第1話 故郷の月
十四歳のとき天体望遠鏡を自作した。
初めて見た月は望遠鏡の視野からはみ出るほど巨大で皓皓と輝いていた。
夕闇の地上では遠くの街灯がすぐ眼の前にきて何かを語りだしそうだった。
普段小さく見える遠い残雪の山脈や圏谷も目の前に迫って来て畏れ多く、神気を感じた。
少年の心に、日常の一皮下の異界を感じた日々だった。
望遠鏡のことはその後忘れていたが宇宙には興味を持ち続けた。
少年時代を過ごした村は南フランスの国境近くにあり、昔黒死病が大流行したときもここまで来なかったほどの寒村だった。
あれから十数年経っていた。
帰省して部屋を整理していたとき思わず声が出た。
「あっ! あのときの……懐かしい」
すっかり忘れていたが、古い机の中に残っていたのは十四歳のころ自作した天体望遠鏡のレンズだった。
あらためて月を見上げるとあの頃の気分が思い出された。
今ならあの時よりいい部品が手に入る。
暗くなった空を見ていると再び異界を覗きたくなった。
それから一週間後、久しぶりに作った望遠鏡は高性能で架台や三脚もあり、しっかり固定できるので庭に置いた。
人目を避けるため大雑把な囲いを作った。
それに塗ったペンキの臭いは昔から好きだった。
寝不足の季節だったが出来上がってくるにつれ甦る少年の気分は盛り上がっていった。
今日は夏至の前日、午後八時でも真昼間と変わらない。
この地域では連日晴天が続く季節だ。
高性能の望遠鏡で初めて覗くのは爽快な空気の中で咲く黄色いピレネー百合だ。
視野一杯に拡がった花は初めて見るようにみずみずしく、緑の野原を通り抜けるそよ風に揺れていた。
そのとき一瞬、透明な空間の歪のようなものが空をよぎった。
何だろう、気のせいかな。
収穫前の小麦畑はいつもと変わらず遥か地平線まで金色にそよいでいた。
夢中で見ているうちに時間が経っていた。
西の空は紅く染まり薄明に浮かぶ白い上弦の月がさっきからじっと見降ろしていた。
空の暗さが増すにつれたくらむように月はじんわり輝きを増していた。
そうだ、月を見なくっちゃあ。
久し振りに、暮れる前のまだ淡い夜空を背景に月とクレーターが見えた。
その感動は何年かぶりに会った美人の思いがけない色気にはっとするのに似ていた。
懐かしさに満たされながら望遠鏡の中で微動する月を、時を忘れてただ撫でるように見ていた。
「おーい、アル。何してんの? それ何なのよ?」
通りから勝手に入って来たカルメンが声をかけた。
昔からあまり遠慮しないこの女には、せっかくの囲いも無意味だった。
しばらく会っていなかった幼馴染だ。
名前と裏腹に北欧系ノルマン人顔で、淡い金髪に青い眼の美人だった。
しかし自分にとっては少し鬱陶しい女だった。
おれが何か楽しんでいると大抵ケチをつけられる。
気付かぬふりをしていてもからんでくる。
だから彼女の美しいが個性的で強すぎる眼力と勝ち誇ったような上がり眉を、おれは好まない。
この日はサン・ジョアン(聖ヨハネ)の祭りで、彼女は独身娘らしい華やかな民族衣装だった。
少し行き遅れじゃないかと言われても本人は全く気にしない。
未だに容色が衰えないのは少しいまいましい。
「自分で作った望遠鏡で月を見てるんだ」
「ふぅ~ん」
彼女は月を見上げて首をかしげた。
月に何の興味もないカルメンは祭りの前触れの爆竹の音で気もそぞろになって言った。
「そんなことより火祭りに行って踊ろうよ」
おれは踊りが上手くない。
「嫌だ」
望遠鏡から目を離さず即答した。
カルメンがどういう顔をしたか知らないが、久しぶりの幼馴染よりも月面の方に惹かれていた。
おや? 一瞬月面を透明な歪みがよぎったような気がした。またか。
そのとき自分の周りで何かがバタバタしていると思っていたら自分自身も次第に音と振動に激しく揺さぶられ、めまいがしてきた。
その直後、担架で運ばれて体が浮いている感じと、真っ暗な宇宙を高速に飛んでいる感覚が目まぐるしく入れ替わった。
二つの状況が重なり合ったような不思議な感じだった。
宇宙を飛ぶときの強力な加速で体が潰されるかと思いきや、なぜか重量を全く感じなかった。
カルメンが戸惑いながら望遠鏡の周辺を見廻している姿が見えたのが最後、我が家の方は見えなくなって宇宙を飛んでいる状況だけになった。
次第に月のクレーターが大きくなってきてその砂の上に投げ出された。
見回すと真っ暗な空の下で周りの砂は銀色に輝き、クレーターの輪は遠い剥き出しの山脈に見えた。
おれは月に放り出されたのか、やっと考える余裕ができた。
月なのになんで呼吸ができるのだ? 暑くも寒くも無い。
混乱し驚いていると誰かが呼んだ。




