EP 6
魔界の宰相と不条理の観測(VIP ROOM)
ズンッ……。
福岡PayPayドームの最上層、分厚い防弾ガラスで隔離された特室(VIPスカイボックス)の床が、微かに揺れた。
「キャアアアアッ! 今の爆発の特効、最高ォォォッ!!」
「月人くぅぅぅぅん!! こっち向いてぇぇぇッ!!」
眼下で繰り広げられる熱狂のステージ。
特室の最前列では、二人の女が法被を羽織り、両手に大量のペンライトを握りしめて奇声を上げていた。
一人は、マンルシア大陸のすべてを創り出した絶対神、女神ルチアナ。
もう一人は、次元すら斬り裂く最強の暴君、魔王ラスティア。
世界を滅ぼす力を持つ二柱の超越者は、今や完全に知性を手放し、推し(朝倉月人)の一挙手一投足に涙を流して狂喜乱舞する、ただの限界オタクと化していた。
そんな狂乱の背後。
特室の薄暗いバーカウンターで、一人の男が深くため息をつき、紙巻きタバコに火をつけた。
魔族穏健派の貴公子であり、アバロン魔皇国の実質的な宰相、ルーベンスである。
「……やれやれ。地下で致死量の血が流れているというのに、ウチの王は特効(演出)だと信じて疑わん。平和なことだ」
ルーベンスは、紫煙を吐き出しながら、手元のタブレットで魔皇国の『赤字決算書』を睨みつけていた。
彼が徹底した理性的思考を用いて、他国との外交バランスや国家予算をどれだけ精緻に組み上げようと、あのバカな魔王が「月人君の限定グッズを全部買う!」と鶴の一声を発すれば、数億単位の国費が吹き飛ぶ。
彼にとって、この世界は絶望的なまでに非合理だった。
「おや、地下の『清掃作業』にお気づきでしたか。さすがは魔界の頭脳」
唐突に、ルーベンスの隣の席に、一人の男が滑り込んできた。
仕立ての良いスーツを着た、内閣情報調査室の特命分析官・狗飼潤である。彼の手には、重厚なジュラルミンケースが握られている。
「人間の情報官殿か。……ずいぶんと悪趣味な防衛戦だな。君たちの同胞が、まさに今この足元で、アイドルのライブを守るために内臓をぶちまけて死んでいるんだぞ」
「ええ。国家の平穏を維持するための、極めて合理的な『コスト』です。彼らの尊い犠牲は、世論というオブラートで美しく包み込み、英雄の物語として消費させてもらいますよ」
狗飼は、悪びれる様子もなく微笑んだ。
彼にとって、大衆の心理など、返報性や権威付けといった「いくつかのトリガー」で操作できる機械に過ぎない。そして目の前の魔族の宰相もまた、高度な知性を持つがゆえに『交渉可能な歯車』であると見抜いていた。
「さて、ルーベンス閣下。本日は、我が国から魔皇国への『極秘の外交提案』をお持ちしました」
狗飼は、テーブルの上にジュラルミンケースを置き、カチャリとロックを外した。
ルーベンスは警戒し、指先にわずかに魔力を込める。中身は新兵器か、それとも強烈な魔石か。
ケースが開かれた。
そこに綺麗に並べられていたのは——
朝倉月人の『直筆サイン入り・未公開バックステージDVD』。
そして、『ドームツアー限定・純金製アクリルスタンド(シリアルナンバー001)』だった。
「…………は?」
さしもの魔界の宰相も、思考が数秒間フリーズした。
「現在、魔皇国は深刻な財政難に陥っていると推測します。原因は、あちらでペンライトを振っておられる魔王陛下の『熱狂的な推し活』」
狗飼は、ケースをルーベンスの方へ推しやった。
「我が国は今後、朝倉月人の限定グッズ、最前列のVIPチケット、さらには『楽屋での非公式な面会権』まで、すべてを魔皇国へ【無償供与】する用意があります。その代わり——日本と魔皇国の間に、永続的な不可侵条約を結んでいただきたい」
ルーベンスは、額を押さえた。
狂っている。国家間の不可侵条約という、何万人もの血と天文学的な予算が動くはずの絶対的な契約。それを、この人間の情報官は「アイドルのグッズ」という原価数千円のプラスチックと円盤で買収しようとしているのだ。
だが。
ルーベンスの明晰な頭脳は、この提案が魔皇国にとって【完璧な最適解】であることを、瞬時に弾き出してしまった。
(……これを我が王に献上すれば、王の機嫌は完全にコントロールできる。無駄な横領も防げる。……何より、厄介な日本と事を構えずに済む!)
ルーベンスは、タバコを灰皿に揉み消し、狗飼を鋭く睨んだ。
「……情報官。君たちは、自分たちが何をしているか分かっているのか? 君たちの部下は、国のためと信じて血を流している。だがその実態は、バカな神々のご機嫌取り(オタ活支援)に過ぎない。……そんな不条理で空虚なシステムを、君たちは国を挙げて守っているというのか」
「ええ。心底、反吐が出ますよ」
狗飼は、初めて営業スマイルを消し、冷え切った声で吐き捨てた。
「あの地下で死んだ兵士たちに、『君たちの命と引き換えに、神様がアイドルのアクリルスタンドをゲットしてご満悦だ』などと伝えれば、彼らは絶望で狂い死ぬでしょう。……だからこそ、我々大人が『国益』や『英雄』という嘘のメッキで、この不条理を綺麗に隠蔽してやる必要があるのです」
自分たちの流す血の価値が、アイドルのグッズ以下であるという究極の虚無。
その事実を誰よりも理解し、それでもなお、国家の生存のために平然と嘘をつき続ける。この人間の底知れぬ欺瞞の闇に、ルーベンスは微かな戦慄すら覚えた。
「……悪くない。君たちのその醜悪な合理主義、私は嫌いではないぞ」
ルーベンスは、ジュラルミンケースをパタンと閉じ、自分の手元へ引き寄せた。
「交渉成立だ。以後、魔皇国は日本政府を『月人ファンクラブの最重要提携スポンサー』として認識しよう」
「光栄です、宰相閣下」
二人の「裏の世界の大人」が、薄暗いVIPルームの片隅で、血にまみれた固い握手を交わした。
『月人くぅぅぅぅん!! 愛してるわァァァァッ!!』
窓際では、何一つ知らない神々が、平和にペンライトを振り回している。
その遥か足元の地下では、信長の部下たちが肉片となって散り、無言の帰還を果たそうとしていた。
合理性という皮を被った、究極の不条理。
この日、日本は魔皇国という最強の脅威を「完全に無力化」することに成功したが……その代償として支払われた命の重さは、宇宙の歴史上、最も滑稽で、最も無価値なものとして消費されたのだった。




