EP 8
法の沈黙と最適化(BLIND SPOT)
マンルシア大陸沿岸部。日本が莫大な国費を投じて建設した『第1資源採掘基地』。
重機とプレハブが並ぶ無骨な拠点の周囲には、坂上信長率いる『黒色小隊』が、息を殺して防衛線を敷いていた。
灰色の空の下、レーダーが多数の熱源の接近を警告している。
アルテア率いる、レオンハート王国の新生・獣人部隊だ。
『——信長一尉。作戦通り、基地の最前列には「非武装の採掘作業員(民間人)」を配置しましたね?』
インカムから、桜田リベラの甘く、そして酷く冷酷な声が響く。
東京の執務室で、彼女は焼きたてのスコーンにクロテッドクリームを塗りながら、盤面を見下ろしていた。
「あァ。作業員たちは『逃げ遅れた』という名目で、最前線のプレハブに隔離してある。……獣人どもが基地に突入すれば、真っ先に彼らが蹂躙される配置だ」
信長は、感情を完全に死滅させた声で答えた。
自国の民間人を、敵を誘い込むための『生贄の盾』として使う。かつて100人を見殺しにした信長にとって、もはやこの程度の非道は「合理的な戦術」の範疇に組み込まれていた。
『素晴らしいわ。敵は近代兵器を持った正規軍。彼らが非武装の民間人を一人でも撃ち殺せば、その瞬間に国際人道法違反が成立します。あとは空から【神の雷】が降り注ぎ、敵本隊は消滅する。……私たちは一発の弾薬も消費せず、完全な勝利を手にするのです』
法という名の文字列を利用した、最も悪魔的で、最も効率的な大量破壊兵器の運用。
リベラは自らの完璧な法解釈に酔いしれ、紅茶を優雅に啜った。
だが。
彼らが「人間の論理」で盤面を構築している間、深淵の設計者は、すでにその一つ上の次元で【最適化】を完了させていた。
「……隊長! 前方から来ます! ……いや、様子がおかしい! 獣人の軍隊じゃありません!」
前哨の部下が、悲鳴のような報告を上げた。
信長が双眼鏡を覗き込むと、地平線の彼方から押し寄せていたのは、軍隊ではなかった。
——赤黒い、泥の津波。
いや、泥ではない。数億、数十億という単位の、極小の『死蟲(Ver.3.0)』の群れが、地面を液状化させながら基地に向かって雪崩れ込んできているのだ。
「蟲だッ! 総員、防毒マスクを装着しろ! 防壁を——」
信長の指示より早く、赤黒い波が最前列のプレハブ(民間人が隔離されている棟)を飲み込んだ。
銃声は、一発も鳴らない。
ただ、蟲の群れが放つ強酸性のガスと、金属すら溶かす分泌液によって、プレハブの壁がドロドロに溶解していく。
「あ、アァァァァッ! 溶ける! 肌がッ!」
「助けてくれ! 隊長ォォォッ!!」
生贄として配置された民間人たちが、生きたまま肉を溶かされ、凄惨な断末魔を上げて絶命していく。
東京の執務室。
モニター越しにその地獄絵図を見ていたリベラは、スコーンを持った手を止め、ニヤリと嗤った。
「……野蛮な獣人ではなく、化け物を使役してきましたか。ですが、民間人の虐殺には変わりない。さあ、システムよ、国際法違反を検知しなさい!」
リベラは、空が裂け、黄金の光が降り注ぐのを待った。
……10秒。
……20秒。
何も、起きない。
空はどんよりと曇ったままで、一条の光も差し込まない。
その間にも、基地の防壁は次々と溶かされ、黒色小隊の隊員たちにも酸の雨が降り注ぎ始めている。
「な、なぜ……!? なぜ神は沈黙しているのですッ!?」
リベラは椅子から立ち上がり、叫んだ。
「明確な文民への攻撃よ! ジュネーヴ条約違反の条件は満たしているはず——」
『……リベラ主席。システムのログを解析しました。最悪です』
通信回線に、早乙女蘭の無機質な声が割り込んでくる。
『ガオガオンのアルゴリズムは、あの蟲の群れを【敵国の兵器】として認識していません。……【自然発生した疫病・あるいは野生動物による災害】として処理しています』
「は……?」
リベラの顔から、急速に血の気が引いていく。
『国際法は、「国家」や「戦闘員」の行動を縛るものです。自然災害や、野犬に噛まれたことに対して、戦争犯罪は成立しない。……敵は、ガオガオンの起動条件を完全に学習し、「法に触れない形態」へと自らを最適化させたのよ』
「そ、そんな馬鹿なッ! 法の精神に照らし合わせれば、あれは明らかな侵略行為——」
『純粋法学なんでしょ? 文字列がすべてよ。システム(神)は、条文にない事象には反応しない』
蘭の冷酷な宣告。
リベラの指から、マカロンの欠片が床に転がり落ちた。
彼女が絶対の自信を持っていた「法」という名の無敵の盾が、蟲の【非戦闘員偽装(災害化)】という純粋な論理の前に、完全に無力化された瞬間だった。
「……リベラ。てめェのクソみたいな法律は、もう役に立たねェってことだな」
現地の信長が、インカム越しに低く唸った。
空からの支援はない。味方の民間人はドロドロに溶け、部隊は蟲の波に飲み込まれかけている。
そして、絶望は重なる。
ズドォォォォンッ!!
突如、基地の側面の防壁が、重魔導砲の直撃を受けて吹き飛んだ。
もうもうと立ち込める粉塵の中から現れたのは、全身を分厚い耐酸性コート(対蟲装備)で覆った、レオンハート王国の重装甲歩兵たちだった。
「……見事な指揮だわ、信長」
砲煙の中から、白銀の細剣を下げたアルテアが、悠然と歩み出てくる。
彼女は、蟲の群れが日本の基地を半壊させるのを『外で安全に待機して』見届け、日本軍の陣形が完全に崩壊したこのタイミングで、漁夫の利を得るために突入してきたのだ。
「自国民を囮にして時間を稼ぐとは。……あなたもついに、合理の極致に辿り着いたようね」
アルテアの銀色の瞳が、信長を射抜く。
そこに同情はない。あるのは、自分と同じ「血も涙もない怪物」へと完成した信長に対する、ドロドロに歪んだ歓喜だけだ。
「アルテア……てめェ……ッ!」
信長は、酸で焼け焦げた軍服のまま、タクティカル・ナイフと拳銃を構えた。
ルール(法)は消え失せた。
安全な執務室で計算を弾いていた大人たちの論理は崩壊し、後には血と泥に塗れた最悪の戦場だけが残された。
「さあ、証明して見せなさい信長! あなたの切り捨てた命の数が正しいのか、私が切り捨てた命の数が正しいのかを!」
アルテアが、狂気的な笑みを浮かべて剣を振りかざす。
信長は、自らの『正しさ』を証明するという呪いに背中を押され、絶望的な物量差の中へと飛び込んでいった。
空っぽの玉座を巡る、鏡合わせの怪物たちの殺し合いが、ついに火蓋を切った。




