第三十三話『やぶ蛇』
「さあ、もうすぐ着くよ~」
ニーナは明るい声でそう言いながらモニカの前を歩いている。対してモニカは、一人考え事をしながらその後ろをついて歩いていた。
料理人たちは、数人で厨房から出てきたというのに、誰ひとりニーナにお礼を言わなかった。
今日はモニカがいたから二人だったが、いつもは多分ニーナひとりであの量の食材を運んでいるはずだ。数人がかりで受け取る量の食材を、一人で運んできたニーナに対してお礼の言葉がなかった。
仕事なのだからやって当然だ。お礼を言う必要はない。そう言われたらそうなのかもしれない。だが、料理人たちはニーナに対して「おはよう」や「おかえり」も言わなかった。
挨拶くらいはしてもいいだろう? なぜ誰ひとりそれを言わなかったんだ?
しかも、ニーナはそんな態度をされてもニコニコと笑っていた。ニーナにとっては驚くほどのことではなかったということだろう。つまり、ニーナにとって料理人たちにあんな態度をとられるのはあたりまえで、今日だけが特別だったというわけではないのだ。
ニーナはもしかしたら……。
「さあついた。これが今日の私の仕事で~す!」
「え……うわ!」
考え事をしながらついてきたから、ニーナに言われるまでそれは目に入ってこなかった。だからそれを見たとき、モニカは思わず声を出して驚いてしまう。その、尋常ではない野菜の量に……。
「今日は野菜を洗う仕事をもらったよ。厨房で料理をするなら、パパッと終らせちゃわないとね~」
「パパッとって……」
腕まくりをしながら張り切るニーナの声がぼんやりとしか頭に入ってこない。
連れてこられたのは、厨房のすぐわきにある庭だ。その庭には倉庫があり、そこに食材や調味料、料理道具などをしまってあるのだという。料理自体は厨房でするが、前準備や食材を置く場所などにこの庭は利用されているのだとニーナは言った。
モニカの前には野菜の入った籠が山になって積まれている。パッと見ただけで百くらいあるように見える。籠は決して小さくはないうえに、その中には野菜がどっさりと詰め込まれている。想像するにかなり重いはずだ。
モニカは、自分がその数に驚いているのか重さに驚いているのかわからなかった。もしかしたら、その量を前にして、まったく物おじせずに準備をしているニーナに一番驚いているのかもしれない。
「に、ニーナ! こんなにたくさんの野菜を一人で洗うの!?」
「うん。びっくりしたでしょ~? 今日は朝から晩まで野菜をたくさん使う料理が続くからね。朝のうちに全部洗っておかないと効率が悪いんだよ~」
なぜ野菜がこんなに必要なのかは聞いていない。確かにそれも気になってはいたが。
「……一籠どのくらいの重さなの?」
「ん~。ざっと十五キロくらいかな? あ、籠を含めるならもう二、三キロ重いと思うよ~」
ニーナは何でもないかのようにそういった。個々の重さは、確かに馬鹿みたいに重くはない。しかし籠の数が多すぎる。総重量は軽く一トンを超えるはずだ。
「……」
モニカは声を失った。一日かけてこの量をさばくならともかく、朝一で全部洗うのだ。その運動量は、朝練をしているモニカ達に匹敵……いや超えるくらいかもしれない。
「ハ~、うりゃりゃりゃ~!」
絶句するモニカの前で、ニーナは水を張った桶の中に野菜を入れ、掛け声とともに野菜を洗い出す。
「はい一籠終わり~」
「え、もう?」
モニカが呆然としている間に、ニーナは一籠洗い終わってしまった。ニーナは洗い終わった籠を持ち上げ、別の場所に運んでから置いた。そしてすかさず高く積まれた籠の山から一籠もち上げ、桶に入れてまた洗う。
「はい、二籠終了~」
「わ、わ、早いね?」
モニカはただただ驚くしかできない。ためしに一籠もち上げてみたのだが、結構腕にずっしりとくる。ニーナはそれを持ち上げてすたすたと歩き、洗い、また持ち上げて運ぶ。いつもはまったりしているニーナからは想像できないくらい手際が良かった。
「へへ~、今この城の中において、野菜洗いで私の右に出る者はいないね~」
褒められたのがうれしいのか、ニーナは胸を張ってそう言った。
「たはは……」
右に出る者はいないと自慢げなのに、城の中に限定しているのが、尊大なのか謙虚なのかわからない。だが、ニーナが楽しそうだからモニカも微笑んでそれに相槌を打つ。
モニカは、ニーナの急成長の理由を何となく察した。毎日これだけの力仕事をしていれば、腕力や体力はついて当然だ。きっとニーナは、モニカ達が朝練を始めるずっと前からこの仕事をしていたはず。ニーナが強くなるのも納得だった。
「あ、ニーナ。あれはどう使うの?」
モニカは庭の中に何かを見つけて指差す。モニカが見つけたのは、炒めものなどをするときに使う丸底鍋だ。
しかし、遠目で見ても、その大きさに少し驚く。家庭で使う一般的な鍋の数倍はある。あれだけ大きいと、持つことなどできないくらい重いのではないだろうか? それも、鍋の中には炒めるための具材が入るのだ。よほど腕力がなければ持ち上げることも難しいはず。
「ん? ああ、あれは古くなって料理では使われなくなった鍋だよ。捨てられちゃうところだったのを、私がもらって磨いたんだ~」
「じゃあニーナが使うんだ? どうやって使うの?」
「ふっふっふ~。じゃあ、今日はモニカちゃんっていうお客さんもいるから、特別に見せちゃおうかな~?」
ニーナはニッと笑って鍋のもとへ歩いていき、それを持ってまた戻ってきた。
そしてすかさず鍋の中に水を張り始めた。
「何とか仕事と一緒に料理修行もできないかな~? って考えてる時にこの鍋を見つけたんだ。そこでひらめいたんだよ」
水を張れば当然鍋はさらに重くなる。ニーナはその鍋の中に、さらに野菜を一籠入れてしまった。
「ちょ、ちょっとニーナ、それじゃいくら何でも重す……」
「よいしょっと!」
かわいらしい掛け声とともにニーナが鍋を持ち上げる。さすがに余裕綽々とはいかないものの、持ち上げた鍋は完全に静止している。重さに負けないくらいにはしっかりと持ち上げているのだ。
「見ててよ~、ニーナ野菜洗い秘技!」
ニーナはそう叫んだと思うと鍋を振った。野菜と水は宙を舞い、再び鍋の中に落ちていく。そして円形の鍋をなぞるように走り抜け、再び宙へ投げ出される。水の音がリズミカルに響き、楕円のルートで野菜と水が何往復もすると、ニーナは鍋の中で野菜を受け止め、籠に戻した。
「す、すごいすごい! 料理人さんみたいだった!」
モニカは手をたたいてニーナを褒めた。褒められたニーナは、少し照れながら微笑む。
「へへへ~! これだと一気に洗えるし、早いんだけど、どうしても水を張るのと野菜を入れるので時間がかかっちゃうんだよね。だからあんまりできないんだ。鍋ふりの練習ができていいんだけどね~」
ニーナは鍋ふりの修行を一緒にできるようにこの方法を考え付いたらしい。きっと今の練習ができるように、長い時間をかけて力をつけていたんだろう。そう思うと、あまりできないというのはモニカにはもったいない気がした。
「あ、そうだニーナ。だったら、私が手伝えばどうかな?」
「ん~? あ、そっか!」
ニーナは鍋をもって構えている。そして、モニカを見て合図した。
「いいよ~、モニカちゃん」
「はい!」
モニカは合図とともに鍋の中に野菜と水を入れる。すると即座にニーナはさっきの要領で洗い始めた。
モニカはニーナが洗う間に再び水と野菜を準備する。ニーナが籠に野菜を入れるまでには完全に準備が整い、モニカはニーナが突き出した鍋の中に二つを入れた。
後は繰り返し。それはほぼ休みなく繰り返され、あれだけあった未洗いの野菜の山は、洗い済みの野菜の山と変わっていた。
「終わった~。モニカちゃんが手伝ってくれたからいつもより早く終わったよ~。ありがとうね」
「へ……へへ、元気だねニーナ」
朝練をした後だからというのもあるが、モニカはへとへとだった。きっとこの後食べる朝ごはんは美味しいだろう。そして訓練では地獄を見るに違いない。
「ふふ! 野菜洗いで私の右に出る者はこの城の中にいな~い」
ニーナがうれしそうにそう言いながら、洗い終わった野菜に向かってポーズをとる。モニカもそれに続いて何か言いたかったが、とても声が出せるような余裕はない。しばらく地面に突っ伏したいくらいだ。
「おいニーナ! 何ふざけてやがる!」
その時、さわやかな朝に似つかわしくない怒声が響いた。本当に、その場の空気が壊れる音が聞こえそうなくらい、この場にふさわしくない声だとモニカは思った。
声の主を探すと、それは厨房から顔を出した料理人だった。眉はキッとつり上げ、目を軽く伏せて怒りを表現している。冗談で起こっているようにはとても見えなかった。
「あはは~、ごめんごめん。今日はお客さんがいるからつい嬉しくなってポーズをとっちゃったんだ~」
そんな怒りをあらわにする料理人に対しても、ニーナは笑顔を崩さなかった。ちょっと失敗してしまった。そんな雰囲気で頬を少しかく。
「ッたく! お前みたいなやつ、王族に守られていなけりゃとっくに追いだしてるのによー」
「ふっふっふ~。悔しいでしょ~? 権力の前に屈せよ! なんてね~」
ニーナは微笑みながらピースをしながら手を突き出した。これだけの暴言を投げかけられているにもかかわらずだ。
「……そんな言い方はないんじゃありませんか?」
今のやり取りを見て、モニカは静かに立ち上がる。腕と腰が軋んでいたかったが、そんなものは関係ない。だって、今ニーナはそれ以上に痛かったはずだから。
「なんだ……お前は?」
「あ、ちょ、モニカちゃん!」
モニカが怒りの声を上げると、ニーナの表情が初めて崩れる。しまったという風に口に手を当て、モニカのことを見返してくる。
「ニーナはしっかりと働いていました。これだけたくさんの野菜を目の前にして笑って見せたんです。腕まくりをして、ニコニコ微笑んで、文句も言わずに準備をしていました。驚く私を見ても何も言わず、『こんなのたいしたことないんだよ?』という風に仕事を始めたんです」
もしかしてニーナはモニカを気遣ってくれたのではないだろうか? 過酷な仕事を押し付けられ、苦しみの中にいることを心配させまいと笑っていたのでは? そう思うと、今の今まで笑っていた自分に怒りがわきそうだった。
「それに対してさっきの言葉はなんなんです? 本来かけるべき言葉はお礼でしょ? 大変な仕事をしてくれてありがとう。重たくなかった? 大丈夫だった? 心配してあげるのが同じ職場で働くものとして当然じゃありませんか?」
モニカも今の今まで気づかなかった。ニーナがどれだけ苦労していたのか全く知らなかった。もう数か月も一緒にいたのに、ニーナのことを知らなかったから心配もできなかった。
「仕事なんだからやって当然、お礼なんて言う必要はない。そういう方針ならそれは別にいいです。でも、仕事をしっかりした人間に対して暴言を吐くのは許されるはずがない」
ニーナはさっき言った。「手伝ってくれたからいつもより早く終わった」と。仕事が遅れたわけではない。むしろ早かったくらいなのだ。それを叱るとはどういうことだ? あまつさえ追いだしてやるとまで言ったのだ。許せるものか、黙ってなどいられるものか!
「謝ってください。ニーナに対して今す……もがッ」
モニカが暴言を吐いた料理人に対して指をさそうとすると、後ろから口と体を押さえつけられた。それはニーナだった。
「はいはい、そんな顔してないで仕事に戻った戻った~。これ以上そこで藪をつついていると、蛇が出てくるよ~」
ニーナの声は明るい。その言葉はモニカにではなく、料理人に対して言っているのだとわかった。ニーナが料理人を逃がそうとしている。
料理人はいつしか目を閉じていた。モニカの言葉が不快だとでもいうように顔までそらしている。
「おっと、蛇はもう出ちゃってたか~。あはは、それじゃあ咬まれちゃう前に厨房に戻りな~?」
ニーナは料理人に逃げろと言っている。
「もが! んあ! ふぁて!」
だがまだ逃がすわけにはいかない。あの料理人はまだニーナに謝っていない。謝罪の言葉を口にしていない。仲間が傷つけられたのだ。黙っていられるものか。
そう思ってモニカはニーナを振り払おうと暴れる。しかし、ニーナにものすごい力で抑え込まれて動くことができない。そうこうしているうちにドアが閉まる音がした。
ニーナは、ドアが閉まるのを確認するとモニカを放した。するとすぐさまモニカの前に回り込んで手を合わせる。
「ごめんね? モニカちゃん。苦しかったよね? 埋め合わせはきっとするから……」
「……ニーナが謝ることじゃないよ」
モニカは脱力していた。地面に両手をついて無力感にさいなまれていた。
そんなモニカの頭を、ニーナが撫でてくれた。その手の温かみで胸が張り裂けそうだった。
「ありがとうね~モニカちゃん。本当にやさしい子なんだから……」
「お礼を言われることなんて……」
何もしてない。そう言おうと思って顔を上げると、ニーナは相変わらず微笑んでいた。無理をして笑っているようには見えない。本当にうれしそうに微笑んでいる。それが演技で、大人の笑みなのだとしたら、やはりモニカはニーナちゃんと呼ぶことなどとてもできない。ニーナのほうがはるかに大人なのだから……。
「さてと! 厨房に行って料理を作るんだよね~? 今日はたくさん時間があるから何でも作れるよ~」
ニーナがそう言って歩き出す。もちろん厨房にだ。モニカは気落ちしながらその後ろをついていく。
「じゃ~ん! これが私の使っている調理台と料理道具で~す」
「……」
モニカは何も言わなかった。さっきの一件がなければ、何かごまかしに言ったかもしれないが、とてもそんな気持ちにはなれなかった。モニカには、目の前の調理道具が悪意の塊にしか見れなかったのだ。
はっきり言ってボロボロだった。あちこちへこんでいるし、傷が目立つ。何年も使って古くなっているものを押し付けられたようにしか見えない。これが悪意でなければなんだ?
モニカは厨房を見渡す。誰もこちらを振り返らない。まるでそこには何もないかのようにふるまい。自分の仕事をしている。叫びだしたい気持ちを抑えるのでやっとだ。
やはり、ニーナは厨房でいじめ……。
「私……今モニカちゃんがどんなことを考えてるか分かるな~」
モニカが怒りに耐えていると、ニーナがふっとそういった。その声がとても澄んでいて、とても大人びている様子だったから、モニカは驚いてしまう。
「でも、それ勘違いだから」
「え……勘違い?」
モニカは首をかしげる。
「あ、でも、勘違いってわけでもないのか~。う~ん、でもま、勘違いだよ」
そういってニーナは微笑んだ。それがとても無理をしているようには見えず、モニカはぽかんとしてしまう。
そのせいかもしれないが、怒りの感情は半減していた。




