第十話『不幸な絵描き少女』
カルラは物ごころついたころには筆を握らされていた。
だが絵を描くためではない。字を書くため……勉強するために握らされたのだ。
「さあカルラ。今日は字の書き取りをしましょうね? 将来絶対に役に立つことですからね? 頑張りましょう」
母親は愛してくれてはいたと思う。お腹を痛めて産んでくれたのだし、カルラが生まれたばかりの頃は、ずっと胸に抱いて離さなかったらしい。カルラも、よく手を引いて散歩に連れて行ってもらったことを覚えている。
「子供の頃の習慣が大事だからな。小さいうちから字を書いていれば、きっと勉強が好きになる」
父親だって愛してくれた。仕事ができて、仲間から頼りにされる人だったし、生活に困ったことは一度もない。
直接触れ合うことはどうしても少なかったが、たまに一緒に過ごす時はとてもかわいがってくれたことが記憶に残っている。
幸せな家庭。それを否定する要素はない。家庭は裕福だし、両親は真っ当な人間だ。それはカルラも認めざるを得ない。ただ、カルラには不満なことがあった。
「国は私達国民一人一人の力によって成り立っているの。もちろん王族の方はとても尊くて大事なお方。今私達が幸せに暮らせるのは王族の方達のおかげよ」
「だが王族といえど人だ。私達も頑張らなくては国が傾く。幸せな暮らしを与えてくださっている国に対して、恩返しをしなくてはならない。そのためには一生懸命に勉強をしなくちゃいけないんだ」
父と母は愛国者だった。二人とも公務員として働き、自分たちの仕事は国のためにやっているんだと誇らしげに言う。
別にそれ自体は何も否定することじゃない。自分の国が好きになるのは当たり前のことだし、自国を誇りに思えると言うなら、それは素晴らしいことだと思う。
カルラも国が好きなことがおかしいとは思わないし、やめてくれとも思わない。
ただそれを理由に、自分を子供のころから勉強漬けにするのは勘弁して欲しかった。近所の子供達が自由に外で遊んでいる時に、自分は空気のこもった部屋で勉強するというのはとても嫌だったし、それを実際に両親に伝えたこともある。
しかし、両親はその要求を認めることはなく、カルラに勉強することを強いた。幼いうちは優しく諭すように、大きくなるにつれて叱られるように諭された。
そして、体罰が伴うようになってからは、両親が嫌いになり始めていた。
自分でもよく国が嫌いにならなかったなと思う。きっと、カルラにとって国という概念が抽象的すぎて、その存在に実感が湧かなかったからだろう。いや、頭を叩くのはいつも両親で、国は頭を叩いたりしなかったからかもしれない……。
とにかく、大きくなるごとに両親との仲は穏やかでなくなっていき、カルラは寡黙になって行った。
* * *
「カルラ? カルラはどこ?」
ある日カルラは言いつけられた勉強を終わらせて、風あたりのいい木の影で休んでいた。すると、不機嫌そうな声で母親が自分の名前を呼ぶのが聞こえてきた。
「ここだよ……お母さん」
無視したって、どうせ夕御飯の時に問い詰められるんだ。説教をされながら食べるご飯はおいしくない。だから今叱られておこうと考え、カルラは大人しく木の陰から姿を現した。
「カルラ。あなたが今日解いた問題を見たわよ? あの正解率は何? お前は本当に文官になろうという気があるの?」
そんな気はまるでない。
「ごめんなさいお母さん」
カルラは母親を不機嫌にさせたことを謝る。しかし、無表情で謝るせいで、母親にはカルラが本当に反省しているようには見えなかった。
「まったく、あんなに小さいうちから勉強させてあげたというのに、どうしてお前は……」
母親が説教を始めた。こうなればしめたものだ。母親が疲れるまで俯いて聞き流していればいいのだから……。
「……本当にお前という奴は、木陰に隠れて何をしていたの?」
「……!」
母親の興味が、さっきまで自分がいたところに向いたと思ったカルラは、反射的に体で木陰までの道を塞いでしまった。それがいけなかった。
「なんです? ……まさかお前!」
母親はカルラを押しのけ、さっきまでカルラがいたところまで歩いて行った。
カルラは逃げ出したいと思いながらも動くことができなかった。逃げた場合と逃げながった場合、どちらが軽い罰で済むか必死に考えていたのだ。
「カルラ! お前はまた約束を破ったわねッ!」
母親が木陰でそれを見つけると、矢のように走ってきてカルラを叩き飛ばした。
母親が木陰で見たのは、地面に描かれた絵だ。もちろんそれはカルラによって描かれた物。しかし、別におかしな絵を描いていたわけではない。近くに咲いていた花を、何気なしに地面に書いていただけだ。
「お前は、何度言ったら、分かるのですか!?」
母親はかなり力を込めてカルラを殴った。カルラはされるがままになり、必死で頭と顔だけを手で隠す。
カルラは小さい頃から絵を描くのが好きだった。きっかけはなんだっただろう? 紙の端に描いた鳥の絵が、思いのほかうまく描けたのが嬉しかったからだったか?
きっかけはあやふやだ。だが、気付くとカルラは気晴らしによく絵を描くようになっていた。外に出て自由に遊ぶことができないのだから、カルラにとって絵を描くのは貴重な自分の時間だった。
まだ両親がカルラに優しかったころは、絵を描くことは黙認してくれていた。むしろ、「よく描けたね」と言って褒めてくれた気がする。ただ、絵に興味を持つことはなかったけど……。
(嬉しかったのに……残念)
大きくなってくると、勉強をサボって絵を描いていると叱られるようになった。それは仕方がない。自分で望んだことではないけれど、勉強をサボって絵を描けば叱られて当然だ。
(当然……だよね?)
両親も、勉強以外で絵を描くことを止めはしなかった。褒めてもくれなかったけど……。
しかし、さらに大きくなると、絵を描くのをやめさせようとしてきた。はじめは……本当のはじめは勧告だけだった。
「絵がうまくなっても何にもならないのよ? 国の役に立つことではないでしょう?」
こんな感じ。だが、それを無視していると暴力が伴うようになった。
絵を描くのは小さい頃からの習慣みたいなものだ。描けば落ち着き、筆を持てば曲線を描きたくなる。唯一自分が自分だと認識できる特技……。
カルラは隠れて絵を描くようになった。勉強用の紙を盗み取り、夜に小さな明かりを付けて落書きをした。本当は取っておきたかったが、見つかれば叱られるので描き上げた物は見つからないように捨てる。
両親の監視が厳しくなってからは、紙に描くことは諦め、岩に石を使って彫るように描き、地面には木の棒を使って描いた。
そんなふうにして描いた絵でも、見つかれば体罰を受けながら叱られてしまう。今自分が受けている風に……。
「このッ! 馬鹿娘は! はぁ……はぁ……はぁ……」
母親がさすがに腕を振り下ろすのに疲れて動きを止める。カルラは地面を転がらされ、泥だらけになっていた。
自分がそうしたというのに、泥だらけで小さくなっているカルラに、母親は無性に腹が立った。
「立ちなさいッ!」
「い、痛い! ごめんなさい……立つから……」
母親はカルラの髪を掴んで無理やり立たせ、どこかへ引っ張って行く。ついた場所は蔵の前だった。
「入りなさい!」
「……はい」
カルラは、今日は晩御飯が食べられないことを理解しながら蔵の中に入った。蔵の中に入れられると、一晩は出してもらえない。
カルラがこれで反省したためしはないのだが、何か罰を与えないと気がすまないという時は、母親は蔵の中に閉じ込める。
「ここで一晩反省なさい!」
母親がお決まりの言葉を言ってドアを閉めた。間もなく鍵がかかる音が響き、カルラは閉じ込められた。
夕飯を不味くさせないために出て行ったというのに、出て行ったせいで夕飯を食べることすらできなくなるとは……。
「……ぷ」
カルラはなんだかおかしくなって笑ってしまった。笑うような状況ではないと思うが、自分で考えた皮肉が馬鹿馬鹿しくて噴き出してしまった。笑うと、少しだけ元気が出てきた。いいことだ。
「埃っぽい……」
カルラは適当なところに座り込んでそう呟いた。目が慣れないうちに動きまわると、何かに頭や足をぶつけて痛い思いをする。
少しこのままじっとしていよう……。
* * *
「ぅん……」
カルラが首をカクンと動かすと、周りは本当に真っ暗になっていた。どうやら寝てしまっていたらしい。
「しまったな……」
あの時間から暗くなるまで寝たということはかなりの時間寝ていたことになる。やけにはっきり目が覚めてしまったし、これでは寝られないだろう。朝までこの真っ暗な蔵の中で退屈な時間を過ごさなくてはならない。
「はぁ……ん?」
カルラが周りを見渡すと、天上の隙間から月明かりが差し込んで、床を照らしているのが見えた。床はほこりがつもり、白く光っている。
「……そうだ」
カルラは近くに落ちていた藁を一本取り、その光の筋に近づく。
そしてその光が照らしている床に、わらの先を走らせた。すると、綺麗な線が一本引くことができた。
「……うん」
これなら絵が描けそうだ。光の筋は月と一緒に移動するから、見える場所が……キャンバスはどんどん移動して描けなくなることはない。朝までのいい暇つぶしが見つかった。
「……」
カリカリとカルラが絵を描く音が蔵の中に響く。時々鼠が走りまわる音が混じったが気にならなかった。
「ここの家の少女は不幸な少女。絵を描くことが許されないかわいそうな不幸少女。そして、親の期待にこたえられない親不孝少女」
自分で作った自分の詩を口ずさみながら、カルラは絵を描き続けた。
カルラは自分が不幸だと思っている。絵を描くのがこんなに好きなのに、親からはむしろやめるように言われている。
親だけじゃない。この街の人間は誰も絵に興味がない。みんなお絵描なんて金持ちの道楽だと思っているんだ。それは認めてもいい。絵なんて描いても何にもならないさ。クワで畑を耕した方がよっぽど有益だろうよ。でもだからって、後ろ指さして笑わなくたって……馬鹿にしなくったっていいじゃないか……。
大人に馬鹿にされるならそこまで気にならない。大人は自分の経験を武器に、子供のすることを笑いながら否定する生き物なのだから。別に絵だけを否定するわけじゃない。
だが、自分と同年代の子供達に否定されるのは心がえぐられた。
この村の子供達は何に対しても興味がないのだろうか? 絵じゃなくていい。踊りでも歌でも、何かに対して興味はあるだろう? だったら、どうして私の絵に対する思いを理解してくれないんだ? ……知っているさ。岩に彫り込んでまで絵を描こうとする私をからかう事に興味があることくらい。私はこの村で暮らしているだけで不幸なんだ。
そして同時に、カルラは自分のことを親不孝だと思っている。親の期待に答えない自分を……。
勉強するのにだって金がかかる。両親は自分に期待して投資してくれた。勉強のための道具を買い、先生を探し、自分たちも時間を作って勉強を教えてくれた。そのお陰で読み書きはまるで困らない。
カルラはそんな両親の用意してくれた道具で、親が求めたわけでもない絵を描いた。たくさんたくさん描いた。呆れられるくらい、嫌われるくらい描いた。そのうち本格的に嫌われるまで描き続けて、かなりの腕前になったんじゃないだろうかと自分でも思うくらいになった。
絵の腕前とは違い、勉強の方はそれほど伸びなかった。さすがに小さい頃から字を教えられ、先生まで付けられて勉強したのだから、標準以上の学力はある。ただ、親が求めるくらいの水準までは行けない。
親の期待と投資に答えられなかった。その上、やめてくれという絵を今でも隠れてまで描き続けているのだ。これが親不孝でなくてなんだろう? 絵を描くのは楽しいが、同時にこの小さな自己嫌悪に陥るのが気持ち悪かった。
カルラは光の筋を追いかけながら絵を描き続ける。不思議なもので、気分が落ち込んでいる時は自然と暗い絵を描こうと腕が動く。今描いているのは、牢屋の中に囚われた囚人。
小さな罪を犯し、牢屋に閉じ込められてしまった憐れな囚人。牢屋の中で仕事を課せられ、ノルマを達成できないと鞭でぶたれる。囚人は歌が好きで、暇な時間は鼻歌を歌った。しかし、刑務官に歌がうるさいと言われてまた鞭でぶたれるのだ。
そんな絵を蔵の端まで描き終える頃、太陽が空に昇り、蔵のドアが開いた。
「反省しましたか? カルラ?」
「……」
カルラは空腹のせいで喋りたくなかった。だから小さく頷いて母親の質問に答えた。
母親は小さくため息をつき、手招きをした。どうやら許してもらえるらしい。
「……?」
カルラが母親のところへ歩いて行こうとすると、その後ろに父親の姿を見つけた。珍しい。蔵に入れたり出したりする時はいつも母親一人なのに……。
父親はカルラと目を合わせると、蔵の中に入ってカルラの傍まで来た。カルラは父親が何かを言おうとしているのだと察し、その場に立ち止まって父親を見上げる。
「カルラ、お前は王族の親衛隊になりなさい」
「……え?」
その時蔵の中に風が吹き込んできて、カルラの描いた囚人の絵を吹き飛ばした。
不思議なことに、風は牢屋の部分だけを吹き飛ばした。まるで、囚人を牢屋の中から解放するかのように……。