第三十六話 魔法が効かないなら地面を動かせ
ネクロアは峡谷に木製の杭を並べ、騎士の盾列と同じ間隔に置かせた。
「盾は正面の魔力を逸らす。ならば、正面から攻めない」
峡谷の手前には放牧地があった。
ナディアは羊飼いの家族に退避を頼み、家畜を移すための時間を確保した。
羊飼いは「騎士より魔術師のほうが怖いと思っていた」と言い、最後の羊を荷車に乗せた。
ナディアは敵の列を見ながら、以前ヴァルディアの騎兵を凍らせた戦場を思い出した。
あのときは馬の進路を奪った。
今度は騎士の足場を変える。
相手が違えば同じ魔法も別の使い方になる。
地下の水脈は思ったより浅かった。
イザークが測量棒を差し込むと、予定より二歩手前で湿った土に当たる。
ネクロアは崩落範囲を縮めさせた。
敵を止めるために村の道まで壊すなら、それは守る戦いではなくなる。
斥候の報告では、敵の盾列は五人一組で進む。
ナディアは木杭を同じ幅に並べ、足元の変化を演習した。
見習いが滑って転んだ瞬間、全員が笑った。
しかし次に隣の杭が倒れるのを見て、誰も笑わなくなった。
ナディアが地面の深い場所に水を集める。
表面は乾いたまま、地中の細い亀裂へ水が広がった。
続いて温度を下げると、凍った水が岩を押し広げる。
「盾を壊すのではなく、盾を持つ足場を変えるのですね」とミラが言った。
ネクロアは頷いた。
ただし崖崩れは味方も住民も巻き込む。
戦場を選び、避難路を先に確保しなければならない。
敵の斥候は地面に魔力の痕跡がないと報告した。
実際、地表には術式が残っていなかった。
地下の水脈を通した魔法は、白銀の盾の前面を通らない。
ガレスは報告書を握りしめたまま、静かに顔を上げた。
敵は峡谷を通れば魔導軍の側面を突けると判断した。
先頭の聖騎士が踏み込んだ瞬間、谷底がゆっくり波打ち、整然とした盾列が割れた。
ネクロアは弩兵の車輪を狙わせた。
雷鳴隊の術は盾の正面を避け、露出した車軸へ走る。
荷車が傾き、弩兵は発射を止めた。
紅蓮隊は人のいない斜面に火壁を作り、追撃路を断つ。
敵の命ではなく、戦う形を壊していった。
盾列の後方で、ガレスは前衛の足並みが乱れたのを見た。
盾は壊れていない。
それなのに隣の騎士との間隔が開き、白銀の光に切れ目が走る。
「隊列を戻せ!」と叫んだとき、伝令の馬が柔らかい土に脚を取られた。
彼は初めて、魔法を防ぐ盾が地面までは守ってくれないと理解した。
岩の隙間に倒れた聖騎士は、盾を握ったまま助けを求めた。
ミラは「手を離せば引き上げられる」と呼びかけた。
騎士はためらい、やがて盾を手放した。
綱が降り、両軍の兵が同じ綱を引く。
地面を崩す魔法よりも、その綱を離さない手のほうが、今は重要だった。
ガレスの陣へ届いた報告には「盾は無傷、隊列は崩壊」と書かれていた。
副官セオンは何度も読み返した。
武器が壊れずに敗れるなど、教えられていない。
だが負傷者の名簿を見れば、戦場で何が起きたかは明らかだった。
敵陣では、盾を落とした騎士が仲間に引き起こされていた。
ガレスは彼らを責めなかった。
報告書に「魔術師の奇策」とだけ書けば、敗因は何も残らない。
彼は地形の変化と退路の状況を細かく記録させた。
谷の羊飼いは、崩す予定の斜面を見て顔を曇らせた。
「ここは春に羊が通る」ナディアは計算をやり直し、崩落幅を半分にした。
敵の盾列を止める効果も弱くなる。
ネクロアは承知した。
「春に人が戻れない勝利なら、意味がない」
戦闘後、ネクロアは崩れた峡谷の補修を命じた。
通行できなければ近くの村が冬を越せない。
イザークは崩落した石を積み直し、騎兵たちが橋脚を運んだ。
敵を止めた地形を、今度は人が通れる道へ戻していく。
戦闘後、羊飼いの父親が戻ってきた。
畑へ続く道には亀裂が走っている。
ネクロアは工兵の作業予定を見せ、「収穫までに通れるようにする」と約束した。
父親は礼を言わなかった。
「約束は直してから聞く」彼女はその通りだと思った。
地面を動かす術式の試験で、ダリオの測量杭が一本だけ沈まなかった。
部下は不良品だと取り替えようとしたが、ナディアは止める。
杭の下に古い石畳があった。
土を動かせば、地中に埋もれた村の道まで壊してしまう。
ネクロアは作戦図を引き直し、石畳の上だけ力を逃がす溝を作らせた。
遠回りの術式は時間を要したが、戦いが終わった後も人が歩ける道を残した。
戦闘が終わったあと、ナディアは自分の手で土を踏んだ。
地面はまだ柔らかく、雨が降れば再び崩れるだろう。
村長は壊れた道を見て怒った。
「勝ったのなら、それで終わりか」彼女は頭を下げ、修復の日程を一緒に決めた。
魔法で崩した地面は魔法だけでは直せない。
石を運び、木を組み、住民の道を返すところまでが作戦だった。
戦場の土を調べたイザークは、崩落の範囲が予定より広がっていないことを確かめた。
術式を成功させたことより、避難路が無事だったことに安堵した。
「次は雨量を計算に入れる」と測量帳に記す。
ネクロアは彼の隣で、修復に必要な石材の数を数えた。
勝った軍が去ったあとに道が使えなければ、それは別の敗北になる。
夕刻、工兵は崩落地点へ迂回路の杭を打った。
羊飼いの父親が自分の荷車を持ってきて、土嚢を運ぶ。
ナディアは作業の邪魔になる杖を腰へしまった。
「今日は、こちらの方が早いわ」父親は笑わず、ただ土嚢を一つ渡した。
戦場だった場所が、少しずつ道へ戻っていく。
谷の入り口でネクロアは退路の幅を確かめた。
騎士が盾を捨てても通れる道を残す。
その分、敵の一部が逃げて戦列を立て直す可能性はあった。
ナディアは迷ったが、羊飼いの少女が避難所で待っていることを思い出した。
『道は残します。
ただし村へは向かわせません』。
工兵は逃走路の出口に木柵を置き、救護所へ続く道だけを開けた。
敵を止める仕掛けと、生き残る道を同じ地図に描く作業だった。
作戦開始前、ネクロアは羊飼いの少女に約束した。
『戦いが終わったら、道を直す』。
少女は『羊が帰れる道?』と聞き返した。
兵のための道だけを考えていた工兵は、放牧地へ続く細い坂を地図に加えた。
戦場で守るべきものが、軍議の机の上よりずっと多いことを思い知らされた。
敵の前衛が動き出すと、ナディアは杭に結んだ布を見た。
合図は一度だけ。
早ければ敵が止まり、遅ければ村の畑まで地面が裂ける。
彼女は震える指を握り直した。
羊飼いの少年が「そこには春の水が出る」と言った。
ナディアは崩落予定線を引き直した。
敵の盾列を崩すために、村の来年まで壊してはならない。
羊飼いの少年が谷の上から叫んだ。
「うちの羊がまだ下にいる!」工作隊は作業を止めた。
敵の隊列を崩す時間は失われる。
ナディアは少年に道を尋ね、羊を追い出すための狭い通路を残して地面の水を動かした。
谷が沈んだとき、羊は全頭高台にいた。
敵が峡谷に入るまでの数分、ナディアは地面の揺れを足裏で確かめ続けた。
敵の盾列は崩せても、近くの村の井戸が壊れてしまえば勝利とは呼べない。
ネクロアは避難所へ戻る伝令を最後にもう一人走らせ、合図の旗を握った。
ナディアは地面を動かす術式の外側に、手作業で退避杭を打った。
魔法を封じられたとき、その杭だけは消えない。
彼女は工兵に合図の順序を繰り返させ、誰もいない区画から試験を始めた。
ナディアが杭をずらした場所には、工兵の足跡が残った。
翌朝、花の周りだけ地面が乾いている。
彼女はその違いを記録し、亀裂の広がりを見張る印にした。
ナディアは花の根を避けて杭を打ち直した後、地面の硬さがわずかに違うと気づいた。
花を守るための半歩が、地層の境目を示していた。
「測り直してよかった」と工兵が言う。
彼女は小さくうなずき、次の杭の位置を変えた。
工兵の一人が地面の亀裂に小さな花を見つけた。
踏みつけられた茎は折れていなかった。
ナディアは杭を半歩ずらし、地面を測り直した。
作業が遅れた理由を問われたら、根を傷つけずに済む位置を探したと答えるつもりだった。
ナディアは杭をずらした理由を図面に記した。
根を守るためだけではない。
地面の亀裂がそこだけ深く、盾列の重みが掛かれば崩れる可能性があった。
工兵長は図面を見て、予定していた突入路を一本消した。
「遅れてよかった」
誰も花を踏まずに済んだ。
峡谷に結んだ小さな鈴が鳴らなくなった。
ナディアは術式を止める。
敵の盾列が立て直すのを見て、リュカが歯噛みした。
「今なら崩せたのに」
ナディアは土埃の向こうを指す。
羊の群れが、亀裂の縁で身を寄せ合っていた。
「あの道まで壊したら、私たちが守る村は何も残らない」
彼女は鈴の音が戻るまで、杖を上げなかった。




