第五十話 五十万の敗北、魔導王国の新しい朝
敗戦の朝、帝国の兵たちは魔導軍の野営地で温かい粥を受け取った。
若い兵が「毒では」と囁くと、配膳の魔術師が先に一口食べてみせた。
ゲイルは捕虜名簿に目を通し、行方不明者の数を確かめる。
ネクロアは彼に侵攻軍の武装解除を告げたが、兵士の帰郷と負傷者の治療を約束した。
「勝者の慈悲か」とゲイルが問う。
「次の戦争を減らすための約束よ」帝都へ向かう降伏文書には、領土の扱いより先に、兵士の帰還と捕虜の保護が記されていた。
魔導王国の広場では帰還した術者を迎える鐘が鳴る。
ネクロアは祝杯を一口だけ飲み、東の地図を開いた。
戦いの後始末はまだ終わらない。
それでも、五十万を退けた国は、昨日までの小さな魔導王国ではなかった。
帝都の玉座の間に、一本の折れた軍旗が運び込まれた。
皇帝レグナスは使者を叱りつけた。
「五十万が敗れたなど、あり得るものか」使者は震える手で書簡を差し出した。
そこにはゲイルの署名と、帝国軍の武装解除、捕虜の保護、各方面軍の撤収条件が記されていた。
皇帝は最後まで読み切れず、書簡を床へ落とした。
帝国の議会では、敗戦の責任を押し付け合う声が飛び交った。
だがゲイルが帰還し、五十万の軍をどう動かし、どこで止めたかを淡々と説明すると、議場は静まった。
「兵が弱かったのではない。敵を理解せず、数だけを信じた我々の判断が弱かった」
ネクロアは勝利の祝宴を断った。
首都の門外には負傷した帝国兵と魔導軍の兵が並び、治療を待っていたからだ。
彼女は回復術師の人数を増やし、食糧庫を開放した。
リュカは不満げに言う。
「敵にまで食べさせるのですか」ネクロアは包帯を運びながら答えた。
「明日、敵でなくなる人たちよ」
講和会議で旧帝国の代表は、魔導王国に併合されれば文化を失うと恐れた。
ネクロアは言った。
「歌も言葉も奪わない。奪うのは、他国を踏みにじる権利だけ」その声を聞いて、長く黙っていた地方代表が顔を上げた。
講和の席で、敗れた帝国の代表は領土より先に捕虜の待遇を尋ねた。
ネクロアは捕虜名簿と負傷者の収容先を机に置いた。
ゲイルはそこに自分の副官の名を見つけ、初めて肩の力を抜いた。
皇帝の権威をどう扱うかで議論は紛糾したが、ネクロアは住民の徴税と食糧配給を止めないことを最優先にした。
翌日、城門の外に長い列ができた。
復員する帝国兵、戻ってきた農民、橋の修理を請け負う職人たち。
誰も勝利の歌を歌わなかった。
それでも、互いを避けていた人々が同じ橋を渡り始めたことを、ネクロアは何よりの戦果だと思った。
講和の最終日、リュシアは一冊の薄い名簿を卓上に置いた。
かつて修道院の門前で突きつけられた布告の裏に書かれていた家族たちの名前だった。
王国の役人が『保護』と呼んだ移送は、実際には術師の家族を各地の収容所へ分散させる命令だった。
戦争が広がる間に移送記録は何度も書き換えられ、帰る村を失った者もいる。
ミリナは名簿を開き、自分の隣で泣いていた術師の娘の名を見つけた。
「この子は、どこに」
帝国側の代表は首を振った。
王国から引き継いだ移送台帳の一部が、戦火で焼けたという。
ネクロアは講和文書の余白に新しい条項を加えた。
各国の収容所を開放し、移送記録を共同で照合し、家族が再会するまで費用を負担すること。
代表たちは領土の条項より長く議論したが、彼女は一歩も譲らなかった。
「三千人が私についてきた日、私は帰る場所を守ると約束した。まだ終わっていない」
やがて国境の収容所から、ひとりの少女が見つかったと知らせが届いた。
名前も年齢も布告の記録と一致する。
父親に会わせるための馬車が、停戦後の最初の通行許可を受けた。
講和条約には、魔術師の身分による迫害の禁止、地方自治の保障、捕虜の帰還、軍備の共同監督が盛り込まれた。
条文は地味で、戦場の魔法ほど人目を引かなかった。
しかしネクロアは、一行ずつ確かめて署名した。
ここで間違えれば、次の戦争が始まる。
数日後、帝国の議会は皇帝の退位を決議した。
五十万の軍を失ったのではない。
五十万の軍を動かしても勝てなかった事実が、帝国の権威を壊したのだ。
ゲイルは帰国後、戦争を終わらせるための交渉に立ち会った。
旧帝国領は自治を保ちつつ、魔導王国の共通法と軍事協定に加わることになった。
講和からひと月。
国境の橋はまだ途中だった。
帝国軍の工兵長ギーグは橋脚の図面を広げ、魔導軍のダリオに言った。
「この寸法では、雪解けの増水に耐えられない」
「お前たちの単位が違うだけだろう」
二人は言い争い、計測棒を並べてようやく誤差に気づいた。
ギーグは自分の図面に赤線を引き、ダリオはそれまで積んだ石を崩すよう命じた。
工期が延びる。
村人たちは落胆したが、ギーグは頭を下げた。
「完成を急いで、また橋を落とすわけにはいきません」
その夜、帝国出身の少年が工事現場に忍び込んだ。
父はこの橋を巡る戦いで片足を失っていた。
少年は魔導軍の工具箱を川へ投げ捨てようとして、対岸から来た少女に止められた。
「それを捨てたら、私のお母さんも帰れない」
少女の母は、戦時中に川向こうの病院へ取り残されていた。
少年は工具箱を抱えたまま動けなくなった。
翌朝、二人は橋のたもとで釘を選り分けていた。
ダリオは何も問わず、曲がった釘を入れる箱を渡した。
ギーグも隣へ腰を下ろした。
「真っすぐなものだけが役に立つわけじゃない。曲がった釘は抜いて、また使える形に直すんだ」
橋の開通を待つ群衆の中に、修道院を去った老術師がいた。
かつて熱を出した娘のために、修道院を去った四十三人の一人だ。
彼は娘の手を握り、ミリナに小さく頭を下げた。
「逃げた私を、あの人は追わなかった」
「逃げたんじゃありません。帰ったんです」
娘は父の袖を引き、橋の向こうにいる人々を見つめた。
戦争のあいだ離ればなれにされた家族も、少しずつ戻ってきている。
まだ戻らない者のために、橋のたもとには行方を尋ねる窓口が設けられた。
開通の日。
最初の荷車には種麦が積まれた。
橋の中央で車輪が跳ね、ギーグとダリオが同時に息を止める。
梁が一度だけ軋み、荷車は向こう岸へ渡った。
二人は荷重試験の紙に、異なる国の文字で並んで署名した。
続いて、一人の女性が杖をつきながら橋を渡ってきた。
対岸で待っていた少女が走り出す。
「お母さん!」
少年はその再会を見つめ、父のいる家へ帰っていった。
橋の上では誰も勝利の旗を振らなかった。
「次はどこを征服するのですか」若い術師が尋ねた。
ネクロアは川向こうの畑を指さした。
「あそこまで種を届ける。その次は、病院へ薬を運ぶ」
「それは征服ではありません」
「そうね。だから、やっと戦争を終えられたのよ」
開通を見届けたゲイルは、誤射で腕を失った若い兵の車椅子を橋の入口まで押した。
「橋を渡るのは、もう怖くありませんか」と兵が尋ねる。
ゲイルは答えた。
「怖い。だから今度は、壊すためではなく直すために渡る」
彼は兵とともに橋を進み、帝国の工兵へ次の修復現場を示した。
遠い峠を越えた密使は、戦争を終わらせるつもりのない者たちの封書を携えていた。
けれど封書が届くより早く、橋を渡った種麦は春の畑に蒔かれ、傷を負った帰還兵のための薬草も村へ届き始めていた。
橋の管理小屋では、ギーグが帝国式の目盛りを刻み、ダリオが魔導王国式の目盛りを隣へ刻んだ。
二人は同じ梁を支えながら、初めて互いの工具の使い方を笑って教え合った。
ミリナは銅貨二枚を袋から出し、橋のたもとの薬草売りに差し出した。
「足りない分は、明日の仕事で払います」
売り手は首を振り、一束を余分に渡した。
あの日、三日働いて受け取った二枚の銅貨が、今は帰還兵の熱を下げる薬に変わった。
ミリナは薬箱を抱え、橋を渡った。
ネクロアは橋を行き交う人々を見送った。
三千人を集めた日、彼らの手には杖しかなかった。
今、その手には種と薬と、家へ帰るための鍵がある。
彼女は杖を下ろし、橋を渡る子供に道を譲った。




