襲撃1
この人出では、見物どころではない──頼定の判断で、初たち一行は大坂を後にした。
表の通りは移動できないため、染物屋の店主に頼んで、裏口から脱出する。そのまま建物の裏手を伝い、橋を渡る際には、また家臣と人夫たちが人垣を作って、どうにか堀の向こう側までたどり着いた。
「姫様。お加減が優れないようでしたら、どこかで休憩でも」
足元から、菊が覗いてくる。
馬上にいた初は、心配げな顔をする菊に、首を振った。
「大丈夫、少し人混みに酔っただけだ」
「ですが……」
「堺まで、それほど時も掛からん。馬に乗っているだけだから、大丈夫だよ」
微笑んで見せた初に、菊は眉根を寄せる。だが、それ以上は何も言うことなく、引き下がった。
「何かあれば、お声がけを」隣を歩く菊の視線を感じながら、初は顔を上げた。背後を振り返りそうになり、意志の力で押しとどめた。
「ああいう者は珍しくないのだ」
頼定は言った。
大坂は、浄土真宗本願寺派教団の本拠として、毎年諸国の門徒が参詣する。
明け方に寺の門が開くと、門徒たちは我先に中へ入ろうとし、そのおりの混雑で、圧死者ができることは珍しくない。むしろ、門徒たちに囲まれて死ぬことを無上の喜びと考え、わざと参詣者の間に倒れる者もいる。
「あの老爺も、そういった類であろう。まったく難儀な連中よ、一向門徒というのは」
「……あの人は」
「うん?」
「あの老爺は、なぜ、あのようなことをしたのでしょうか?」
大勢の人たちに踏み潰されて死ぬ。そんな最後を選んだのは、なぜなのか──
「さあのう。戦で家族を失ったか、病にでも罹ったか。あるいは、身内に捨てられたのやもしれん。あの年じゃ、世を儚んでもおかしくはない」
頼定の声は、淡々としていた。どこか突き放しているようですらある。
冷淡な頼定の態度に、初は苛立った。人が死んだことを、当たり前のように語る口調が許せなかった。
そんな初の心根が伝わったのか、頼定は前を向いたまま言った。
「この世には、救われぬ命などいくらでもある。それにいちいち心を痛めていては、身が保つまい」
「ですがっ……」
「初、それは傲慢ぞ」
押し込められた声に、初は息を詰めた。
「お主は、あの老爺の何を知っておる? あの老爺が、どのような人生を送ってきたかすら、お主は知るまい。ただ目の前で死なれたから、憤っておるだけよ」
「お主は、あの老爺に何をしてやった? 何をしてやれた? ただ一度、すれ違っただけの相手が、不幸になったから憤る。それで慈悲の心を示したつもりか、お主は」
「他者を慮るのは良い。凡下の子を下人にするのも良かろう。だが、この世に生きるすべての人間を救うなど、土台無理な話よ。わしらは、神でも仏でもない。己が分限に見合った者たちを守るだけで、精一杯よ。それをわきまえず、身の程を超えた行いをしようとすれば、いずれ手酷いしっぺ返しを食らうことになる。我らはただ、安宅荘に住み暮らす民を安んじる。それだけを考えておればよい──」
馬の手綱を握り、初はうつむいた。
たしかに、頼定の言う通りかもしれないと思った。
現代にいた頃でさえ、自分は何もしてこなかった。貧しさや病に苦しんでいる人がいても、具体的な何かをしたことはない。そういう人たちがいると知っていただけで、彼らに手を差し伸べたことが、一度でもあったか? 何かをしてやったことは? この時代に来てから、急に博愛の精神に目覚めたとでも言うつもりなのか?
(でも──)
初は、先ほどの光景を思い出した。人混みに身を投げた老人の顔を思い出した。
そこにあったのは悲嘆でも、憎悪でもない。諦念とも、絶望とも違う。ただ、ひたすらに満足そうだった老人の顔を、初は思い出していた。
(本当に良かったのか? 自分の人生の最後があんな形で、本当に──)
脳裏にこびりついた情景に、初は唇を噛みしめた。
昼を過ぎても、熊野街道は混雑していた。
本願寺門主顕如が現れたと、近隣でも話題になっているらしい。噂は、驚くほどの速さで広まり、周辺の村々や街道を行く人々を、大坂へ惹きつけていた。
「街道を通っては、かえって時間が掛かろう。仕方ない、帰りは渡辺津で舟を用立てるか」
頼定の判断に従い、一行が動き出そうとしたときだった。
彼方から聞こえてきた怒号に、初は何事かと振り返る。
街道の脇、小さな林の陰から、複数の騎馬が一斉に飛び出してきた。
馬上にいるのは、武士だ。鎧兜は身に着けておらず、平服に弓や刀、長巻を手にして、頭上で振り回している。
街道を歩く人々が、見る見るうちに左右へと別れていく。戦乱の時代に生きているだけあって、緊急時の対応が迅速だった。
潮が引くように出来上がった空白地帯を、騎馬の集団は、初たち一行を目掛けて突き進んだ。
「なっ、あれは!?」
「どうした、亀次郎。奴らを知っておるのか?」
急ぎ家臣たちに円陣を組ませながら、頼定は問いかける。
騎馬にまたがる武士たちを見て、亀次郎は表情を引き攣らせた。
「あれは堀内の手勢です! 堺の湊へ着いたとき、ひと悶着がありまして。それで……」
「奴らめ、意趣返しに来たというわけか」
この時代の人間は、おしなべて自尊心や名誉意識が強い。わずかでも対面を傷つけられれば、すぐさま報復に走る。
初は、足元を見下ろした。
人夫たちの中には、すでに逃げ出した者も多い。わずかに残った男たちの間で、震えていた伊助は、探るようにこちらを見返してきた。
自分を助けてくれるのか。それとも見捨てるのか。
いざとなれば、自分だけでも逃げ出てやるという覚悟が、伊助の瞳には宿っていた。
「……大八、手綱は取れるか?」
「え? あ、いや、それは……」
亀次郎に肩を貸されていた大八が、口ごもる。
「初、大八は馬の扱いが下手じゃ。手綱はお主が握って、大八を後ろに乗せてやれ」
「新三郎様!」と、大八は情けない顔になる。子供のころから舟の扱いに長ける海賊衆は、馬を苦手とする者も多い。
「大八、我らは堀内の相手をする。お主は、初たちと共に行け」
荷の中から武具を取り出す。頼定の四角張った顔は、緊張でいつになく張りつめていた。
「何を仰います! わしもここで戦いますぞ!?」
「その足では、歩くことも難しかろう。騎馬を相手にするのは、無理じゃ」
「しかしっ!」
「案ずるな」
頼定が、口角を吊り上げる。どん、と拳で胸を叩くと、金属の鳴る音がした。
服の下に、鎖帷子を仕込んでいたらしい。他の家臣たちも、弓に手槍。鉄砲を構えた者は、懐にいれていた炭から火縄に、種火を移している。
「あの程度の軍勢に後れを取りはせん。大八は、初たちを守れ。よいな!」
「……はっ! 身命に代えましても!」
奥歯を噛み合わせる大八を、亀次郎が馬の背に押し上げる。
「菊、お前もこっちに」
「わたくしは走りますので」
菊は、懐剣を示した。いつにも増して剣呑な眼差しに、初のほうがたじろぐ。
堀内の軍勢は、もう目と鼻の先まで迫っている。
馬に鞭をくれた頼定が飛び出していくのを見送り、初は馬首を巡らせた。
「伊助、馬の口を取れ!」
じっと成り行きを見守っていた伊助は、両目を見開いた。すぐさま背に負っていた葛籠を投げ捨て、馬の手綱に飛び掛かった。
この時代の本願寺では、実際に門徒による身投げがたびたび起こったそうです。
信仰というのは、かくも恐ろしいものか……
次回の更新は、7月1日です。
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