EP 1
神曲の絶対調停(THE LAW)
西暦2026年。
太平洋、フィリピン海域。
空母ジョージ・ワシントンの戦闘指揮所(CIC)は、死に絶えたような静寂と、電子機器の無機質なアラート音だけに支配されていた。
「司令。衛星コンステレーションからの再スキャン、完了しました。……やはり、幻ではありません」
オペレーターの震える声に、第七艦隊総司令官、ジャック・フォークナー海軍大将は、口に咥えたラッキーストライクを深く吸い込んだ。
肺の奥までニコチンを流し込み、ゆっくりと青い煙を吐き出す。
眼前の巨大なメインスクリーン。
そこには、数時間前までただの海原だった場所に、突如として出現した『大地』が映し出されていた。
推定面積、769万平方キロメートル。オーストラリア大陸を凌駕する広大な未知の大陸が、津波一つ起こさずに太平洋のど真ん中に『湧いて出た』のだ。
「沿岸部に中世レベルの城塞都市を確認。ですが、熱源反応が異常です。……あの城壁の上を飛んでいるのは、生物学的にあり得ない巨大な翼竜の群れです」
「……海兵隊を上陸させるには、少々歓迎が過ぎるな」
ジャックは冷たく言い放ち、手元の分厚い本を撫でた。
A・T・マハン著、『海上権力史論』。
海を制する者が、世界を制する。それが彼のアメリカ海軍大将としての絶対のドクトリンだった。
未知の軍隊。未知の生物。
ジャックの深層で、白鯨を追うエイハブ船長の狂気が静かに目を覚ます。アメリカの海に、得体の知れない怪物をのさばらせるわけにはいかない。
正義は常に、圧倒的な火力の側にある。
「巡航ミサイル『トマホーク』、四基発射。目標、あの城塞都市の城門前。……直撃はさせるな。威嚇だ。我々の『火力』を神に代わって教えてやれ」
「イエス、サー」
艦底が微かに震える。
近代兵器の粋を集めた四発の死神が、白煙を引いて未知の大陸へと飛翔した。
*
トマホークが音速の壁を超え、大陸の沿岸部へ着弾しようとした、その時だった。
『——汝ら、破壊の炎を投じる者よ』
ジャックの耳に、いや、CICにいる全員の『脳内』に、直接その声が響き渡った。
「なんだ!? 通信ジャックか!」
「違います、電波の波長じゃない……これは……ッ!」
オペレーターが悲鳴を上げた瞬間、メインスクリーンが白光に包まれた。
天空が、物理的にひび割れた。
次元の裂け目から降臨したのは、全高45メートルを優に超える巨大な鋼鉄の神像だった。
胸には黄金の獅子。
右腕には紅蓮のレーザーを纏う青龍。左腕には大気を砕く白虎。
背に朱雀の光翼を背負い、下半身は重力を歪める玄武の装甲で覆われている。
聖獣機神、ガオガオン。
アナスタシア世界を創世から見守る『調停者』が、二つの世界の激突を前に、その圧倒的な姿を現したのだ。
『人間は克服されるべきものである。汝らは、そのために何を為したか』
それは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の一節。
胸の黄金獅子が、大気を震わせる大咆哮を上げる。
その瞬間、周囲一帯の空間が『神曲(Divine Comedy)』の領域へと強制的に書き換えられた。
トマホークが、ガオガオンの前面に展開された目に見えない壁——玄武シールドに接触する。
爆発は、起きなかった。
数千度の熱量も、鋼鉄を吹き飛ばす衝撃波も、すべてが金色の粒子へと変換され、神気の中で無害な光の雪となって消滅したのだ。
「……ミ、ミサイルが……消滅……」
「馬鹿な……運動エネルギーが完全にゼロにされただと……?」
凍りつくジャックたちの脳内に、再び冷徹な声が響き渡る。
『我が名はガオガオン。この星の新たな理を宣言する』
『ジュネーヴ条約、ハーグ条約、ローマ規程、ならびに国連憲章における【大量破壊兵器の不使用】および【無差別爆撃の禁止】を、我らが神気をもってこの大陸全土に強制適用する』
『——空を焼く炎は、我が刃が落とす。神の庭で、ただの獣に堕ちることは許さない』
直後、ガオガオンが右腕を振り抜いた。
放たれた紅蓮の光線が、太平洋の海面を綺麗に一刀両断し、空母ジョージ・ワシントンの数百メートル先でピタリと止まる。
海が割れていた。
モーセの奇跡のように、数千トンの海水が両側に避け、海底の岩盤が赤熱して露出している。
警告だ。
次に条約を破れば、この光線がお前たちの艦隊を消し飛ばす。
ラッキーストライクが、ジャックの指から滑り落ちた。
最強を誇るアメリカ海軍が、「核」という最強のカードごと、ただの木っ端に成り下がった瞬間だった。
*
同じ頃。
日本、東京。永田町の地下に存在する、極秘の防音喫煙室。
分厚い革張りのソファに深く腰を沈め、足を組んでいるのは、与党幹事長・若林幸隆(60)である。
彼の対面には、ラフなジャケット姿の男が、苦虫を噛み潰したような顔で壁によりかかっていた。
出雲打撃群・総司令官の海将補、坂上真一(50)。
「……聞いたか。ジャックのクソ野郎、見事にハジかれおったわ」
真一は、ハイライトを奥歯で噛みちぎるように口に咥えた。
防衛省の統合幕僚監部からの緊急連絡ラインは、先ほどから悲鳴のような報告を上げ続けている。
「ミサイルも核も効かん。謎の巨大ロボットが『条約違反じゃ』言うて、火薬の概念ごと無効化しよったらしい。……笑えん冗談じゃけえ」
真一の言葉に、若林は一切の表情を変えなかった。
彼は手元のジッポライターで「ピース」に火をつけ、ゆっくりと甘く重い紫煙を天井へと吹き上げた。
「真一。お前は『失敗の本質』を読み違えとるな」
若林の声は、凍りつくほどに冷静だった。
「武力で焼け野原にできん巨大な土地と、億を超える未知の人間が湧いて出た。そして、大国が振り回してきた『核の傘』という抑止力が、あの巨大ロボットのせいでただの紙切れになった」
若林は、傍らのテーブルに置かれた二冊の本を指でトントンと叩いた。
『君主論』、そして『論語と算盤』。
「これは絶望やない。アメリカの絶対的な覇権が崩れ、ルールが根底から書き換わったんや。大量破壊兵器が使えん以上、これからの戦争は『局地的な歩兵の殺し合い』と、兵站を握る『経済の首絞め合い』に回帰する」
若林の眼鏡の奥で、鋭い猛禽のような光が瞬いた。
それは、合気道の達人が、相手の巨大な力が自重で崩れ落ちる瞬間を捉えた時の目だった。
「……先生。まさか、あんた」
「お前んとこの出雲艦隊と、信長のレンジャー部隊。いつでも動けるように鎖を磨いとけ」
若林は立ち上がり、背広の皺を払った。
「アメリカも、中国も、ロシアも、まだこの盤面の『価値』に気づいとらん。血の流れない殺し合い——最高のビジネス(戦争)の時間や」
太平洋の地図が書き換わった日。
核が封印された新世界で、日本の裏ボス政治家と狂犬たちが、世界を調伏するための最初の一手を静かに打ち下ろした。




