第五十三話『発熱』
フレイヤが森に逃げ込んだ日から数日後。フレイヤは別にぎくしゃくすることもなく、毎日の訓練や歌の練習をこなした。それどころか、歌の練習に関しては、前以上に熱を込めて取り組んでおり、モニカたちは首をひねったくらいだった。
今日はエーフィとカルラが通路の修復をしているので、それ以外の三人でフレイヤを囲んでいる。
「歩み続けたー……。どうだったかな?」
フレイヤが歌い終えて、モニカ達に意見を求めてくる。
「うん、相変わらずとっても良かったよ。最後の音がすごくきれい。遠くに向かっていくのが想像できるような音の切り方だったね」
「そっか、ありがとう!」
モニカは素人なりに感想を述べる。的を射ているのかわからないが、フレイヤは満足してくれたようだ。
「やってるな」
「あ、ベル。数日ぶり~」
森の中からベルが茂みを揺らしながら現れる。前に現れた時から少しあいて、フレイヤが森に逃げ込んで以来初めて顔を出した。
ベルは適当な切り株に腰を下ろし、中心にいるフレイヤに視線を向ける。
「聞いたぞフレイヤ。なんでも誕生祭で歌うのが恐ろしくなって逃げ出したそうじゃないか。ノルベルトの手も煩わせたというのだから驚いた」
「ぶっぶー! フレイヤは別に誕生祭が怖くて逃げだしたわけじゃないから。フレイヤ素人が偉そうに話すと恥かくよ~」
すかさずニーナがベルの前に出て胸を張る。そのやり取りを見て、フレイヤはあの時の会話をベルが秘密にしてくれていることを理解する。
「……」
そしてこっそり、フレイヤは視線をベルに向ける。すると当たり前なのだが、ベルの顔が目に飛び込んでくる。フレイヤはベルと視線が合うのが怖くてすぐに顔をそらした。しかし、またベルの顔を見ようと首が動いてしまう。すると当然、ベルの顔は何の障害もなくフレイヤの目が捉えてしまう。だからフレイヤは即座に顔をそむけなくてはならなかった。
そんな動きを二、三度繰り返すとベルの前にモニカがフレイヤの行動に気付いた。
「どうしたのフレイヤさん? ベルのほうをちらちら見て」
「えッ!? いや、別に! ベルのほうなんて見てないよ?」
『よかったら、お前も俺の依存先の一つになってくれないか?』
ベルが去り際にあんなことをいうものだから、フレイヤはベルに何と声をかけてよいかわからなかった。
『……ダメか。口説き文句は難しいな』
ベルは最後そう言って立ち去って行った。男にいいよられることはおろか、ろくに会話もしたことがなかったフレイヤにとって、その言葉は衝撃的だった。冗談か本気かの区別などつくはずもなく、今日までできるだけベルのことは考えずにいたのだ。だが、こうして目の前に現れれば、意識せずにいられるはずがない。
困り果てたフレイヤができたのは、ちらちらとベルの顔を見て様子を探るぐらい。だというのに、ベルの表情は穏やかでまるで意識した風がない。そんなベルの顔が、モニカの言葉によってフレイヤに向けられた。
「なんだ? フレイヤ、俺の顔に何かついてるのか?」
「い、いえ、別に……」
「ん~?」
ベルに話しかけられ、口ごもりながら顔をそらしたフレイヤを見て、ニーナが眉をひそめた。
ベルはそんなニーナは気にせず、にやりとして話し出す。
「いや、しかし惜しいことをしたなー。聞けばお前は夜中に急に不安になって、森に逃げ込んだらしいじゃん? 着替える余裕もないほどだったから、寝間着のままで森の中に入ったとか」
「……?」
フレイヤは『惜しいことをした』という言葉が引っ掛かり、返事ができなかった。ベルは構わず続ける。
「寝間着の布は薄い。木の枝や茂みに引っかかれば簡単に裂けてしまう。ましてやお前が入り込んだのはろくに整備もできない森の奥だろう? 走るうちにあっちこっち破れたんじゃないのか?」
「……あー」
クララが次にベルがどんなことをいうのかを察して声を上げる。そして若干の軽蔑の視線をベルに向けた。だからどうなるということはないということを承知の上で。
「秋になったといっても今年は残暑が厳しい。寝間着の下に来ているのはせいぜい下着ぐらい。つまり一枚剥げばそこには素肌が露出してたはずなんだよな」
「あ……あ!」
そこでフレイヤは今の今まで気づかなかったあの日の自分の格好について思い至った。確かにあの日は寝巻がビリビリになっており、ニーナが上着を持ってきてくれていなければ、とても歩けたものじゃなかった。
「小さく裂けた服の切れ間から素肌がチラリとのぞく。大きく裂けた部分には、素肌と同時に下着も見えてたに違いない。惜しいことしたなー。それはきっと目の保養になっただろうに……。もしそれを下から見上げる機会でもあったならば、きっと見えてはならないものまで……」
「こっの! すけベル! あんたは一日一回私に殴られないと気が済まないの~!?」
ほんとうに残念そうに話すベルに向かって、わなわなとふるえていたニーナが渾身のこぶしを繰り出す。反応が想定内だったのか、ベルは座った状態から即座に飛びのいてこぶしをかわし、ニーナと鬼ごっこを始める。
「短気だな。いいじゃないか想像するくらい。実際には見れなかったんだから」
「言葉や音は相手に届くの! ベルのセクハラ音源がフレイヤの体をなでまわして汚してるじゃない~。二度とそんなことができないように成敗してやる~」
ニーナはこぶしをぶんぶん振るいながらベルを追う。ベルはそれをひょいひょいとよけながら笑っている。
そんな二人を見ながら、モニカとクララがフレイヤに近づいた。
「あー、フレイヤ。無理だとは思うけどあんまりベルを怒らないであげて。無理だとは思うけど」
クララはベルを擁護しながらも、非難の色を隠し切れていない。ああまで堂々とセクハラ発言をされたのでは、フォローするのも難しい。
「そ、そうだよ。ベルは遊んでるだけなんだから。フレイヤさんを困らせようとしてるわけじゃ……あれ? フレイヤさん?」
フレイヤから反応が返ってこないので、モニカは顔を覗き込んだ。
「布の切れ間から肌……し、下着? 下から見上げたらって……わ、私もしかしてッ!?」
フレイヤは思った以上に赤面していた。しかし不思議と怒りの感情は読み取れなかった。ただただ恥じらいを浮かべるだけ……。
「……フレイヤ、もしかしてあなた」
「とらえたーッ!」
そんなやり取りをしていると、ニーナが大きく叫びながらこぶしを繰り出した。どうやら当たるのを確信したらしい。
「……ほっ!」
「え……わっ!」
ニーナのこぶしはベルの顔に向かって放たれた。ベルはそれを右の掌で受け止め、そのままニーナの体勢を崩して腕で受け止める。
「いつも殴られっぱなしじゃいい加減恰好がつかないからな」
「……ふ、ふん! 放せ~セクハラやろう~!」
ニーナは受け止められたままじたばたする。ベルは苦笑いをしながらニーナを離し、フレイヤに向きなおった。
「フレイヤ。誕生歳まで一月を切った。お前に歌ってもらうのは一曲だけだが、いい加減参加するなら音楽隊の人間と音合わせをしてもらわなくては間に合わないぞ」
「あ、参加します。どこに申し出ればいいのかな?」
ベルは一つうなずいてから背を向ける。
「明日この時間に音楽隊の隊長を連れてくる。本気で参加するつもりなら、その時本人に直接言ってもらおう」
言いながら、ベルはそのまま茂みに入っていく。今日はそのことを伝えるのが目的だったようだ。
「フレイヤ~、もしかしてベルに惚れたの~?」
ベルが完全にいなくなると同時に、ニーナがフレイヤにそう聞いた。すぐ横にいたモニカが飛び上がって驚く。
「ちょ、ちょっとニーナ。いきなりどうしたの? フレイヤさんはむしろベルのことを苦手だと思って……」
「私も同じ感想を持ったわ」
「クララちゃんまでっ!?」
驚いたモニカに対して、クララは冷静だった。腰に手を当てて静かにフレイヤのほうを見据えている。
「フレイヤのベルに対する視線がいつもとは違って見えた。とても好意的なものに変わった気がしたんだけど。気のせいかしら?」
クララにそう言われ、フレイヤは顔を赤くしたまま言う。
「わ、分からないの……。こんな気持ちになったのは初めてで……」
「……」
(え、えぇええええええ!?)
そのフレイヤの表情を見て、モニカにも分った。フレイヤはベルに惚れた。言われてみればわかり安すぎるくらいなのに、フレイヤはベルを嫌ってるという先入観から気付けなかった。
でも、なぜ? どうして? 一体いつの間に?
「だめだよ、フレイヤ! いくら周りにベルしか男がいないからって、いたずらでコミュニケーションをとってくるような男に惚れたら。そういうのはダメ男好きっていうんだよ? 将来苦労しちゃうタイプだよそれ!」
いつになくはきはきとした口調でニーナが止める。
「い、いや、別にいたずらをされたから惚れたってわけじゃ……」
「ほら! やっぱり好きになっちゃったんでしょ? 分かるっ! 好きになった人のことはどんな言葉や解釈をもってでも肯定したくなるその気持ちはわかるッ! でも、ダメなの! 絶対ダメなの! 許されないの!」
そんな必死に止めるニーナを見て、モニカはちょっと胸が熱くなる。そういえば、ニーナは依然ベルとモニカのことを応援してくれると言ってくれた。きっと、先に約束した自分のことを立ててくれようとしているのだとモニカは期待した。のだが……。
「フレイヤは私のモノなんだから~! お嫁になんて行かせません!」
「えぇー! ニーナ、ちょっと待って。私のモノってどういう……」
「いいえいいえ! 認めないよ~! フレイヤと結婚したい奴は私を倒してからにしろぉ~!」
突然の自分のモノ発言に戸惑うフレイヤを無視して、声高々と宣言をするニーナ。そんな二人を、一歩引いたところでモニカとクララは見ていた。
ぽん! そんな音とともにクララの手がモニカの肩に乗せられる。
「……よかったわね。問題の一つだった、フレイヤのベルに対する印象の改善がクリアできて」
「改善……どころじゃないよこれ! 大問題だよ! だって、だって、フレイヤさんって綺麗だし、胸も大きいし、背も高いし、声奇麗だし、胸も大きいし……」
「コンプレックスが二回も口から出てるわよ……」
フレイヤはニーナをなだめながら、クララはモニカをなだめながらこの日は時間が過ぎて行った。
* * *
次の日。この日は、ニーナとクララが通路の修復当番なので、それ以外の者達が森の中で集まっていた。
ベルが音楽隊長を連れてくるまで、モニカ達は歌うフレイヤを囲んで待っている。今日はいつになくフレイヤがそわそわしているようだった。
カルラとエーフィは、そんなフレイヤの態度を、誕生祭について緊張しているのだろうと解釈したが、モニカは違う。昨日のフレイヤの態度を知っているから、モニカはフレイヤが何にそわそわしているのか理解している。だから、モニカも少し落ち着かずにベルを待っていた。
フレイヤが二、三曲歌うと、茂みが揺れる音がした。
「相変わらず綺麗や歌声ね。こんな屋外の開けた場所でも、とてもきれいに音が通る」
「あ、音楽隊長さん」
フレイヤが真っ先にその声の主に気付いてお辞儀をする。というか、この中ではフレイヤしかその人間に気付くことはできない。茂みから現れたのは、四次試験『歌』の試験官を担当した、音楽隊隊長のカトリーヌだったから。
「カトリーヌで構わないわ。隊長なんて言われてはいるけど、別に偉いわけではないもの」
「は、はい。では、カトリーヌさんと呼ばせてください。……あ」
カトリーヌの後ろから、ベルが表れる。それに合わせてエーフィが静かに立ち上がってお辞儀をした。フレイヤは、なぜかエーフィだけがベルに対して特別敬意を払っているのを知っていた。深く考えたことはないが、エーフィは礼儀正しいからそういう対応をしているのだろうと思っていた。
(ベル……)
昨日まで、フレイヤは自分の胸にともったこの思いに胸を締め付けられていた。恋だとは思っていなかった。昨日ニーナやクララにそう指摘されるまでは。 だが、言われてみれば、この思いは仲間たちに対する温かい思いととてもよく似ている。男に対してそんな気持ちになったのは、父親以外では初めてのことだった。もしかしたら、本当に自分はベルのことを好きになってしまったのではないかとフレイヤは思っていた。
「カトリーヌも忙しくてな。連れてくるのが少し遅れたのは悪かった」
「いえ、返事を待たせてしまったのは私だから……」
フレイヤはそう言いながらベルから顔をそらす。
『俺は人の感情には鋭い方だぞ?』
ベルはあの日そう言っていた。それが本当なら、今の自分の顔を見られたら、フレイヤもまだよくわかっていない胸の内を見抜かれてしまうかもしれない。フレイヤはそう思うと怖くて、まともに顔を見ることができなかった。
「えーと、ベル……から聞いたところによると、フレイヤちゃんは参加してくれるということでいいのかしら?」
カトリーヌは、ちょっと考えるようにしながらそう言ってほほ笑んだ。この問いに対してはしっかりと答えなくてはならない。だからフレイヤは、自分の心をかき乱す感情を押し殺してから、しっかりとカトリーヌに向き合った。
「はい。参加させてください」
凛として、フレイヤはそう言った。カトリーヌはそれに頷いてから口を開こうとしたが、それよりも早くフレイヤは言葉をつづけた。
「今度は虚言ではありません。正真正銘、本当に参加したいと思っていますし、やり通す覚悟をもってそう言います。あの時……親衛隊試験が行われたあの日。私はとても失礼な理由と優柔不断な覚悟で参加しました。初めはとても後悔しました。でも今は、後悔よりも申し訳ないという気持ちが勝っています。私のほかに、本気で親衛隊になりたいと思った人もいたかもしれない。それなのに、こんな私が試験に合格してしまった……」
フレイヤの突然の告白に、モニカ達は少し困惑する。ぼかしてはいるが、鋭い人間ならフレイヤが親衛隊になりたかったわけではないと気づいてしまう。それを試験官だったカトリーヌに言うのはまずいのでは……? だが、フレイヤはめげなかった。
「でも、今は誰よりも親衛隊になりたいと思っています。あの時、あの場所にいた誰よりも親衛隊になりたいと思っていると宣言できます。何物にも代えがたい……絶対に手放したくないと思える仲間達と、主に出会ったからです」
カトリーヌは不意打ちを食らったような顔をした後、ニコリと微笑んで頷いた。
「驚いたわ。まるで別人ね。あの日私は、あなたのことをとてももったいないと思った。それだけの才能が有りながら、内心面がついてきていないもったいない人材だと思った。でも、あなたはこの短い間にそれを身につけて成長した」
目を閉じ、ゆっくりと開いてフレイヤに言う。
「改めて……今のあなたにお願いするわ。あなたと一緒に音楽を作ってみたい。今年の誕生祭、私たちは初めて歌を取り入れて発表する。実験なんて言葉は使わない。これは将来に向かっての挑戦よ。その大役を、引き受けてもらえないかしら?」
依頼内容が一気に重みを増す。以前までのフレイヤなら震えあがって辞退しているかもしれない。だが、フレイヤは変わった。
「はい。私に歌わせてください」
これをもって、フレイヤの誕生祭への参加が決定した。
カトリーヌは満足のいく答えを得て、ベルに振り返った。
「ノルベルト様にお礼を言わせてください。よくぞこんな素敵な歌い手を見つけてくださいましたことを。誕生祭をきっと成功させて見せます。あなたに誓って」
「……」
ノルベルトはその言葉に返事をしなかった。感動したような表情も浮かべない。
何というか……「あ~あ」というような声が聞こえてきそうな表情を浮かべる。
「? どうなさいました……? あ! 外ではノルベルト様ではなくベルでしたね。すみません、私は慣れてなくて……。で、でも親衛隊の方はみんな知っている……ことですよね?」
カトリーヌが恐る恐るモニカ達の方を振り返る。確かにモニカ達は知っている。だが、たった一人、そのことを知らなかったものがこの場にはいた。
「ノルベルト様……? どこに?」
フレイヤがきょろきょろと周りを見まわしている。そのうち、この場にノルベルトは最初からいなかったことに思い当たり、この場に男は一人しかいないことにも気づく。
「……ベル? あれ? ノルベルト様? えっえ? ……え?」
フレイヤがベルのことを瞳でとらえる。一瞬、そこにノルベルトがいる錯覚を起こす。それは一瞬だったはずなのに、何度もその現象は起こった。ベルがベルに見えて、ベルがノルベルトに見えて、ノルベルトがベルに見えて……そんな錯覚を何度も繰り返すうち、ベルとノルベルトの顔がとても似ていることに気付いた。
「……まあ、いつかはバレることだ」
ノルベルトは観念して、マフラーと度の入っていないメガネをはずした。それに合わせて、モニカ達は苦笑いしながら跪いて礼をした。フレイヤが理解しやすいように。
「え……ええぇぇええええええええッ!?」
その日フレイヤは熱をだし、数日間寝込んでしまった。




