第三章 月明かりの聖域と狂犬の新生(LUNAR SANCTUARY)
月明かりの聖域と狂犬の新生
第1話:狂犬の首輪と朝定食(LUNAR MORNING)
鼻腔をくすぐったのは、硝煙の臭いでも、部下たちが溶けた酸の悪臭でもなかった。
それは、トーストの焼ける香ばしい匂いと、どこか懐かしい、甘いドリップコーヒーの香りだった。
「……あ?」
坂上信長は、柔らかい感触に包まれて目を覚ました。
視界に入ってきたのは、軍の無機質な天井ではない。温かみのある木目の梁と、窓から差し込む、暴力的なまでに穏やかな朝の太陽光だった。
信長は反射的に飛び起きようとしたが、全身を駆け抜けた奇妙な「弛緩」に襲われ、再びベッドに沈み込んだ。
……傷がない。
アルテアの細剣に貫かれたはずの肺も、ボロボロだったはずの左肩も、まるで新品に交換されたかのように瑞々しい生命力に満ち溢れている。
「おっ、起きた? 狂犬くん、おはよー!」
聞き覚えのある、脳天気な声。
傍らのチェアーで、人参柄のハンカチを器用に刺繍していた月兎族の少女・キャルルが、ニパッと太陽のような笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
「……ポポロ、村……。俺は、生きてるのか」
「当たり前じゃん! 姉御が全力でヤキ……じゃなかった、治療してあげたんだからね! 感謝しなさいよ、この分厚い『聖獣機神ガオガオン・泥沼恋愛編』の続きを読みながら一晩中看病してたんだから!」
彼女が指差した机には、愛憎渦巻くドロドロの恋愛小説が山積みになっていた。
信長は、毒気を抜かれたように呆然と天井を見上げた。
あの日、俺は部下を見捨てた。
合理的な判断の下、彼らの命をコストにして勝利を選んだ。
なのに、その部下たちはあの理不尽なウサギに「殴り飛ばされながら全回復」させられ、自分もまた、こうして生き永らえている。
「……刀は。俺の装備はどうした」
「政宗が預かってるよ。ポポロ村は武器の持ち込み禁止だもん。あ、でもその代わり、これあげる」
キャルルが信長の首に、ヒョイと何かを掛けた。
手触りの良い、オレンジ色の布。人参の刺繍が入った、ポポロ村特製のバンダナだった。
「それは村の『居住許可証』代わり。それ巻いてる間は、誰も君を攻撃しないし、君も誰も傷つけない。……わかった?」
信長は、その「狂犬の首輪」のようなバンダナを握りしめた。
軍人としてのプライドが「外せ」と命じる。だが、それ以上に、空っぽになった胸の奥が、この温かい布の感触を拒絶しきれなかった。
*
キャルルに手を引かれ、村のメインストリートへ出る。
そこには、信長が知っている「アナスタシア」の光景はなかった。
ルナミス帝国の様式と、地球の日本の文化が奇妙に混ざり合った街並み。
道端では獣人の子供たちが走り回り、リバロン率いる人狼族の自警団が、完璧な礼装でパトロールをしている。
そして、村の中央に鎮座するのは、どこかで見慣れた看板。
『24Hファミレス:ルナミス・キング(ルナキン)ポポロ支店』
「さあさあ、朝ごはん食べよ! 政宗も中で待ってるから!」
店内に一歩足を踏み入れると、涼しい冷房の風と、聞き慣れたBGMが流れてきた。
『月曜日だ 朝からバックレしたい~♪』
朝倉月人の『月曜日の社畜』。
あの血みどろのドーム防衛戦で、部下たちが死んでいく中で流れていたあの曲だ。
信長は一瞬、吐き気を覚えた。だが、周囲の客——朝定食を頬張る冒険者や村人たち——は、誰も悲痛な顔などしていない。ただ、平穏を享受している。
「よう。生き返った気分はどうだ、1等陸尉さん」
窓際のボックス席で、赤マルを吹かしながらタブレットを叩いていた力武政宗が、顔を上げた。
彼の前には、ノートPCと、読み込まれた『国富論』が置かれている。
「……力武、政宗か。貴様、なぜ日本に戻らない。内調や若林幹事長が、お前の首を洗って待っているぞ」
「ハッ、あんな狸たちの算盤に付き合うのはもう飽きたんだよ」
政宗は鼻で笑い、店員に指を立てた。
「お姉さん、いつものヤツ。この新入りにも同じのを」
数分後。
信長の前に、一皿のプレートが置かれた。
黄金色に輝く、半熟の目玉焼きが二つ。
パリッと弾けそうなソーセージと、厚切りのトースト。
人参を贅沢に使ったシャキシャキのポポロ・サラダ。
そして、湯気を立てる深煎りのブラックコーヒー。
「……ルナキン特製、絶品朝定食だ。まずは食え。話はそれからだ」
信長は、戸惑いながらもフォークを手にした。
合理的に考えれば、毒の有無を確認し、この場からの脱出経路を計算すべきだ。
だが、皿から立ち昇る暴力的なまでの「日常の匂い」に、胃袋が悲鳴を上げた。
目玉焼きの黄身を、トーストの端で突き崩す。
とろりと溢れ出した濃厚な黄金。それをパンに絡め、口へと運ぶ。
「…………っ」
瞬間、信長の目頭が、カッと熱くなった。
美味い。
軍の糧食でも、高級料亭の接待料理でもない。
それは、かつて広島の自宅で、不器用な親父が金曜日のカレーの翌朝に作ってくれた、あの目玉焼きの味に酷く似ていた。
「どうだ、一等陸尉。……その『美味い』っていう感覚には、国益も合理性もねぇだろう?」
政宗が、赤マルの煙の向こうから、射抜くような視線を向けてくる。
「日本政府は、お前を『MIA(作戦行動中行方不明)』として処理した。公式には死んだことになってる。……つまり、お前を縛る『軍人』という役は、もうどこにもねぇんだよ」
信長の手が、止まった。
自分が死んだことになっている? あの合理性の怪物たちが、自分を切り捨てた?
……当然だ。部下を全滅させ、任務地から消失した駒など、若林や蘭にとっては「故障した不良品」でしかない。
「お前はもう、誰も切り捨てなくていい。誰の正しさを証明する必要もない。……ただの坂上信長として、この飯を食って、クソして寝る。……それ以上の正解が、この世にあるか?」
政宗の言葉は、信長が今まで積み上げてきた「合理」という名の城壁を、根底から粉砕するものだった。
隣では、キャルルが幸せそうに人参ジュースを啜っている。
窓の外のニュースモニターには、死蟲Ver.4.0の脅威に揺れる日本の惨状が映し出されていた。
だが、このポポロ村のファミレスの中だけは、不条理なほどに温かく、優しい時間が流れている。
信長は、震える手でコーヒーカップを取った。
自分が演じてきた「冷徹な軍人」という化け物の皮が、この朝食の熱気でドロドロに溶け出していくのを感じていた。
——狂犬が、その牙を収め、一人の「人間」として目覚める。
血塗られた覇権戦記の裏側で、最も非合理で、最も尊い「内政スローライフ」の第3章が、この一皿の目玉焼きから始まった。




