エマ 日本に行く
これは日本の出生率回復の唯一のシナリオ。
若者の給料を上げればいい?違う。出生率が高い国は決して豊かではない。
男性の育児参加への意識改革?そんなわけない。今人口が伸びている国にそんな意識はない。
移民の大規模流入?確かに出生率は回復するかもしれない。だけどそれはもはや日本の出生率回復とは呼べないだろう。
希望はそう。まさにAIであった。
物語は、北欧スウェーデンで生まれ育ったひとりの女性、エマ・ヤマダの視点から始まる──。
2052年、春。北欧の長く暗い冬が明け、スウェーデン、ストックホルムの街角にはようやくやわらかな光が差し込み始めていた。
「また今年も……過去最低を更新、か」
大学の人口動態学研究室のPCモニターを前に、深く溜め息をついた。
なんとなくの興味と、将来的なキャリアへの期待からこの研究室の門を叩いて数か月。だが、画面に並ぶ数字は、私たちが教わってきた「理想の社会」の現実を容赦なく突きつけてくる。
スウェーデンをはじめ、欧州全域の出生率は数十年連続で下降線を辿り続けていた。かつて手厚い福祉と高いジェンダー平等で世界をリードしていたはずの国々が、今や軒並み0.5台、健闘している国ですら0.7を切っている。
欧州各国は労働力不足の危機に直面するたび、移民を受け入れて穴埋めをしてきた。だが、二世、三世と代を重ねるにつれ、彼らもまたこの地に充満する「少子化マインド」に毒されていく。移民の受け入れが根本的な少子化解決にならずその場しのぎに過ぎないことなど、すでに2020年代には明白な事実となっていた。
──じゃあ、社会を覆うマインドそのものを塗り替えるほど、大規模かつ一斉に移民を流し込めば?
……ううん。それじゃあ、もはやここは「スウェーデン」とは呼べなくなってしまう。
私たちスウェーデン国民には、世界に誇るべき高い人権意識がある。女性の社会的自立、男性の積極的な育児参加。どれをとっても、封建的で人権意識の遅れたアジアの細い目の者どもとは根本的に違うのだ。たとえ移民が増えようと、私たちが誇る「北欧型の正義」をしっかりと教育していけば、きっとこの国は立ち直れる。それこそが、私がこれから人口動態学者として成し遂げたい仕事だった。
ちなみにアメリカはというと、欧州とは対照的に1.4前後を維持し続けている。だが、それも手放しでは喜べない。人種別・宗教別の人口構成比がいよいよ完全に逆転し、これから世界一の大国がどのような変貌を遂げるのか、世界中が不安と固唾をのんで見守っている状態だ。
そんな絶望的なデータが並ぶ世界地図の中で、ひとつだけ、あり得ない数値で不気味に輝いている国があった。
──日本。
画面に表示されたその国の出生率は、衝撃の「2.54」。
「……は? 2.54? システムのバグかしら」
思わず画面をリロードし、顔を近づける。間違いない、2.54だ。
「日本……?」
思わず画面に顔を近づける。ヤマダというこの姓は、私の父方の祖母から受け継いだものだ。
「おばあちゃん、日本ってどんな国?」
幼い頃に祖母に聞くと、祖母はしかめっ面をしながら返す。
「もう終わった国だと思うわよ。おばあちゃんがいた頃から既に、世界で最も少子高齢化が進み、衰退の坂道を転がり落ちていたんですもの。」
「どんな人たちの国だったの?」
そう聞くと、祖母はしかめっ面のまま、でもどこか意気揚々と語り始めた。
「二つの側面があったわ。一つは男尊女卑の傾向が強い封建的な側面、もう一つはそのくせ自分たちの文化に自信がないからか、何かと私たち欧州に憧れて真似ばかりをする側面。そんな二面性を持った民族だったわ。『日本はアジアの中でも欧州に近い』とお世辞を言われると露骨に喜ぶ、見栄っ張りで歪んだプライドを持つ人々だったのよ。……だからおばあちゃんは、あんな国さっさと捨てて正解だったのよ。」
……そんな国が、欧州の中でも特に人権意識の高い北欧すら成し得なかった出生率の回復を達成した?
嘘だ。あり得るはずがない。
きっと統計の捏造か、あるいは時代錯誤な強権を使って、女性たちに無理やり子どもを産ませているに違いない。人権を無視した恐ろしいディストピアが、あの島国で推し進められているに違いない。
「……確かめなきゃ」
人権意識という名の正義感と、探偵のような好奇心が胸の奥で煮詰まっていく。
人権先進国である私たちが正しく暴き、指摘してあげなければならない。
私は、生まれて初めて日本へ向かうことを決意した。
2052年、9月。ようやく東京の猛暑も落ち着いた頃、ストックホルムから2度の乗り継ぎを経て、羽田へと向かう機内。長時間のフライトに疲弊していた私の隣で、どこの国ともつかない身なりの男が気さくに話しかけてきた。
「やあ。君も『廃墟マニア』かい?」
「……はい?」
予期せぬ単語に、私は思わず聞き返した。男はニヤリと笑い、座席のモニターを指さす。
「違うのかい? パリもロンドンも、今じゃ世界中の大都市がすっかり退廃しちまったが……東京はその中でも格別だ。かつての巨大な繁栄が見事に朽ち果てて、最高の『死せる都市』になっている。ゴーストタウンなんてレベルじゃない、もはや現代の歴史遺産だよ。世界中の愛好家が押し寄せてるんだ」
「……そうですか」
私は愛想笑いを浮かべ、会話を打ち切った。誇り高き北欧の都市と、東洋の終末都市を同列に語られたくはなかった。だが、その言葉の本当の意味を理解したのは、羽田からモノレールと電車を乗り継ぎ、東京駅の改札を抜けた瞬間だった。
──静かすぎる。
かつて世界最大級の過密都市と呼ばれたはずの街には、驚くほど人がいなかった。広大なコンクリートの広場をたまに横切るのは、腰の曲がった老人ばかり。
見上げれば、かつて東京を象徴していたはずの高層ビル群の外壁はひび割れ、ガラスはくすみ、老朽化が進んで今にも崩れ落ちそうな雰囲気を漂わせている。「AI管理センター」と書かれた看板が寂しく揺れるだけの、看板倒れの巨塔たち。
その惨状を背景に、カメラを構えた外国人観光客──まさに機内で出会ったような『廃墟マニア』たちが、楽しそうに歓声を上げながら写真を撮っていた。
「……やっぱりね」
私は冷えた吐息をついた。胸の奥で、歪んだ達成感が芽生える。
──やっぱり、そんなものか。
あの「2.54」という異常な数字は、ただの政府の捏造だったのだ。現実はこの通り、子どもどころか若者の姿すら存在しない、老いさらばえたゴーストタウン。虚飾のデータで国威掲揚を図り、衰退の現実を誤魔化す……つくづく哀れで、惨めな国。
わざわざ北欧からこんな最果ての廃墟まで確かめにきた自分を誇らしくさえ覚えた。レポートには「捏造の現場と現地の悲惨な末路」と大きく書いてあげよう。
念のため証拠のコメントを得ようと、私はベンチに腰掛けていた一人の老人に声をかけてみることにした。
「あの、すみません。私、スウェーデンから来た学生なんですけど……この国が出生率2.5を達成したってデータは、やっぱり真っ赤な嘘ですよね?」
老人はゆっくりと顔を上げ、細い目で私を眺めると、歯の抜けた口元でふっと力なく笑った。
「ああ……それなら、ここじゃなくて……そうだな、埼玉の川越あたりに行くといいよ」
「……え? 川越……?」
「ここにはもう、役目を入れた老人しかおらんよ。若者はみんな、土のある方へ行ったさ」
老人はそれだけ言うと、またぼんやりと空を見上げた。
……ここじゃない?
どういうことだろう。「土のある方」?
首都である東京がこれほど見事に滅び去っているというのに、郊外の「川越」という街には違う景色があるとでもいうのだろうか。地方の過疎村で、無理やり多産を強いるカルト宗教のコミュニティでも形成されているとでも?
スマホで路線図を調べると、東京駅から川越までは電車で1時間もかからないようだった。
「いいでしょう。そこまで言うなら、この目で暴いてあげるわ」
恐ろしいディストピアの証拠を掴むべく、私は重いスーツケースのハンドルを握り直し、川越へ向かう電車のホームへと足を進めた。
都心を出た電車が北上するにつれ、私は車窓の景色に奇妙な異変を感じ始めていた。
窓の外の街並みが、徐々に鮮やかさを帯びていくのだ。森や山といった自然が増えたという意味ではない。立ち並ぶマンションや商店街、何の変哲もない建物群そのものが、まるでモノクロ映画からカラー映画へと切り替わったかのように色づいて見えた。
──その「色の正体」は、県境を越えたあたりですぐに判明した。
一駅ごとに、抱っこ紐をつけた若い夫婦や、小さな子どもの手を取る母親、お腹の大きい母親たちが続々と車内へ乗り込んできたのだ。さっきまでの重苦しい静寂が嘘のように、車内はあっという間に子どもたちのはしゃぎ声と、あちこちから聞こえる赤ん坊の泣き声、そしてどこか懐かしい生活の匂いで満たされた。
「……な、なに……なによ、これ……!?」
川越駅のホームに降り立った瞬間、私はその場に立ち尽くした。
目に入る光景のすべてが異常だった。駅前広場では、あちこちで子どもたちが元気いっぱいに走り回り、ベンチでは若い親たちが笑顔で離乳食を与えている。
……こんな光景、見たことがない。
スウェーデンには──いや、欧州全土をどこまで探したって、こんな風景はもうどこにも存在しない。若者が消え、老人と静寂に覆われたストックホルムの街とは、まるで別世界だった。
まさか……あの出生率2.54という数字は、捏造じゃなかった……?
背筋に冷たいものが走る。だが、すぐに頭を振り、胸の中で激しく打ち消した。
あり得ない…! もし数値が本当だとしたら、これは女性の人権を徹底的に踏みにじり、力で産ませている証拠よ! そうでなきゃ、こんな不自然な多産が説明できるはずがない。日本の男どもめ……なんて前時代的な、酷いことを……!
私は広場を行き交う母親たちの顔を凝視した。
──しかし、そこに悲壮感はなかった。彼女たちは皆、心底愛おしそうに我が子を見つめ、ごく自然な幸せに満ちた表情で微笑み合っている。
騙されているのね……。教育も与えられず、社会に刷り込まれて、自分たちが抑圧されていることすら気づいていないんだわ。かわいそうに……
怒りと、正義感からくる同情が胸に湧き上がる。ここまで来たのだ。人権先進国であるスウェーデンから来た私が、彼女たちに「本当の女性の自由とキャリア」を教えて、この洗脳から救い出してあげなければ。
……それにしても、と私は首をかしげた。
赤ん坊を抱いている母親たちが、やけに若い。アジア人だから若く見えるだけだろうか? どう見ても私と同じか、下手をすれば年下にしか見えない少女たちが、平然とベビーカーを押している。
その時だった。
「んなっ……!?」
思わず、人権先進国の人間にはあるまじき、みっともない悲鳴が口から漏れ出た。
駅前を通り過ぎていく集団の中に、高校の制服を着た少女がいた。彼女は友人たちと笑い合いながら、愛おしそうに自分の……あきらかに大きく膨らんだお腹を撫でていたのだ。
高校生……!? 17歳か18歳の未成年妊婦!?
高校生に妊娠させて、そのまま学校に通わせているなんて……! なんて恐ろしい街なの! キャリアも、未来も、学問の機会も、全部奪われているんだわ!
怒りで血が逆上するのを感じた。
私は息を殺し、その女子高校生の後を尾行することにした。学校へ突き止め、その教育現場の責任者──校長なりなんなりを徹底的に問いただし、この惨状を国際社会に告発してやるために。
尾行を始めてわずか3分で、私は自分の致命的なミスに気づいた。
──どう考えても、この2052年の川越の街で私は浮きまくっている。
ストックホルムでは当たり前の金髪と高身長が、ここではいやでも視線を集めてしまう。すれ違う子どもからは「あ、外国人だー!」と指をさされ、買い物帰りの主婦からも珍しそうに見られる。
……完全に尾行に向いていない。
前を歩く高校生妊婦とその友人グループも、時折チラチラと振り返っては「ねえ、あの人ずっとついてきてない?」とひそひそ話している。
そうよ、ついて行ってるのよ。待ってなさい、絶対にあなたを救ってあげるからね……!
心の中で情熱的に呼びかけながら必死についていくと、やがて彼女たちは古風な校門をくぐり、高校の敷地内へと入っていった。
よし、ここからが本番だ。
私が意気込んで校門を突破しようとした、その時だった。
「えっと……どちら様ですか?」
校門の脇から、少し疲れた顔をした50代半ばほどの男性教師が現れ、私の手前で立ちふさがった。古いスーツを崩して着こなした、どこか飄々とした雰囲気の男だ。
私は背筋をピンと伸ばし、人権先進国としての誇り高き微笑みを浮かべた。
「はじめまして! 私はスウェーデン──あなた方日本人が長年手本にし、憧れ続けてきた人権先進国から来た、エマ・ヤマダと申します! 日本の教育現場における女性の人権侵害と、野蛮な早期妊娠の実態調査に来ました。ぜひこちらの責任者にお話を伺いたく存じます!」
どう? 急なスウェーデン人視察者の登場に、今ごろ顔を青くして動転しているでしょ?
内心で高らかにドヤ顔を決める私に対し、男性教師は一瞬ポカンと口を開けた。そして次の瞬間、深くため息をつき、やれやれといった表情で頭をかいた。
「ああ……はじめまして、エマさん。指導教諭の田中です。……ええ、時々来られるんですよ、あなたのような外国の学生さんやジャーナリストの方が」
「……え?」
動転するどころか、あまりにも手慣れた対応に拍子抜けする。
「インタビューですね、構いませんよ。生徒と教師、どちらをご希望ですか? それとも両方聞かれますか? なんなら、このあと進路相談室で温かいお茶でも飲みながらお話ししましょう。あ、スーツケースはそこに置いていいですよ」
なに、その『またこのパターンか』と言わんばかりの余裕は……!?
今から私は、あなたに北欧の崇高な人権意識とジェンダー平等を叩き込んで、この学校の恐ろしい実態を国際社会に暴き立てるつもりなのよ!?
田中と私の背後で「ゴゴゴゴゴ……」と効果音が鳴り響く気がした。日本のマンガでよく見る、バトル開始前の緊迫した対峙シーンのアレだ。
敵は思いのほか手強いかもしれない。だが、北欧の正義を背負う私が退くわけにはいかない。
「……ご協力感謝します! 生徒も教師も、両方インタビューさせていただきます!」
こうして私は、進路指導室へと足を踏み入れることになった。
この国に隠された「恐ろしい真実」を暴くための、最初の戦いが始まろうとしていた。




