷は負っていないな? いったい、どこの誰にやられたのじゃ!?」

「違います! 私が聞きたいのは、戦をするかどうかという話で」

「者共、出合え出合え! 我らが姫が戦をご所望ぞ! おのれ、一度ならず二度までも我が妹に手を出すとは。どこのどいつか知らぬが、必ずこの世の地獄を味わわせてっ──!?」


 興奮し、まくし立てていた直定が跳び上がった。

 何事かと思う初の前で、直定は身を竦める。首筋を押さえ、背後を振り返った直定は、上ずった声を上げた。


「は、母上! いきなり背後に立たないで下さいと、いつも言っているでしょう!?」

「何を言っているの? 武人ならば、常に周囲に気を配るのは、当たり前のこと。敵の間者ならいざ知らず、こんな女子一人の気配にも気付かないなんて。直定、あなた弛んでいるんじゃなくて?」


 袖で口元を隠した小夜さよは、上目遣いに直定を見つめる。途端、何か邪悪なものに睨まれたように、直定はその場から飛び退った。


「は、母上が特殊なだけです! いつも音も立てずに現れてっ」

「まあ、失礼な子。人を妖か何かのように言うなんて。あなた、いつから母にそんな口を利くようになったの?」


 ぬるりと伸びた手が、直定の首筋を撫で上げる。大きく全身を震わせた直定は、そのまま腰から砕けるように座り込んだ。


「あらあら、どうしたの? いきなり座り込んだりして。あなた、近頃働き過ぎだから、疲れが出たんじゃなくって?」

「お、おかまいなく! しょ、少々気が抜けただけのことで……」


 近づこうとする小夜を制しながら、直定は立ち上がる。足に力が入らないのか、障子に縋り付いた直定の手が、次々と障子紙を破っていった。


「あらあら、この子ったら」


 直定の様子に呆れていた小夜の目が、するりと初を捉えた。


「それで、いったい何があったのかしら? この母にも、教えてちょうだい?」


 ハッとする間もなかった。気が付いたときには、背後から小夜に抱きしめられていた。


 小夜の吐息が、初の耳の淵をくすぐる。まるで大蛇に全身を絡めとられたような感覚。背筋を駆け抜ける悪寒に、初は小さく悲鳴を上げた。


「ほらほら、どうしたの? 黙っていては、わからないわよ? それとも、私には話せないようなことなのかしら?」


 小夜の指先が、まるで別の生き物のように蠢く。その繊細で艶めかしい指使いが這い上ってくる感触に、初は恐怖を感じた。


「いや、待って、ちょっ、そこは弱いかららめえええぇぇぇぇ──っ!」


 初の絶叫が、館にこだました。

次回の更新は、8月18日です。


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