第九話『帰り道で見つけた絵』
画材屋の店主は、さっきから手に持った本を全く読んでいなかった。それは今店の中に居る客が非常に気になっているからだった。
いつもなら客が店の中に居るくらいで気になったりはしない。大体が常連客だし、筆を一本選ぶだけで一時間くらい悩む客だってざらに居る。だからいつもは客が来ても全く相手をしないで、一度「いらっしゃい」といった後は放っておく。商品の説明を求められたり、代金をもらったりする時以外は気にも留めない。
だが今店の中に居る客は珍しかった。
まだ若い少女なのだが、今日初めて店にやってきたのだ。初めて店に来る客なだけならそこまで気にしない。旅人が気まぐれに立ち寄ることだってたまにある。そして、店主の自分が言うのもなんだが、高すぎる価格設定に驚いてすぐに出て行ってしまうのだ。絵を本格的に描こうなんて人間はそういないのだから仕方が無い。
だが少女からはそう言う雰囲気をまるで感じなかった。旅人というには準備不足だし、街の人間にしては地味な格好をしている。
ふと、親衛隊採用試験のことを思い出して、そのために街にやってきた女の子なのだろうと察しがついて、ひとまずそれには納得した。
画材屋なんて珍しい店を見つけて、興味本位で立ち寄ってきたのだろうかと思ったが、それにしては食い入るように商品を見つめている。その視線には、珍しいからという理由以上の思いが感じられた。
しかし、少女はけっして商品に触れようとはしない。時々品物に手を伸ばすのだが、すぐに引っ込めて首を小さく振るのだ。そして、その商品と違う商品を見つめて、また手を伸ばすのだが、結局また手を引っ込めてしまう。
そんな動作を店中でして、また最初の場所に戻ってもまた同じ商品でそれを繰り返す。冷たく考えれば、盗もうとしているのではないかとすら思ってしまうが、ここまで目立つようなことをしているのだからそれはないだろう。
店主はもう何度か立ち上がって、その少女に試し描きをしてみてはどうかとすすめようかと思った。
店の紙を売っている場所では、試し描きができるように何枚か紙を用意してあり、その横に大きく『ご自由にお描きください』と書いてある。少女が、字が読めないのだとしても、落書きがいくらでもしてあるのだから気付いてもいいはずだ。
実際、少女はそのことに気付いたのか、試し描き用の紙の前では長い時間立ち止っていた。しかし結局筆を取ることなく素通りした。買う気が無いからだろうかと思ったが、筆に手を伸ばした時、少女がわずかに怯えて身体を震わせたように見えた。あれは気のせいだったのだろうか?
こんな状態がもう数時間も続いている。迷惑という訳ではないのだが、気になって仕方が無い。
「……よし」
店主は小さく言って立ち上がった。珍しく自分から声をかけてみようという気になった。
少女は今筆がおかれた場所で立ち止まっている。ポケットの中に手を伸ばし、何かを握り締めているようだった。
「いらっしゃい」
「……!」
全く店主に気付かなかったのか、少女は取り乱したように振り返ってくる。
「何かお探しでしょうか?」
言ってから店主は後悔した。さっきからずっと見ていたというのに、なんだこの定型の言葉は。これでは迷惑だから帰ってくれと言っているようなものではないか。
「……ッ!」
「あ……」
少女もそう言う意味合いで受け取ったのか、慌てて駆け出して逃げてしまった。
申し訳ないことをしたと思いながら店主が床を見ると、少女が何かを落としていったのに気がついた。
「これは……財布か……」
慌てて追いかけようと思ったが、少女の姿はもうどこにもない。どうしようかと思い、財布を見ると名前が縫い込んであった。
「カルラ・ビショフ……か」
親衛隊の試験を受けによその町から来たというなら、割引を利用して宿に泊まるはず。泊まる宿は国が把握しているだろうから、そこに届ければいいだろう。
店主はそう考えて、今日は店を閉めることにした。
* * *
村での時間はあっという間に過ぎ去った。
モニカは朝と昼は村と母親の手伝いをし、夜は自分で自分にノルマを課して訓練をした。マルテに「村に居る間くらいは休んだら?」と言われたが、城に帰って他の仲間に後れを取りたくなかった。モニカは親衛隊長を目指すのだから……。
「それじゃあ私は帰るけど、お母さんは無理しちゃダメだよ?」
またしばらく会えないというのに、別れ際まで背伸びをして説教をする娘にマルテは苦笑した。そう言えば、前にモニカが城に旅立った時もこんな別れだった気がする。
「行ってらっしゃい。そして、ノルベルト様のために頑張るのよ?」
「……うん! 行ってきます!」
モニカは最後に飛びきりの笑顔で別れの言葉をいって、元気よく城への道を駆けだした。一度駆け出せば、モニカが振り返ることはない。こういう意地っ張りで強がりなところは一体誰に似たのだろうと思いながら、娘の背中が見えなくなるまで、マルテは涙をこらえるのだった。
* * *
モニカは長い帰り道を、飛ぶように走って城へ向かう。天気が良く、追い風だったため、モニカは風になったようで気持ちが良かった。
もう数時間は走っているだろうが、まるで疲れなかった。
この道を城に向かって進むのは三度目だった。一度は試験を受けるために馬車で、二度目は村で準備を整え、親衛隊となるために歩きで向かった。その二度ともクララと一緒だった。
見覚えがある個所を通りかかるたびに、その時クララと話した内容を思い出し、まるでクララと一緒に歩いている気分だった。不思議と、勉強めいたことは思い出さなかったが……。
「うわっとっと! ハァハァ……」
モニカは急に足がもつれて転びそうになり、その場に立ち止まって息を整えた。心の方は疲れていなくとも、身体の方はすっかり疲れていたらしい。立ち止ると同時に、邪魔になるほど汗が噴き出してきた。
「ふぅ……。時間は……あれ?」
時計を取りだして時間を確かめると、思っていたより遥かに速いペースで進んでいる。家を出る時、マルテに弁当を渡されたが、食べている暇はないと思っていた。しかし、これだけ余裕があればゆっくり味わいながら弁当を食べることができる。
こんなことならもう少し家でゆっくりしておけばよかったと少し考えたが、早く帰るに越したことはないと思いなおした。
「んと……」
弁当を食べるとなったら、食べる場所を見つける必要がある。この道に座り込んで食べてもいいが、それではあまりに花が無いだろう。これだけ美しい自然に囲まれているのだから。
そしてモニカは、その時不思議な音を聞いた。
それほど珍しい音ではない。むしろ、よく聞く平凡な音だった。それは、紙に筆を走らせる音によく似ていたから。
「どこから?」
ここは田舎道のど真ん中。周りは自然に囲まれ、家は一軒もない。
筆を走らせる音が聞こえてくるにはおかしい場所ではあるが、別に気にするような音ではないはずだった。
しかし、その素早く筆を走らせる音が耳に響き、モニカの気を引いた。
字を書いている筆の音ではない気がした。クララが手紙を書く時に聞く音ではない。字は短い線の集合だ。だから、字を書く時は、もっと忙しくせかされるような音がする。
だが、この音は違う。短い音の連続ではない。短かったり長かったり、時々線を悩むように音が途切れるが、またすぐに線を引く音がする。
長く、短く……長く、長く……。
耳を澄まし、そのかすかな音を追う。なんとなく方向を掴み、そちらに足を向けた。
「あ……」
筆を走らせる音が聞こえるくらいなのだから、それほど遠くないとは思ったが、予想より近くにその音の主がいて驚いた。
「……なるほど」
音の正体を見て、モニカの疑問はすぐに解決した。あの筆の音は字を書く音だったのではない。絵を描く音だったのだ。
そこには椅子に座り、大きなキャンバスに向かっている少女の姿があった。
絵は自由だ。描く者によって線の長さも太さも違う。描く対象はもっと様々だ。人を描く者もいれば、風景を描く者もいるだろう。筆の音が字を書く時と違いが出るのは当たり前だ。
少女はよほど集中しているらしく、こちらに気付く様子は全くない。邪魔をしてはいけないと思い、モニカは静かにそこを立ち去ろうとした。だが、フッと少女の後姿が知っている人間の者と重なり、モニカは足を止めてその名前を口にしていた。
「カルラちゃん?」
モニカが名前を口にすると同時に少女の手が止まり、こちらに振り返った。すると、それは間違いなく、モニカのルームメイトのカルラ・ビショフだった。
「……あ」
カルラはモニカだということに気付いたのか、筆を持ったまま小さく会釈してきた。
「やっぱりカルラちゃんだ。わー、わー、偶然だね? カルラちゃんの住んでた場所ってこのあたりなの?」
モニカは絵描き少女がカルラだと分かると、そばまで近寄って行ってカルラの顔を覗き込んだ。カルラは少し困惑しながらモニカの質問に答える。住んでいた町の名前を聞くと、モニカの故郷からそう遠くない場所にある町だった。
「へぇー、私達って結構近くに住んでたんだね。家への帰り道も、曲がり道が一つ違うだけだし」
「うん……」
カルラの返答は簡素なものだ。しかし、返答をしてくれるということは嫌悪されてるわけではないだろう。
「私はこれからお昼を食べようと思うんだけど、ここで食べていいかな? カルラちゃんはもうすんだ?」
「私は……これ」
カルラの右手にはサンドイッチが握られていた。なるほど、作業しながら食べるために作られた食べ物だからな。ご飯を食べるついでに絵を描いていたのだろう。
「もう食べてたんだ? じゃあ私もこの辺に座らせてもらって……。食べながらお話してもいい?」
「……どうぞ」
そう返事をして、カルラは再び絵を描き始めた。モニカは二コリと微笑んで弁当を広げる。
不規則に繰り返される線を引く音、そして肌を優しく撫でる暖かな風が心地いい。やはり家を出る時間はちょうど良かった。こんなに素敵な時間を過ごすことができるのだから……。
「カルラちゃんって絵が好きだったんだね?」
カルラはこくりと小さく頷く。相変わらずシンプルな返答だ。まあいいさ、一方的に話しかけて、友人と一緒に過ごす楽しい昼食を演出してやる。
「部屋を出る時はその絵を書く道具は持ってなかったけど、カルラちゃんの町で買ったの?」
「……中央で買って、来る途中でここに隠してた」
「え!?」
静かな返答だったのに、内容が予想外で驚いてしまった。何でそんな面倒臭いことをしたんだろう? あ、その道具重そうだもんな。持っていくのが大変だったんだきっと……。
「ま、町ではどうだった? 楽しく過ごせたの?」
「寝てた」
モニカが質問して、カルラは一言二言でバッサリ返答。花が無い昼食とも言えるが、カルラがたまに変化球を投げてきて驚いたりもして、なかなか愉快な食事だった。
すごいのは、カルラが会話をしながらでも――カルラは返事をするだけだが――全く絵を描く手を止めないことだ。
ほぼ迷うことなく上から下へ、驚異的な速度で筆を動かし続ける。手の方を目で追っていると、目が回りそうだ。食事を始めてから十数分くらいしかたっていないが、キャンパスにはかなり描きこまれていることだろう。
ふと、モニカはカルラがどんな絵を描いているのか気になった。景色を見ながら描いているから風景画だとは思うが、絵というのは性格が出るものだと思う。大人しいカルラがどんな絵を描くのか見てみたい。
モニカは立ち上がってカルラの後ろに回り込んだ。カルラはピクリと体を動かして反応したが、絵を隠そうとしたりモニカを制止するような言葉を言ったりしないあたり、みられても構わないのだろう。
「わぁ……!」
その絵を見た時、モニカは感嘆の声をあげた。どうやらそれはまだ下書きのようだった。キャンバスいっぱいに白黒の荒く薄い線が走っている。それでも、何処に何が書いてあるのかはっきり分かる。カルラの画力が相当高いものだと想像できた。
「カルラちゃんカッコいいね」
素直な感想だった。本格的に絵を描くのは初めて見たが、真剣に筆を走らせる姿はそれだけで絵になっている。普段寡黙なカルラを見ていたから余計にカルラが凛々しく見えた。
モニカがその感想を口にすると、何を話しかけられても筆を止めなかったカルラの手が止まった。
(あ、しまった……)
モニカは瞬間的にそう思って口に手を当てた。女の子に対してカッコいいはないだろう。もっと無難に、絵がうまいと褒めるべきだった。実際かなりうまいのだし、絵を見ての感想なんだから状況にも合っている。
「……カッコいい?」
カルラの声は感情が読みにくい。怒っているのかどうかすらわからない。
「う、うん。でもその絵が上手だったからカッコよく見えたのかも! すごいよね、細かいところまで しっかり表現できてるし、筆に迷いが無いもの。やっぱり、カッコ……いい……」
また言ってしまった。だから女の子に対してカッコいいはまずい。
カルラは押し黙ったまま動こうとしない。怒らせたなら、城に帰ってから気まずい空間で過ごさなくてはならなくなる。
「……と」
「え? ごめん聞こえなかった」
カルラの声が小さすぎて聞こえなかった。聞き返すのは怖かったが、声は怒っていなかったように思った。
カルラは振り返ってもう一度言った。相変わらず声は小さかったが、顔がこちらを向いていたので今度は聞こえた。
「もっと……言って」
始めてみるカルラの顔だった。顔は微かに赤らめ、目と眉は恥ずかしがるように伏せられ、弱々しく閉じられた口は、怯えたように震えていた。
(か……かわいい……)
モニカが自分の顔を見られたなら、カルラと同じように頬が赤くなった顔を見ただろう。甘えたような表情と声色でねだられて、惚れそうだった。
「絵、絵が描ける人って尊敬するよ。私も落書きくらいはするけど、カルラちゃんの絵とは比べ物にならないよ! いつも落ち着いたカルラちゃんが描くから絵を描く姿も映えるんだろうね? 私が筆を持ったら、いたずらでも始めるんじゃないかって馬鹿にされちゃうもん!」
モニカはカルラの要求に答えて、少ない語彙で出来る限りの賛辞を並べ始めた。それでも嘘は付いてない。嘘なんて付く必要が無いほど、カルラへの賛辞が次々浮かんできた。誰かが許してくれるなら、今すぐカルラを抱きしめて頭を撫でたいくらいだ。
「カルラちゃんの絵って、見てると落ち着くよ。とても静かで、でも包みこまれるような優しさと安らぎがある。絵を楽しんで描いてる……ううん、愛してるって言うのが伝わってくる」
褒めるたびにカルラの表情が赤らめたり、身体をピクリと振るわせたりするのを見るのが嬉しくて、褒め言葉はどんどん大げさになってきた。それでもまるで恥ずかしくない。カルラを喜ばせることができるなら、後で思い返した時自殺したくなるような恥ずかしいことを言っても後悔しない。
「色を塗ったら綺麗なんだろうなー。きっとカルラちゃんの涙に引けを取らないくらい……あれ?」
モニカは自分が今おかしななことを口走ったことに気付いて口を止めた。何で『カルラの涙』なんて言葉が出てきたんだ?
……それはきっと、カルラが涙をこぼしていたからだろう。
「……うく……うぁ……」
いつの間にかカルラは泣いていた。カルラの声は泣き声まで小さかった。
「ご、ごめん! 泣かせるつもりは……」
「うわぁああん! ああぁあああんッ!」
と思ったら、大声で泣き始めた。モニカは困惑してその場でおろおろとした後、カルラの頭を抱いて涙を拭いてやった。
するとカルラがモニカに抱きついてきて、モニカの胸で泣き始めた。モニカは何がなんだから分からないまま、カルラの頭を優しく撫でる。
モニカに分かるはずもない。カルラがどうして泣いたのかなど……。
カルラの町には母と父がおり、カルラの活躍を願っているのだ。
* * *
カルラはいつしか泣きやみ。恥ずかしがるようにモニカから離れた。
モニカは少し残念に思ったが、それは口にしなかった。
「ありがとう……」
カルラは顔を背け、照れたようにその言葉を口にした。
「どういたしまして。……そろそろ城に行こうか。道具を片付けるのを手伝うよ」
モニカは時計を確認し、思っていたよりここに留まっていたことに気付いて、惜しむようにそのことを切りだした。道具を持っていくということは、ここからは歩いて帰らなければならない。そうなると、かなりぎりぎりの時間だ。
その後はカルラと二人で片付けをした。道具はすべて折りたたむことができ、持ち運べるようになった。
「半分持つよ。いいよね?」
「……ありがと」
カルラは頷きながら言った。なんだかこの数十分の間に、すごく仲が良くなったような気がして嬉しかった。
「ねえ、カルラちゃん。カルラちゃんが受けた四次試験って何だったの?」
モニカはずっと聞きたかったことを思いきってカルラに聞いた。今なら答えてくれると思ったからだ。
「……私は」
カルラはモニカの質問に答えてくれた。やはり簡素に……。
そしてモニカはその答えを聞いて、「ああ、なるほどな」と納得するのだった。




