エマ 母国スウェーデンに帰国する
進路指導室でのインタビューを終え、田中に礼を言って学校を後にした私は、トボトボと重い足取りで川越駅へ向かって歩いていた。
……もう、帰ろうかしら。
スウェーデンに戻るフライトを早めるべきかもしれない。だけど、ストックホルムの家で暮らす祖母の顔を、今さらどんな顔をして見ればいいのか分からない。あの優しかったおばあちゃんが、かつて海外への虚飾の憧れに狂い、父を連れ去った当事者だったかもしれないなんて。
『可哀想な日本の少女たちを救いに来たジャンヌ・ダルク』気取りだった私は、ただの滑稽な道化だったのかもしれない。
私は駅前のカフェに入り、ため息をつきながら冷めたコーヒーをすすると、現実逃避するようにノートパソコンを開いてレポートのプロットを叩き込み始めた。
──この国は、AIによる業務代替を全面的に受け入れた。その結果、『ホワイトカラー』という特権的な身分は消滅し、輝かしいキャリアという幻想は崩壊した。同時に、その入場券でしかなかった大学は無価値化し、高学歴化に伴う晩婚化という枷が外れた。
若者たちは都会に出て背伸びをする必要がなくなり、18歳で地元のコミュニティに根を張り、家族を作り、子育てに人生の意義を見出している。
加えて、かつての売春問題や実子誘拐という深刻な国際摩擦──その黒歴史の反動としてグローバルへの憧れを封印したことも、彼らを地元へと閉じ込め、早婚化を加速させた要因と言えるだろう。
トントン、と論理が繋がっていく。私の敗北を証明する論理が。
「……あの……」
……ん?
キーボードを叩く手が止まる。何か聞こえたような。
「あの、エマさん!」
「ひっ!?」
ビクッと肩が跳ね上がり、背筋に冷や汗が走った。
恐る恐る振り向くと、そこには一人の男子高校生が立っていた。
い、いつの間に私の背後に……!? まさか、気配を消して接近するこの国の伝承的存在──『ニンジャ』の末裔……!? 内情を知りすぎた私を消しに来た政府の刺客……!?
まずい……! スウェーデンを発つ時、ニンジャ対策なんて全く考えていなかったわ!
……いいえ、落ち着くのよエマ。冷静になりなさい。ニンジャの主兵装は手裏剣。手で投げるタイプの投擲刃物よ。相手が腕を振りかぶった瞬間、このノートパソコンを盾として縦に構えれば防げるわ……!
……待って。でも目の前にいる彼は本当に「本体」かしら?
もしこれが「影分身」だとしたら…? 本体はすでに私の背後、あるいは天井……。
…詰んだ。ニンジャに狙われた時点で私の死は確定していた。お父様お母様、先立つ不幸をお許しください。
「か、覚悟はできてるわ……一思いにやりなさい。」
「へ?…あの! 俺、エマさんの話が聞きたいんです!」
「……え?」
「海外でアーティストとして成功したいんです! こんな狭い街で一生を終えたくない! でも、親も学校も誰一人として俺の夢を応援してくれなくて……!」
「……」
思考がピタリと止まった。
……ん? ニンジャじゃない……?
改めて相手を観察する。そういえば、今日学校で見かけた「地元の土を耕すガッチリ男子高校生」たちとは違って、ひょろひょろと細く、どこか頼りげのない雰囲気を漂わせている。
……そして。
ふ……ふふっ……ふふふっ!
私の胸の奥から、先ほどまでの絶望が嘘のように、メラメラと誇らしい歓喜が湧き上がってきた。
やっぱり! やっぱりいるじゃないの……!!
こんな前時代的で閉鎖的な人権後進国社会に馴染めず、世界に目を向け、人権先進国スウェーデンから来たこの『私』に救いを求める可哀想な若者が!
「いいでしょう」
私はパタンとノートパソコンを閉じ、フッと口元に自信に満ちた笑みを浮かべた。
「私があなたを助けてあげるわ。……スウェーデンに帰るのは、まだしばらく先になりそうね」
川越に滞在して一週間ほどが経ち、私はこの街の構造をさらに深く理解し始めていた。
先日のナヨナヨした男子高校生──俊介のように、この「早婚・現場主義」の社会システムについていけない若者は、一定数存在する。
要するに、恋愛市場におけるあぶれ組だ。
18歳までに結婚相手を決めて人生を固められるのは、その時点でコミュニケーション能力や見た目の価値が高い者たちだ。そこから漏れる者が一定数出るのはどんな社会でも避けられない。まあ、出生率2.54という脅威的な数字を叩き出すくらいだから、若いうちに相手を見つけて地に足をつける若者が「圧倒的大多数」であることに変わりはないのだが。
俊介との待ち合わせのため駅前のカフェへ向かって歩いていると、少し前方で俊介が同級生らしき男子生徒──健太と話しているのが見えた。
「またお前、例の外人さんと会うの? そんなことより、卒業後の仕事まだ決まってないんだって? お前の母ちゃん、うちのオカンにめちゃくちゃ心配そうに話してたぞ」
「うっせーな。それを言うならお前こそ、お前の母ちゃんが『うちの健太、彼女できたことないのよ。見た目はアレだけど優しい子だから誰か紹介して』って近所に言いふらしてたぞ」
「……おい、見た目のことは言うなよ」
「俺が言ったんじゃねーよ、お前の母ちゃんだよ」
……恐ろしい。
地方都市特有の『母親同士のローカルネットワークで個人のプライバシーが筒抜けになる地獄』を見た気がした。個人情報保護法やプライバシーの権利という概念は、この街では死滅しているらしい。
ふたりはくだらない軽口を叩き合い、カフェの入り口で健太は「じゃあな」と手を振って去っていった。
「お待たせしました、エマさん!」
店内に入り、席に着くやいなや、私は意気揚々と本題を切り出した。
「それで? あなたは具体的にどんなアートをしているの? スウェーデン人である私が、あなたの才能を見定めてあげるわ」
「いや……それが、まだひとつに絞りきれてなくて。絵も捨てがたいし、映像も、音楽もいいなと思ってて……」
……ん? 雲行きが怪しいわね。
私は少し眉をひそめた。
「で、作品自体はもう作っているの?」
「はい! 色々作ってネットに投稿してるんです。海外のユーザーからも結構反響あるんですよ! 見てください!」
俊介は誇らしげにスマホの画面を突き出してきた。
表示された画像や短尺動画を覗き込む。……おお。確かに、プロ顔負けの色彩センスと重厚なクオリティだ。
「……これ、どうやって作ったの?」
「AIです! プロンプトを工夫して、僕のイメージ通りに出力させました!」
「……」
うわぁ…。
プロンプトを入力しただけ……?
これが……私が救うべき『虐げられた日本の若き才能』……?
……うーむ。
「みんな、AIアート表現なんて働きながらでもできるでしょ、なんて言うんですよ。人が真剣につくってるのに酷いですよね?」
ま、まあ……。
私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
私の今の役割は、彼に「こんな狭い社会から出たいというあなたの感性は間違っていない」と肯定してあげることだ。「AIに指示を出しただけの画像でアーティストを名乗るなんて、欧州の芸術界では一番軽蔑される行為よ」なんて野暮な現実を突きつける必要はない……はず。
……でも、なんだろう、このモヤモヤする感じは。
「──だから、エマさん!」
「……え?」
「今度、近くの公民館で『今の社会システムに疑問を持つ若者たち』が集まる討論会があるんですよ。そこに行けば、僕たちみたいな志を持った仲間がたくさん作れるかもしれないんです!」
……私が「なんだかなぁ」とAIアートに不穏なものを感じている間に、いつの間にか話が明後日の方向へ進んでいた。
……んー?
社会に疑問を持つ若者の集まり……? 仲間が……たくさん作れる……?
脳内のモヤモヤが一瞬で吹き飛んだ。
「それを真っ先に言いなさいよ!!」
私は思わずガンッとテーブルを叩き、身を乗り出して興奮気味に叫んだ。
新興宗教か、過激派活動家団体か、あるいは虐げられた若者たちの秘密集会か。
いずれにせよ、俊介本人のビミョーな才能はもはやどうでもいい。この「人権後進国社会の裏側」を暴く絶好の取材チャンスが向こうから転がり込んできたのだ。
「場所と時間は!? 私も絶対に連れて行きなさい!」
俊介は私の勢いに圧倒されながら、「は、はい!」と小さく頷いた。
その日、川越の公民館では二つの大きな催しが同時に開催されていた。
A館では「高校生研究発表会」、そしてB館では「日本の未来についての討論会」。
討論会が始まるまでまだ時間があったため、私は俊介に連れられてA館へと向かった。健太がぜひ見に来てほしいと言っていたらしい。
パイプ椅子が埋め尽くされた会場の壇上で、健太は堂々とマイクを握っていた。
地元運送会社への就職が決まっているという彼は、スクリーンに複雑なマップとデータを投影しながら発表を行っていた。
題名は──『地域運送効率化におけるAIシミュレーションとその現場実践』。
彼はその運送会社で使われるAIシミュレーションが出す最適経路と、あえて少しずらした経路を実際に自分の足で走り込んで検証し、その結果をAIと対話させることで、まだ誰も見つけていないタイムロスの要因がないかを地道に調べ上げていたのだ。
「AIの計算上はスムーズに見えても、特定の日時、道路の勾配や抜け道の信号待ち、店舗の搬入口の形状で数分のズレが生じます。その現場の違和感をAIに再フィードバックすることで、理論値ではなく『本当に現場で機能する最適化』が可能になります」
机上の空論でも、AIへの丸投げでもない。現場の泥臭い検証とAIの高度な構造化を往復させる、完璧なまでに筋の通った論理展開。発表が終わると、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「……っ」
私はその光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
心のどこかで、高卒で現場で働く彼らを「大学へ行けなかったドロップアウト組」と見下していた自分がいた。それなのに……彼が壇上で放っていた知性と、リアルとAIを融合させる圧倒的な実践力は、スウェーデンの大学生たちが論説文をこねくり回しているよりも遥かに高く、洗練されていたのだ。
胸に重いショックを抱えたまま、私は俊介とともにB館の「討論会」へと移動した。
会場には、この社会にどこか違和感を抱いていると思われる人々が集まっていた。
間もなく、一人の登壇者がマイクを取り、朗々と語り始めた。
「二十歳前後で結婚して多産する道だけが、人間の幸せの全てだとは思えません! かつての北欧型のように、政府による手厚い補助金、高度な子育て支援、そして男性の積極的な育児参加を国主導で推進すれば、女性がキャリアを諦めなくとも出生率は上がったはずです!」
会場から大きな拍手が湧き上がる。
そう……! そうよ……!!
私は思わず身を乗り出し、激しく頷いた。
この国に来て初めて、自分と同じ「まともな人権意識」を持つ人々に出会えた感動で胸が震えた。やっぱり、私の信じてきた北欧のシステムこそが正義なのだと。
しかし──。
次にマイクを持った登壇者は、一瞬、呆れたように失笑してから言い放った。
「それ……三十年くらい前に、活動家の方々が好んで使っていた昔の言説ですね」
「な……!?」
「当時から、その手の施策をやっていた北欧諸国と日本の出生率には大差がなかった。そして現在、その『北欧モデル』を愚直に続けた国々の出生率がどうなっているかご存じですか? どこも0.5か0.6台まで落ち込んで崩壊寸前ですよ。そんなものはとうの昔に破綻した幻想です。いい加減、現実の情報をアップデートしてください」
「……っ!!」
頭を金属バットで殴られたような衝撃だった。
北欧モデルを……私たちが世界に誇る最高の社会システムを、まるで「時代遅れの失敗作」のように切り捨てられたのだ。
許さない……! 人権後進国のサルが……! 私たちの高尚な福祉社会を愚弄する気!?
怒りで血が上り、私は勢いよく挙手した。スウェーデンから来た学生として、面と向かって論破してやるために。
だが、無情にも司会者が指名したのは、前列に座っていた別の女性だった。
「……私、由梨と言います」
震える声でマイクを握ったのは、25歳だという女性だった。
「私は……大学院の博士後期課程に進んでいます。幼い頃に親と一緒にたまたま見たテレビドラマで、女優さんが博士号を持った役で、かっこよくて、憧れて…。なのに気づいたら、世の中のルールが変わっていました。周りの同級生たちはみんな高校を出て社会に出て、結婚して大人になっています。友人はもう子どもが小学生で、親としてしっかり地に足を着けて生きています。なのに……私だけが、まだ親に学費を払ってもらい机に向かう『学生』のままで、子どもの姿から一歩も抜け出せていません。同窓会に行けば、みんなの子どものランドセル代の話を聞きながら、私は親にもらったお小遣いの使い道を考えている……。大学の無価値化で次々と大学が潰れ、研究者としてのポストなんてどこにもありません。……私は、これからどうしたらいいんでしょうか……っ」
由梨は最後、声を押し殺し、顔を覆って泣き崩れてしまった。
会場は打って変わって静まり返った。
誰も、彼女に掛ける言葉を持たなかった。
「高度な教育」と「輝かしいキャリア」という、私たち欧州人が世界中に広めた旧時代の幻影を愚直に追いかけ、この街の生命の循環から取り残されてしまった者の、痛々しい叫び。
挙げかけた私の手は、そのまま空気中で凍りついていた。
秋。埼玉の空気は急速に澄み渡り、ここ川越では伝統の秋祭りが大々的に開催されていた。
絢爛豪華な山車が街を練り歩き、提灯のやわらかな光が古風な街並みを照らす。
まあ……人権後進国の文化にしては、趣があって悪くないじゃない。
私は屋台の喧騒の中を、どこか寂しげな心地で歩いていた。
そろそろ、滞在費も底をつく。スウェーデンへ帰国しなければならない時期だった。
結局、私は何ひとつこの国の社会構造を変えることも、虐げられた若者を救い出すこともできなかった。
俊介はあれから、深く迷い続けている。きっと自分で迷うことが必要な時期なのだろう。私には救うことはできない。
茜、悠真、遥らインタビューした高校生たちの姿を見かけた。みな幸せそうだ。彼ら彼女らの生きる道にも、私の出る幕は無さそうだ。
そんな無力感を胸に抱き、秋風に吹かれながら一人佇んでいた、その時だった。
──ふと、信じがたい光景が目に飛び込んできた。
境内の開けた広場の中央で、一人の女性が木製の椅子に太い縄で縛りつけられている。
……あの顔。先日の討論会で「25歳で未婚の自分は社会に取り残された子どもだ」と涙を流していた、あの大学院生の由梨さんじゃない。
彼女を取り囲むように若い女性たちが集まり、太鼓の合図とともに歓声を上げながら、由梨の頭から茶色い粉末を一斉に浴びせかけたのだ。
「キャハハハ! 25歳おめでとうー!」
「早く結婚しなよー!」
その光景を見た私は激しいショックに震えながら、近くで酒を飲んでいた身なりの良いおじさんに掴みかからんばかりの勢いで声をかけた。
「何……? アレは、何を……しているの……!?」
「ああ、あれかい? この街じゃ、独身のまま25歳を迎えた者を椅子に縛り付けて、頭からシナモンまみれにするっていう伝統行事だよ」
「……なっ!!」
血の気が引いた。
なんたる惨劇。なんたる蛮族の所業……!
『人権後進国』なんて言葉じゃ生ぬるい。 これは同調圧力によるリンチであり、人権侵害の極みだ。
……許さない。
私の中の『北欧の正義』が激しく燃え上がった。
一人の女性の尊厳がこんな大勢の前で踏みにじられるのを、黙って見ているわけにはいかない。
私が腕を捲り上げ、広場へ躍り出ようとした、その瞬間──。
「まあ、もともとはデンマークの古い風習を取り入れたものらしいんだけどね」
おじさんが酒のカップを傾けながら、のんきに言葉を付け足した。
「……は?」
私は片足を上げた姿勢のまま、ピタリと硬直した。
「……デ、デンマーク……?」
「そうそう、あっちの北欧の国だろ? 25歳で未婚だとシナモンをかけるっていうアレだよ。若者にハッパをかけるのにちょうどいいって、この街でもいつの間にか定着してさあ」
「……」
デンマーク。
北欧五カ国の一角。私たちが誇る、洗練された人権と福祉の先進国──デンマーク。
ま……まあ……うん。
私は振り上げた拳を「あ、肩のストレッチよ」と言わんばかりになめらかに下ろし、何事もなかったかのように髪を整えた。
ま、まあね! お祭りの中の、ちょっとした微笑ましい伝統イベントってことね。ええ、北欧の崇高な文化を取り入れた非常に先進的な催しじゃない! 由梨さんも……ほら、なんだかんだ言ってみんなから愛されてる証拠だし。うん、全然問題ないわ!
必死で脳内弁明を繰り広げていた、まさにその時だった。
「──由梨さん!!」
若い男の声が、人混みを割って響き渡った。
振り返ると、そこには息を切らした健太が立っていた。
「健太……くん……?」
シナモンで真っ茶色になった髪と服のまま、由梨が目を丸くする。
知り合い…?まあこの狭い社会では不思議でもないか。
「俺! 地元の物流会社に正社員として採用が決まりました! こないだの高校生研究発表会でも賞を取って、現場でやっていく自信もつきました!」
健太は緊張で肩を怒らせながら、力強く踏み込み、頭からシナモンをかぶった由梨の目をまっすぐに見つめた。
「あなたを養うことができます! 俺と結婚してください!!」
一瞬の静寂ののち、周囲の観客やシナモンを投げていた友人たちから地鳴りのような歓声と口笛が沸き起こった。
「言ったぞ健太ー!」
「受けちゃえ由梨ちゃん!」
祝福の嵐の中、由梨は真っ赤になった顔を隠すように下を向いたが、シナモンまみれの唇で、確かに嬉しそうに微笑んだ。
「……じゃ、じゃあ……よろしく」
「よっしゃあああ!!」
街中が爆発的な歓喜に包まれ、見知らぬ人同士がハイタッチを交わす。
その光景を、私は呆然と見つめていた。
強烈な同調圧力、前時代的なプロポーズ、「男が養う」という性別役割分担。
私がこれまで「克服すべき悪」だと疑わなかった要素が、そこには全て詰まっていた。
なのに……どうしてだろう。
胸の奥が熱くなり、涙が溢れそうになるのを止められなかった。
歪で、泥臭くて、だけど温かい。
シナモンまみれで笑い合う二人の姿が、お祭りの温かい灯りに守られたその瞬間が──
……美しい。
心の底から、そう思ってしまったのだ。
きっと、デンマークの風習を取り入れてるから、……よね?
私は誰に言い訳するでもなく、一人ぽつりと呟き、夜空を見上げた。
スウェーデンの首都、ストックホルム。
どんよりと曇った空から冷たい風が吹き込むオープンカフェで、私はノートパソコンの画面と向かい合っていた。
洗練された北欧家具と、静かに流れるジャズ。街を行き交う人々は皆、スタイリッシュなコートに身を包み、足早に歩き去っていく。
そこに、子どもの姿はまばらだ。赤ん坊の泣き声も、泥だらけになって走る学生たちの笑い声も、あのお祭りのシナモンの匂いも、ここには何ひとつ存在しない。
……静かすぎるわね。
かつてはこの洗練された静寂こそが「成熟した高度な社会」の証だと誇りに思っていた。けれど今の私には、それがまるで生き物の気配が消え失せつつある「美しい墓場」のように思えてしまうのだ。
「あれ…?君は…。」
不意に男に声をかけられた。
「……?……あ。」
羽田に行く時に声をかけられた、廃墟マニアの男…。
この男がここにいるということは…そういうことか…。
私は軽く会釈して冷めかけた紅茶に口をつけ、自嘲気味に笑った。
さて、大学に提出するレポートの最終章を書き上げなければ。
キーボードの上に指を置き、私は静かに目を閉じた。
日本の奇跡的な出生率回復。あの国で何が起きたのか。
端的に言えば、すべては「AI」によって引き起こされたのだ。
AIが、ホワイトカラーという特権階級を破壊した。
AIが、キャリア形成による「自己実現」という幻想を壊した。
AIが、その入場券であった大学を無価値化した。
AIが、若者を吸い寄せる大都市の吸引力を失わせた。
AIが、何者かになるためにモラトリアムを貪る「子どものままでいられる時間」を壊した。
何もかも、全部AIのせいだ。
AIが現代社会のシステムを根底からへし折り、人々から「進歩」や「上昇志向」を奪い取った。
しかし──。
すべてを壊された焼け野原で、高卒ですぐに「大人」になることを強いられた若者たちは、どうだったか。
高度な教育やキャリアと引き換えに、18歳で家族と身を寄せ合い、土と汗にまみれて生きる彼らは……私たちが高尚な理念と引き換えに失って久しいほど、圧倒的に「人間らしく、幸せそう」に見えたのだ。
私は目を開け、一気にテキストを打ち込み始めた。
『……結論として、この日本のモデルを我々欧州が模倣することは不可能である。』
理由は二つ。
第一に、西洋社会におけるAIへの根強い警戒と抵抗感だ。ターミネーターやマトリックスを恐れる我々には、AIを「便利なドラえもん」としてあっけらかんと受け入れ、自らの知識労働を手放すほどの寛容さ、あるいは諦観はない。
第二に、移民政策の果てにある「共通文化の不在」だ。
日本社会が「家」や「地元の土」へあっさりと回帰できたのは、彼らの中に回帰すべき強固な共通基盤──ガラパゴスと揶揄されながらも純粋培養されてきた土着の繋がりが残っていたからだ。多様性を極め、多国籍な価値観が入り乱れる今の欧州には、社会システムが崩壊した時に全員で帰り支度を整えられる「実家」が存在しない。
レポートの最終行。私はカーソルを見つめながら、シナモンの香りに包まれて微笑んでいた由梨と健太、そして遥や俊介たちの顔を思い浮かべた。
カタ、カタカタ。
静かなカフェに、私の打鍵音だけが響く。
『先進国が自らの高度な知性と引き換えに手放してしまった、動物としての根源的な生命力。それは世界で唯一、あの極東の島国の、狭く息苦しいコミュニティの中にだけ存在している。
日本にだけある、古くて新しいユートピアとして──』
エンターキーを静かに叩き、私はレポートの保存ボタンを押した。
冷めかけた紅茶を一息に飲み干す。
さて。
明日は、祖母の家に行こう。
かつて「終わった国」だとあの島国を捨てた祖母に、今の日本の姿を教えてあげるのだ。そして、私自身がこれからどう生きるべきかを見つめ直すために、私が今まで知ろうともしなかった「ヤマダ」の本当のルーツについて、ゆっくりと話を聞かせてもらうとしよう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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