船旅
堺へ行く間に、この時代の船舶事情など。
航海は、順調そのものだった。
この時代には、レーダーも気象衛星も存在しない。
天候は山の上から目視で確認し、易者が吉凶を占って、出航の日取りを決めるのが普通だ。必然、航海の安全は運頼りになる。
安宅荘の船乗りたちから、散々海の怖さを聞かされ、覚悟を固めていた初は、あまりの平穏さに肩透かしを食らった気分だった。
「いやあ、いい天気だなぁ」
振り仰いだ空の青さに、初は目を細めた。潮の香りを含んだ風が優しく頬を撫で、打ち寄せる波音は、子守歌のように耳朶を震わせる。
まるで海と戯れるように揺れる船の上で、初は穏やかな時間を過ごしていた。
「心が洗われるようだよ。この雄大な景色の前には、人間同士の争いなんて些細なことさ。戦争? 飢餓? 貧困? すべて有機物の肉体が元凶さ。人は高次元精神体に至ることで、すべての不自由さから解放されえろろろろろろろろ──」
船縁から海へ、内容物を投射する。
陽光を受けて、無駄にきらきらと輝く初の中身。船の航跡に掻き混ぜられて、海の底へと沈んでいく。
「大丈夫ですか、姫様?」
菊が背中をさすってくれる。
船縁に寄りかかった初は、再び込み上げてきたものを、懸命に身体の奥へと飲み下した。
「朝からこれで、三回目ですが」
「くっ……気分だけでも盛り上げれば、何とかなるかと思えろろろろろろ──」
抵抗むなしく、きらめきが海の波間へと消えていく。
航海は順調でも、船酔いだけは如何ともしがたい。
安宅荘を出てからというもの、初は常に船酔いと戦い続けていた。
一歩、歩けば視界が歪み、食事を口にすれば吐き戻す。
航海二日目にして、初の顔は見る影もなくやつれていた。
「うう……食べたものが、みんな身体の外へ出ていくよう……」
朝食どころか、昨日の昼食と夕飯まで吐いてしまった。胃の中には、もはや何も残っていない。
「なあ、この船、揺れ過ぎじゃないか? どっかで設計を間違えたんじゃ」
「はっはっはっ! 何を仰いますか、姫様! この程度で音を上げていては、海賊衆など務まりませぬぞ!!」
甲板に仁王立ちした三木大八が、胴間声を上げて笑う。
船に乗ってからというもの、大八はいつにも増して元気そうだった。出航するなり船の中を我が物顔で歩き回り、若い水主たちを扱いて回る。ほとんど妖怪みたいな存在となり果てていた。
「さあ、姫様も! うつむいていないで、顔を上げなされ! 潮風をいっぱいに浴びれば、船酔いなぞ吹き飛んでしまいますぞ!」
「大八、頼むから声を押さえて……」
潮焼けした声が、頭に響く。
船縁へもたれ掛かる初に、水を持ってきた亀次郎は苦笑した。
「実際、今回の船旅は、静かなもんですよ。いつもなら、この倍くらい揺れますから」
菊に手を添えられながら、初は木椀の水を口に含んだ。少し海水が混ぜられているらしく、ほのかに磯の香りがした。
「船酔いには、こいつが一番。あとは、なるべく遠くの方を見ること。うつむいたり、頭を動かしたりすると、逆に酷くなりますからね」
亀次郎と菊の二人に肩を支えてもらいながら、手近な樽に腰かける。中身は高級品の清酒だが、蒼褪めた初の様子を見て、注意する者はいなかった。
「乗り物には、強いほうだったのに……」
三半規管が弱いのだろうか? どうもこの身体になってから、弱点が増えた気がしてならない。
菊は、手拭いを濡らして初の首筋に当てたり、帯を緩めたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。その献身的な様子に、初は素直に感謝した。
せっかくの旅行に、お目付け役が付くのかと渋ってごめんなさい。あとで適当にまいてやろうとか思って、ほんとすみません……
「気をしっかり持ちなされ、姫様! ほれ、腹に力を入れて!」
大八の声で、意識が遠くなる。
菊の有難みを噛みしめつつ、初は抜けるような青空を見上げた。白い雲を背景に、竹と笹で出来た帆が、風を受けている。
網代帆、というらしい。中国では、古代から使われている帆で、薄く削った竹や葦を格子状に編み、隙間を笹の葉を挟んで埋めている。
「帆は、板のように固くなければならない」というのが、明の船乗りたちの口癖だ。特に、外洋へ出る大型船は、網代帆でなければ危険だと、明人たちは信じていた。
布や筵で作った帆と違い、網代帆は硬いのでたわまない。この時代の一般的な帆が凧だとすれば、網代帆は飛行機の翼と同じ原理で推進力を生み出している。
(現代のヨットと同じだな。風から受ける反力じゃなくて、揚力で船を動かしてる)
中国は、造船技術も進んでいる。安宅家では、青涯和尚が連れて来た明の船大工たちから技術を学び、網代帆を導入したそうだ。
従来の筵帆が、追い風でしか使えなかったのと違い、向かい風でも船を動かすことができる。網代は、おおよそ一尺ごとに竹製の枠で囲われているため、開閉も屏風のように簡単だ。
ただ一点、筵や布に比べて重いのが難点で、最近は、木綿製の帆にバテンと呼ばれる竹製の骨組みを取り付けた帆が、試験的に導入されている。
網代帆に比べて軽く、扱いやすいが、簡単に破れてしまうのが欠点らしい。使われている綿布が薄いのが原因で、それを補うために布を二枚重ねて縫い合わせているが、それでは強度が足りない。
今は、太い糸で一度に幅の広い布が織れないか試作中だという。
初も意見を求められたが、さすがに織物までは詳しくない。こればっかりは、安宅荘の職人たちに、頑張ってもらうしかなかった。
風の向きに合わせて、手引が網代帆を操作する。向かい風を間切りながら走る船は、ゆっくりと舳先の向きを変えていった。
揚力を使うなら、フラップやスラットも導入してはどうだろう? と考えていた初は、ふと顔を上げて、
「……そういえば、例のアレはどうだ?」
「あれ?」
「ほら、船底に使ってる」
初の言葉でピンと来たらしい、亀次郎は「ああ、アレね」と手を叩いた。
「なかなか評判ですよ。最初は、小早に使ってみたんですが、いつもより船足が出るって話です」
「うむ! この船も、相当に足が出ておりますな! 早過ぎて、他の船がついて来れないと、船頭がぼやいておりましたわい!」
安宅家が出した船は、全部で三隻。構造は皆同じだが、初の乗っている船だけは、ちょとした工夫をしてある。
初は、船縁から後ろを振り返った。気分が悪くならないよう、なるべくゆっくりと頭を動かす。
後方に、船が二隻。距離はだいたい、一キロといったところ。
意図的にやっているのかと思ったが、単純に速度が出ないらしい。いくら工夫をしているといっても、ここまで性能差が出るはずはないから、この船自体が優れているのだろう。
木造船は、材料に使う木がまちまちなので、どうしても設計図通りには完成しない。職人の腕や木の種類によって、微妙に性能が異なってくる。
(やっぱり鉄骨船かなぁー? まずはリベット留めからはじめて──)
次に作る船について、つらつらと考えていた初の頭上を、影がよぎった。
檣から垂れた縄を手に、小柄な身体が宙を舞う。人影は、巧みに手の中で縄を滑らせ、空の中を泳ぐように移動した。
大八が、さりげなく初の前へと移動する。
乗組員たちの視線が注がれる中、空中にあった身体が、大きく弧を描いた。船体との距離が縮まり、そのまま滑るように、甲板へと着地する。
「凄ぇな、サーカスみてぇ」
ほとんど足音さえ立てない着地に、初は目を見張る。
人影は、被った笠の淵を、わずかに持ち上げた。澄んだ青色の瞳が会釈して、舳先のほうへと走り去っていく。
「ぬぅ……やるのう、あの小童!」
唸る大八の顔は、なぜか悔しそうだった。
「まるで、猿のようですね」
「いやぁ、あんな綺麗な猿はいますまい」
菊の感嘆に、亀次郎が答える。
乗り込んでから知ったのだが、ウヌカルも今回の船旅に同行していた。海生寺から頼まれて、堺まで出かけるらしい。
ウヌカルは、山立(航海士)に走り寄ると、二言、三言、言葉を交わした。驚いた山立は、すぐさま手近な水主たちへ呼び掛ける。
指示を受けた水主たちは、船内から鍋や鉦を持ち出すと、船縁に立って一斉に叩き始めた。
「……何やってんだ、あれ?」
「ああ、たぶん海豚ですよ。あいつら、船が走ってると、舳先に集まって来るんで」
海面を覗いてみるが、どこにも姿が見えない。
眉根を寄せる初を「よいせっ!」と、大八が肩車して持ち上げた。
「どうです、姫様! これで見えますかな!?」
「大丈夫! 大丈夫だから、揺らさないで!」
大八の頭を押さえながら、初は海面に目を凝らした。高くなった視点で、船の進行方向を覗き込む。
しばらくして、右手の海面に、白く波が立ち始めた。
海面を跳びまわる海豚の群れは、徐々に初が乗っている船へと近づきつつあった。
「あいつら、船が作る波が目的なんですよ。波に乗れば、自分で泳ぐより楽だから」
「へえ、なら乗せてやればいいじゃないか?」
「とんでもない! あやつら、船に突っ込むこともあるのですぞ!」
大きな海豚になると、船体に穴を開けることもあるらしい。漁船や伝馬船くらいなら、それだけで沈んでしまうと、大八は渋面を作った。
水主たちが鉦を鳴らし、艪や櫂を使って、海面を叩く。大八も、素手で船体を叩いて加勢した。
大八が拳を振り上げるたび、初の身体が大きく揺れる。再び込み上げてきた中身を、初は必死で飲み下した。
加勢の効果があったのかどうか。船の周囲を泳ぎ回っていた海豚たちは、やがて別の方向へと去っていった。
「早めに気付けて良かったわい。あんな群れが突っ込んできたら、舵を壊されとったかもしれん」
「ほんに。蝦夷の白面さんは、目がええのう」
「さすがは、異国の天女様じゃ」
やんやと喝采を上げる水主たちに、ウヌカルは笠のふちを引っ張った。恥ずかしそうに顔を隠したまま、縄を伝って檣を駆け上がっていく。
「天女──」
檣の天辺に立ったウヌカルを見上げて、亀次郎が吐息を漏らす。
青空を背にしたウヌカルは、一服の絵画のように美しかった。思わず、初まで見惚れるほどである。
(危険だな)
うっかりそっちの道に走られても困る。亀次郎は、大事な婚約者《生贄》候補だ。しっかりと捕まえておかなければ。
大八の肩から降りた初は、亀次郎の横顔を見つめた。慣れないしなを作りつつ、陶然としている亀次郎の袖を引く。
「なあ、亀次郎。ちょっと向こうで話を、」
「姫様、これをお食べください」
初の腕を、むんずと掴んだ菊は、印籠を取り出した。
中から黒っぽい塊を手のひらに出して、初に差し出してくる。
「何も腹に入っていないのでは、お身体が保ちません。さ、お一つ」
「いや、菊。いま食べたら、また吐く……」
「梅を苺の果汁と蜂蜜で漬けたものです。身体にも良いですから、早く口を開けて」
「いや、だから今はっ!」
口を開けた瞬間、菊の指先が素早く動いた。
口の中に、黒い塊が放り込まれる。突然のことに、初は反射的に口を動かしていた。
「どうですか、姫様」
「んー、甘くてすっぱくて、それでいて舌にまとわりつく感じが何とも言えずおえろろろろろろろ──」
再び催した初の中身が、亀次郎の身に降り注いだ。
次回は、ついに堺へ
次回の更新は、5月19日です。
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