大坂2
紅屋にて、頼定を歓迎する宴が開かれた翌日。
頼定の指示によって、着々と用意されていく旅の荷物に、初は驚いていた。
「よろしいのですか? 兄上だって、まだ着いたばかりなのに」
「叔父上がいなければ、進められぬ話も多い。わしも退屈なのよ」
それにしたって、急すぎやしないだろうか?
困惑する初に、亀次郎は、
「新三郎様も、婚姻が近いですからな。今のうちに羽を伸ばしたいのでしょう」
「なるほど」
頼定にも、いろいろあるのだろう。
温かな視線を向ける初と亀次郎に、頼定は不思議そうな顔を向けた。
堺から大坂までは、日帰りできる距離にある。最低限の荷物と護衛の家臣たちを連れて、初たちは一路、大坂へ出発した。
熊野街道には、大勢の人々が行き交っていた。
その名の通り、熊野三山へ続く街道には、熊野詣に向かう参拝客に加えて、馬借や車借、行商人が数多く歩いている。
熊野への参拝を終えて帰国する者たちが、これから参拝へ向かう者たちとすれ違うのを横目に、初は家臣たちへと目を向けた。
荷を運ぶ人夫たちの中には、伊助の姿もある。
葛籠を背負った伊助は、周囲の喧騒にも目をくれず、黙々と街道を歩いていた。今日は比較的穏やかな日和だが、それでも照り付ける日差しによって、伊助の額には、玉のような汗が浮かんでいる。
「…………」
初は、馬の背に括り付けた荷物の中から、竹筒を取り出した。
栓を抜き、口を付ける。入っているのは、煮沸した水に潰した梅干を混ぜたものだ。出発前、初がスポーツドリンク代わりに用意したものである。
「おい、伊助」
口元を拭い、初は伊助に竹筒を投げ渡した。
「水だ。皆で分けながら飲め」
わたわたと竹筒をお手玉していた伊助は、中身を口にして、目を見開いた。
「うめぇ」
新鮮な青竹の香りが鼻に抜け、梅干しの味が口内に広がる。水に含まれた塩分が、汗をかいた身体に染み渡っていくようだった。
我も我もと伊助に手を伸ばす人夫たちに、初は同じものが入った竹筒を数本、放ってやる。
美味そうに水を飲む伊助を眺めていた初は、人夫の列に加わったウヌカルと目が合った。微笑ましいものでも見るような顔をされ、慌てて被衣を引き合わせた。
大坂へ近づくにつれて、人の数はどんどんと増えていく。
場所によっては、小さな渋滞さえできている様に、初は感心した。
「大坂というのは、にぎやかなところなのですねぇ」
この辺りは現代でも大都市だが、この時代でも人が集まる場所らしい。
人混みを見渡す初に、頼定は答えた。
「大坂は、本願寺の寺内町だからの。先頃、本願寺では、親鸞聖人の三百回忌法要が行われたと聞く。この人出は、一向宗の門徒たちじゃろう」
一向宗、という単語に、初はひっかりを覚えた。
(なんだっけ? たしか、授業で習ったような……)
一向宗、一向宗、と胸の中で繰り返していた初の脳裏に、現代の記憶がよみがえった。
そうだ。一向宗と言えば、あの織田信長と十年にわたって戦い続けた、戦闘集団である。
教科書の内容を思い出し、初は一瞬、身を固くした。だが周囲にいるのは、どこにでもいるような普通のおっちゃん、おばちゃんである。中には、子供連れの姿も見受けられた。
街道の左右には、人出を見込んで露店が軒を連ねている。門徒たちは、めいめい酒やら食い物やらを買い、歩きながら口にしている。朗らかに談笑しあう姿は、行列そのものを楽しんでいるようだった。
「今回の法要は、それはそれは盛大だったらしいのう。なんでも本願寺からは、十昼夜に渡って人が絶えなんだそうな」
「他宗の寺からも、偉い坊様を呼んで行をなされたとか。近々、顕如様も僧正におなり遊ばされるというし、これで本願寺も門跡の一員よ。まこと目出度い話じゃて」
「これで、わしら門徒も安泰よ。ほんに本願寺様様じゃ」
祝い酒を酌み交わす人々の横を通り抜け、初たち一行は進んだ。
大寺院である四天王寺を右手に眺めながら、さらに街道をさかのぼる。
このあたりは淀川、賀茂川、桂川と、いくつもの大河川が流れている。街道から外れた土地は、いくつもの小島に分かれ、人々は橋や舟を使って、それぞれの土地を行き来していた。
小舟に乗って大坂へ向かう参拝客を眺めていると、前方から人々のどよめくような声が聞こえてきた。
「見よ、初。あれが本願寺じゃ」
頼定の指さす先。周囲から一段高くなった台地の頂上に、巨大な瓦屋根が見えていた。
大坂は、本願寺を頂点として、放射状に広がる街だ。台地の裾には家屋が建ち並び、周囲はぐるりと堀によって囲まれている。
堀に架けられた橋を渡り、初は驚愕した。
堀は、街の内部まで続いていた。いくつもの水路によって区切られた町並みは、小さな堺といった風情である。
街の中は、大勢の人々が住み暮らす喧噪にあふれ、外からやってきた人々によって、通りは混雑を極めていた。
「ええい、どけ! どかんか貴様ら! 雑人風情が、姫様に近寄るでない!」
「やめろ、大八! 下手に騒ぐと、余計に人が集まってくる!」
「ですが姫様! この人混みに紛れて、不埒者が近づきでもしたらっ!」
通りを埋め尽くす人混みに、初たちは身動きが取れなくなっていた。
どこを見ても、人、人、人。黒山の人だかりとは、まさにこのことである。
家臣たちが、どうにか道を開けさせようとするが、これでは埒がない。
業を煮やした大八が、自ら初が乗る馬の口を取ろうとしたときだった。
一瞬、初の周囲から音が消えた。
自分の耳がおかしくなったのかと、初は顔を上げる。同じように疑問を感じた家臣たちも、きょろきょろと辺りを見回していた。
静寂は、徐々に寺内街全体へと広がっていく。
疑問符を浮かべる初たちの前で、門徒たちは皆、同じ方向を見つめていた。
「ご門主さま」
「ご門主様じゃ」
「ご門主様が、姿を現された……」
人々の視線が向かう先。本願寺を囲う塀には、丸太を組んだ櫓が設けられていた。
櫓の上に、一人の僧侶が立っている。
ここからでは顔は見えない。しかし、きらびやかな法衣と袈裟を着けた姿は、相当に高位の者に違いなかった。
「兄上、あの者はいったい?」
「門主じゃ……」
頼定の声には、わずかに畏怖の感情が込められていた。
「本願寺門主、顕如。百万とも、二百万とも言われる、一向門徒を束ねる男の姿よ」
櫓の上で、顕如が片手を上げる。
その何気ない仕草一つで、門徒たちは爆発した。それまで止まっていた人混みが、一斉に動き出す。
少しでも近くに行こうと走り出す者。その場にうずくまって手を合わせる者。ただただ驚喜し手足を振り乱す者など、反応は様々だ。しかし、皆一様に熱狂しているという点では、変わらない。
動き出した門徒たちに加えて、寺内町の入口からも、続々と人が入ってくる。熱狂に憑り依かれた人々は、周囲に気を配る余裕すら失っていた。
「ぐおっ!」
「大八! おい、大丈夫か大八っ!?」
馬の口を取っていた大八に、人波が襲い掛かる。初は、大八の手を掴んで引き寄せようとするが、あまりの人の数に、それも果たせなかった。
「おい、大八を引っ張り上げろ! 馬の上に乗せるんだ!」
「姫様、わしのことよりも、御身をお守りください! お前ら、早う姫様を!」
「うろたえるな!」
頼定は、家臣たちを一喝した。
「初を中心に人垣を作れ! 一人で立ち向かえば、あっという間に押し流されるぞ!」
大八を馬の尻に乗せ、家臣と人夫たちが人垣を作る。自らも馬を降りた頼定を先頭に、初たちは人波を突っ切っていった。
「初姫様、早うこちらへ!」
染物屋の屋根に上った亀次郎が、手を伸ばしてくる。初は馬の背に立って、亀次郎の手を掴んだ。
初に続いて菊が、大八が、屋根の上へと引っ張り上げられる。その後も、続々と家臣たちが、屋根の上にのぼってきた。
「大丈夫か、大八!?」
「なんの! 足を少々、捻っただけですわい。この程度、かすり傷も同然……」
足を叩いた大八が、痛みに顔をしかめる。その年甲斐のない姿に、初は苦笑した。
印籠から痛み止めの軟膏を取り出した菊が、大八の足に塗っていく。
治療を手伝いながら、初は通りを埋め尽くす人の姿に眉をひそめた。
「これでは、見物どころではないのう」
頼定がぼやく。
この人出では、いつ事故が起こってもおかしくない。将棋倒しでも起こったら、大変なことになる。
はらはらと通りを見下ろしていた初は、不意に、人波を歩く一人の老人を見つけた。
大勢の人の間を、老人は流されていく。足が悪いのか、右へ左へ押しまわされる老人は、抵抗する素振りすら見せない。
ふと、老人は顔を上げた。
年輪を刻んだ浅黒い顔が、中空を見上げる。老人の濁った瞳が、初の瞳に映り込んだ。
「あっ」と声を上げたときには、老人の姿は消えていた。
人波に飲み込まれた老人を探して、初は左右に視線を走らせる。
「兄上っ! 老爺が人混みに倒れ込んでっ」
「待て、早まるでない!」
屋根から飛び降りようとした初を、頼定が背後から抱き留める。胴に回された太い腕は、がっちりと初の身体を固定していた。
「早くいかないと、手遅れになります! あのままでは、踏み潰されて……」
「初」頼定は呟いた。駄々をこねる子供を諭すような声だった。
「もう手遅れじゃ」
初は、人込みを見渡した。老人の白髪頭があった場所を見つめ、その周囲に目を凝らす。
頼定の腕が、初から離れていく。
一向に姿を見せる様子のない老人に、初はその場でうずくまった。
次回の更新は、6月28日です。





