彼と彼女の恋愛風景_あるデートのこと⑦
日が地平線へ飛び込んでいくことに、名残惜しさを感じてしまうのは、過ごした一日の尊さを知っているからだ。楽しいものであればあるほど、苦しいものであればあるほど、終わっていくことに悲しみを感じる。そして、明日を考える。明日は、今日よりもましなものであるだろうか?
そんな答えのない問いを転がしてしまうのは、仕方のないことなのだろう。幸せであればあるほど、満たされれば満たされるほど、どこかよぎるのは不安だ。壊れてしまうことへの、亡くなってしまうことへの、そして、取り残されてしまうことへの、怯え。
一日の流れは早かった。テーマパークとしては一級品であろう。昼よりの朝から夕方にかけての思い出は、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたおもちゃ箱のように、きらきらとしていてパンクしそうなほどの贅沢さだ。
初の遠方デートと思えば、かなり良いものであったと言っていいだろう。二人で笑顔になる時間がたくさんあった。心地よい気持ちを分け合えた。だから、デート成功といっていい。そのはずなのだが。
(今日、楽しかったかな、正宗君。)
(理子は、楽しんでくれただろうか)
夕方、デートの締めくくり。恋人たちが乗る乗り物と言ったら、このテーマパークでは決まっている。超大型観覧車、その名も【あなたと二人】だ。一周するのに10分近く、また大半は二人乗りで設計されていて、窮屈ではないものの一緒に乗る相手との距離が近い。恋人や夫婦、もちろん家族でも楽しめるように設計された、目玉の一つだ。頂上から見る風景は掛け値なしに絶景であり、ホームページにも掲載されている。
そんな乗り物に、二人で乗ることは、当たり前で自然な流れだった。
きぃ、きぃ、と少し金属の軋む音がする。ゆっくり、ゆっくりと景色が上っていく。やわらかな浮遊感、ちょっとずっしりとくる重力に揺られながら、外を何気なく見ていた理子は、ふぅ、と息を吐いた。
(すごく、楽しかった。…でも)
でも。何を続けるつもりなのだろう。理子は思う。何も続けたくないと、眠らせた幼子が、また目を覚ましそうになる。それは、とても、とても悲しいことだ。
楽しかったからこそ、何かが芽吹きそうになる。擦り切れてぼろぼろの端っこが、綺麗な形に治りそうになる。何度も何度も繰り返したその過程を、また容易く心は辿っていく。道筋が見えているからだろうか。慣れてしまっているからだろうか。そんなことではないと、理子は知っている。けれど、認めたくない。その甘やかな痛みが、苦しい。苦しくて、でも心地よくて、だから全て許してしまいそうになる。いいよ、と呟いてしまいたくなる。それが、とても悲しかった。
(諦めたはずなのに。なのになあ)
手のひらに汗がにじむ。じっとりとしていて、気持ち悪くて、理子はそれをぎゅっと握って隠した。誰にも見られないように。正宗に、気付かれないように。きつく、深く、握り締めて無くしてしまおうとした。そんなこと、無理だとどこかで自分が囁いても、無視をして。
そばにいる以上、仕方のない衝動なのだろう。理子は、そう穏やかに受け止める。今さら動揺するようなものでもない。焦がれて、求めて、期待して、その代償に我儘で幼気な何かを踏みにじり続けた。踏みにじられても、それでも立ち上がるその健気さを、理子は受け止めなければならない。健気なだけで、本当はただ浅ましい執着であるという形も、また。
癒されぬ痛みに何度も泣いた夜が、もう対岸の出来事のようにおぼろげだ。待ち望んでいた贅沢な水は、あまりに美味しかったから、乾いて飢えた気持ちはもうないのだ。満たされたから、それに歓喜していいのだ。浮かれたって構わない。それは自然な反応だから、仕方ない。仕方ないから、仕方ないから。だから、多少は、しょうがないのだ。
そういって誤魔化して、自分に甘くする。甘くしないと、その痛みは首を絞めるように、理子を締め上げた。もう、諦めて全部認めてしまえと、喉の奥を圧迫する。
けれど、それを許容することだけはできない。それだけは、許してはならない。この、幸せな水でずっと理子という器が満たされ続けるなどと、思ってはならないのだ。
そんな幸福に相応しい自分だと、勘違いしてはいけないのだ。
(よくばりは、悲しいだけだよ)
欲張ったって、与えられなければ喘ぐだけだ。与えられたものだけで十分だと、慎ましやかにならなければ。浅ましさはただの毒だ。そうしないと痛みで泣くのは、最後まで残った自分だから。どこにも行けず立ちすくみ、取り残されるのは、理子に他ならないから。その時が訪れれば、もう名前を呼んでも、振り返ってはもらえない。ただの幼馴染としての関係すら戻ってこない。振られた女と、振った男。冷たいその関係しか、至る結末しか残されていない。必ず訪れる回避できない絶望には、ずっと、身構えておかなければならない。もしかしたら、それは明日かもしれないのだから。
そうやって必死に言い聞かせても、心臓で枯れていた花が、同じ土壌に見慣れた種子を落としたことに変わりはないのだ。そのこともまた、理子は知っている。そして、それが正宗と一緒にいることで、深く深く根を張り、鮮やかで悲しい花をいつものように咲かせてしまうことも、分かっていた。それは、告白が成功した時から予知していたもの。また、始まり、そして引きちぎられることが分かっている、憐れで、可哀そうな、脆いもの。
なんてことはなく咲き、なんてことはなく千切れていく。
ただの、恋だった。
(大丈夫。わたしは、大丈夫)
また、目の奥が熱くなる。まだ訪れていない最期を思うと、理子の器は溢れそうな悲しみで軋む。手慣れた自傷で耐えたとしても、その苦しみはどうしようもなかった。期待しないほうがおかしいのだ。先を求めないほうがおかしいのだ。だって、正宗は今、理子の恋人なのだから。手に入ってしまった、最上の幸いなのだから。
それで、恋をしないことの方が、おかしいのだ。その先の愛を捨ててまで欲しいと思う、優しい恋を食い破る、ねっとりとした感情。気持の悪い、執着した、終わりきった恋。
ふと、視線を外から外して、正宗の様子をうかがう。正宗もまた、先ほどまでの理子と同じように外を眺めていた。
すっと通った鼻筋。切れ長の目。薄い唇が、少しだけ乾いている。夕日に照らされた白い頬が赤みを帯び、眩しそうに眇められる眉間のしわが人間味を増して、けれどまるで一枚の絵画のように神々しい。
なんて綺麗な人だろう。なんて、わたしに相応しくない人だろう。
理子は、感動すら伴って正宗を見つめた。渦巻く気持ちは、ぐちゃぐちゃしていて、容量を得ない。だが、認めてしまえば驚くほど、すっきりと整った彼の形をしていた。ただ、正宗のためだけの、形をしていた。彼以外の、形なんて最初からなかった。
(ああ、なんて、)
「理子」
「! な、なに?」
外の景色を振り払い、正宗の双眸が理子を捉えた。彼女は、こちらをじっと見つめている。ぱちぱちと瞬きをしている彼女の頬は、淡い茜色に色づいていた。それは夕日の色であり、そして彼女自身の色だ。この状態に緊張しているのだろう。少し腕を伸ばせば、すぐに彼女を腕の中に閉じ込めてしまえそうな狭い密室だ。その中で、こんな危険極まりない男と一緒にちょこんと座る理子は、なんというかもう、たまらない可愛さだった。
ここが10分限定の密室でなかったら、なにをそれしてこれをどうしてな展開に持ち込みたいくらい、下腹部直撃な可憐さである。名前を呼ばれて、黙ったままの正宗を見上げて、おろおろと目が泳がせる彼女を、しばらく眺めていたいとも思った。戸惑いに揺れる柔らかい体が、爪の先で猫に悪戯に転がされる毛糸の様だ。好き勝手にいじられても、それでも鮮やかさは失われない。ある種の高潔さ、硝子のような儚い美しさ。それにわずかに指を滑らせる背徳感。むせ返るような酔いを提供してくれる代物ではあるが、ずっとそうしているのはなかなか悪趣味なので、正宗はかろうじてその誘惑を振り切る。
「今日、楽しかったか?」
「え?」
どうしてそんなことを聴くの?と、目を丸くさせる理子。その表情から、ほっと安堵の息を落とす。その様子に違うの、とあわあわし始める理子に、大丈夫だと微笑んで見せた。それでも眉を八の字にして困った、と前面に語る顔に、また自然と笑みが毀れる。その顔を、正宗は見慣れていた。
自分の気持ちをどうやって伝えればいいのか、と悩んでいる顔だ。どうやったら、一番いい形で受け取ってもらえるのだろうと、慌てている顔だ。その顔で、全てが伝わっていると言ったら彼女はきっとまた困った顔をするだろう。それでは不十分だ、ちゃんと伝えたいのに、と。それを察することができるほど、彼女の感情は豊穣で艶やかだ。いつもデートの最中に感想を聴くと、そうやって考え込んでしまう。楽しかったから、嬉しかったから、その気持ちを全霊で伝えようといつだっていてくれる。素直で真面目な理子は、そんな風に可愛らしく不器用だ。正宗に対して、特に。それがまた、彼の心の猫を刺激する。
よかった、楽しめていたようだ。その反応だけで、正宗は今日一日を良き日だったと結論付けた。彼女が楽しめていれば十全で、完全だ。それだけは、掛け値なしに、自信を持って断言できる。
犯してしまった間違いを除けば、だが。
(情けないな、俺は)
思い出すだけで、臓器が軋み、脳が焼けるように熱くなる。喉の奥が、きりきりと肺を締め上げて懺悔の音を要求する。空回りをして、彼女を傷つけた。浅ましい欲求に従い、彼女を泣かせた。謝られて、上手く謝ることもできずに、ただ煩悶するだけだった。起きた事象を並べれば、ただ愚かさしか感じない。理子に対して、格好よく誠実で完璧な男でいたいと、常日頃から考えているくせに、蓋を開ければこんなに無様だ。
なんて、滑稽。なんて、憐れ。
(ただ、理子と一緒にいたいだけなのだが、な)
ただ、ずっと一緒にいたいだけだ。お互いを抱きしめあうように支えたいだけだ。できれば、正宗なしで理子が生きていけないくらい、深く根ざしていたいだけだ。正宗にとって理子が、そうであるように。互いに、一緒にいることが、最高の幸せで安心できる場所であるように、そうやって生きていきたい。できれば、最高の幸せで、安心だから、他のものなどいらないと、彼女が言ってくれたらと。そして自分もそうなれたらと。一緒にいるだけで完成する世界になりたい。ありたいと、そう、心から欲している。
だが、それがとても難しいこともまた事実だ。勿論、閉じた世界でずっといることなどできない。そんな阿呆じみた考えは誘惑だけで十分だ。そんな低俗なことではなく、実際にずっと一緒にいるためには、乗り越えなければならないことが多くあるという、揺るがない現実があった。下らない柵であったり、無視できない重圧であったり、それは正宗が番であるからこそ挑まなければならない、厄介な代物である。それを、まだ幼く自由な理子に選択を迫らなければならないその事実は、正宗を容易く苛んだ。彼女の将来を、確実にそぎ落とし、先細らせ、選べるものは少なくなっていく。ただ、好いた惚れただけでは片付かないものに雁字搦めにされていく。柔らかな肌に食い込んでいく鎖を、ただ正宗は悲痛に見つめることしかできない。彼はもう、そんな鎖は当たり前だから。
彼女がその鎖を使いこなすそのために、正宗は既に手を各方面に打ってあるし、その経過も順調である。みすみす、たかが自分の持つもののせいで、理子を失ってはたまらない。一緒にいたいと嘯くだけでは、大切なものは守れない。難しいことならば、より容易にするべく根回しする。多少の絡め手であっても、最終的に上手く収まるのならば、それで構わないだろう。その思考に基づいて行動する正宗は、非常に強かに、狡猾に現実だ。小さいころから積み上げられた帝王学が、生ぬるい感情で揺らぐことなどない判断力を約束している。理子を目の前にして行うこと以外は、その時点での最上の手を出すことができる明晰な頭脳を正宗は有していた。そこから構築されていく現状は、理子が傍にいることへの障害を徐々にではあるが、緩和しつつあった。このまま上手く手札を切っていけば、卒業するまでに彼女のための頑丈な地盤を作れることだろう。
だが、そんなことよりも、大切なことがある。大切で、重大なことが。
(理子、理子、お前は、傍にいてくれるか?)
理子は、それに挑んでくれるだろうか。挑んでもいいくらい、正宗を愛してくれているだろうか。あまりにも滑稽で、強固な鎖に縛られてもいいと、思ってくれるほどに。
分からない。彼女の愛情は、深くそして柔軟だ。正宗に伝わってくる理子の気持ちの温度は、十分に情を孕んで、心地よいものだった。だが、その温度はどこか危うい。冷めてしまいそうな温さでもなく、燃え尽きてしまいそうな熱さでもない。限りなく、ずっと続く、執着のない平たい温度。粘つくような気持ちもなければ、縋りつく指もない。ふと気が付けば、隣からいなくなっていそうな、儚さ。それが、理子と正宗の間を邪魔している。ずっと傍にいてほしいと、言えないくらい。ぞっとするほど、悲しい結末をどこかその温度で予感してしまって。
(どうか、手離さないでくれ。理子。俺は、お前にいてほしい)
何を怯えている、と叱咤することはできない。それを言うのは、あまりに傲慢だ。理子は無垢で、そして聡明で、彼女の置かれている立場を夢見ることなく理解している。正宗に比べて、社会的にまだカードとして提示できるものを有していない。それが、どれだけの不利となるか、分かっている。だからこそ、彼女は何かを、手離しているのだ。そしてそれに正宗は見当をつけている。けれど、それを直視することができていないのもまた事実だ。見当はついていても、認めたくないような、とても大事な代物を、彼女は手離している。正宗が、何を置いても求めている、何よりも重要で、大切な、愛を。
正宗は理解している。諦めなければならない起因は自身にあることなど、心から理解している。繰り返された女性との関係を間近で見ていれば、希望を見ることは難しいかもしれない。幼いころより見ていただろう、正宗の継ぐものの大きさを更に知っていけば、聡明な彼女は自分がその片翼を担うなど早々に無理だと判断してしまう。厄介で、面倒で、でも逃れられない起因と要因。それくらい、正宗は理解している。
けれど、それでも、正宗は理子を欲しかった。あの日、桜がほころび始めた風の強い裏庭で、好きと告げられたあの日。正宗が出せるすべてを使って、彼女を手に入れると、心に決めた。例え彼女が嫌がっても、離れたがっても、その手を先に差し出してきたのは、彼女なのだ。気まぐれのような勇気であったとしても、その事実は覆らない。返らない。だからこそ、今ここに二人でいる。この先も二人で居続ける、 そのために必要なのは、彼女の、愛だ。正宗と一緒に、挑んでくれる、覚悟だ。
(理子、理子、理子)
何度だって、懇願できる。這いつくばることすら厭わない。彼女の未来すべてを拘束するためならば、何をしても構わない。確かな繋がりがないと不安になるくらい、正宗は理子を愛していた。願っていた。恋うていた。だからこそ、求め続けている。ただ、彼女だけを。
「すっごく、すっごく楽しかった。一日、びっくりするほど早くて、まだまだここにいたいくらい」
ためらいがちに紡がれた声に、ふと我に返る。甘く、掠れた女の声は、ひどく正宗の心を掻き乱した。ほんのりと微笑み、照れて赤く色づいた頬と、負けないくらい瑞々しい唇が、まさむねくん、と言葉の形に動く。それが嫌に扇情的で、正宗の心臓がどくんと高鳴った。
観覧車は、天頂付近にきている。窓の外に見える絶景は、しかし理子の前では霞んでみた。綺麗だ、と思う。こんなに可愛くて、綺麗で、そして美しいひとは、今正宗一人だけのものだ。正宗だけの恋人だ。なのに、自分はなんて理子に相応しくないのだろう。正宗は、泣きたくなるような気持ちで、そう思う。
大切にしたいと表で訴えて、なのに裏では今目の前で笑う彼女を組み敷いて、どこにも逃げられないように閉じ込めてしまいたいなどと頭の片隅で本当に考えてしまう。こんな浅ましい男につかまって。彼女はなんて可哀そうなのだろう。懺悔して、許してもらいたいくらいの後悔をしても、それでも理子を手放す気など、もうありはしないのに。
まさに今、このまま世界が終ってしまえば、二人きりだと、寝ぼけたことを考えてしまうのに。
「ね、ねえ、正宗くんは? 楽しかった…?」
こちらの反応を伺うように、小さな子が正宗の耳朶を打つ。楽しくないわけがない。勿論だ、と笑うと、彼女もまた正宗と同じように笑み崩れた。よかった、彼女の柔らかそうな唇が、また艶めかしく動く。その気持ちは、きっと自分と同じなのだ、と正宗は柔らかく思う。彼女もまた、自分と同じように、思ってくれている。それだけで、幸せに鷲掴みにされる脳髄の短絡さ。失笑を禁じ得ない。
まっすぐに、正宗を見つめて理子は笑う。幸せそうに、おずおずと、柔らかく。
「できれば、また一緒に来たいな。今度は、わたしがエスコートするね」
照れたように頬を染めていう彼女。その言葉。
ゴンドラの軋む音。回る機械の悲鳴。隙間から入り込む甲高い風の音。静寂と言ってもいいくらい、静かなその瞬間。
頭が、真っ白になった。正宗は、目を見開いて理子を凝視する。今、彼女はなんといったか? 幸せで頭がついに壊れてしまったのだろうか。終わればいい世界は、本当に終わってしまったのだろうか。だが、目の前の理子の質量はあまりに彼女の形をしている。夢や幻、白昼夢などでなければ。聞き間違いでなければ。
彼女は、今。
「理子」
「は、はい?」
「また、一緒に来てくれるのか」
声が震えないように、確認する。もう一度聞きたくて。聴き間違いにならないように、現実にしたくて。それは、独りよがりな夢なのではないと、確信したくて。
「きて、くれるのか」
縋るような色は出ていないだろうか。哀れなほど、動揺を滲ませていないだろうか。そう自戒したところで、どうしても止まらない。少しだけ、干上がった瞼の奥が、揺れた気持ちでたぷんと潤んだ。溢れてしまいそうなそれは、まるで幼子のように単純な形をしている。
「一緒に、また」
不確かな、未来。曖昧な、約束。甘やかに、縛る言葉。指切りのような、憐れで拙い、けれど確かに生まれたもの。
彼女は、正宗を縛らない。ふぅっと消えてなくなる準備をして、粛々とそこに立っている菩提樹のよう。けれど、今確かに紡がれた言葉は、正宗の未来を少しだけ、糸で縛った。社交辞令のような言葉でも構わない。それすら今まで言わなかった彼女の唇から、それが毀れた。その事実だけで、正宗の飢えが少しだけ、柔らかくほぐれた。ほぐれ、そこからまた芽吹いていく。
彼女への、愛欲が。
「うん。一緒に、きたい、な」
正宗の呆然とした声に、理子もまた呆然と返す。目を見開いて、こちらをじっと見つめる彼の眼が、揺らいでいることに驚きながら。
初めて口にした、先の約束。びくびくしながら、おどおどしながら、でもそれでもすぐにいなくなれるように、白装束を来ていた。帯を締めて、紅を引いて、すぐに棺に入れるように準備していたから、不確定な約束などできなかった。してはならないと思っていた。
でも、それでも、再びほころんだ恋の柔らかな花弁は、そんな苦しさを許してはくれなかったのだ。目の前の美しい人を、愛しい人を、焦がれている人を、どうして諦めなければならないのだと、空を仰いでいたのだ。
だから、ほろりと、花びらが、落ちてしまった。
(一緒に、いきたいと、思ってもいい、の)
思ってたって、構わない。言ったって、構わない。だって、今、正宗は理子の、彼女だから。
そのはずだから。そういって、背中を押した言葉は、正宗の瞳を潤ませている。多分、嬉しさで。多分、歓びで。
(正宗君、さみしかった? わたしが、次の約束しないから、さみしかった?)
言葉にできず、そっと彼の頬に手を伸ばす。少し眦に滲む涙を、ふき取ろうと思った。慰めなくてはならないと、自然に。今まで触れることにすらどぎまぎして、怖くて避けていたというのに、それは自然と訪れた。泣いてしまいそうな正宗を、放っては置けない。だって、好きなのだから。
彼との距離は短かった。ちょっと身を乗り出せば、唇さえ届いてしまいそうなほど。抱きついて、しまえそうなほどに。
(何考えてるんだろう)
ふと湧いた気持ちが、腹の奥底を刺激する。いやらしい気持ちだ、と頭のどこかで誰かが笑う。笑いながら、それでも優しく言うのだ。あんただって、望んでることでしょう?
答えを黙秘して、伸ばした指にふれた頬は少し冷たくて、びりびりと理子の背筋にしみた。ぞくりと、ほとりと。体の奥で、熱を持つ。
正宗は、触れられた手をそっと掴む。小さな手だ。握りしめたら、折れてしまいそうな、ふくふくとした柔らかい手。怯えながら、それでも、こちらを求めてくれる、可愛らしい理子のような。そっとその手のひらに頬を摺り寄せて、甘える。ふか、とその弾力は正宗の頬を包み、そして慈しんだ。理子、掠れた声で名前を呼ぶ。
初めて自分から触れてくれたこと。柔らかい言葉の鎖。至近距離にいる、彼女の眼は、とろりと潤んでいて、美味しそう。
とても、とても、おいしそう。
(理子)
自然と、傾く体。外の絶景は、柔らかな茜色で染め上げられて、理子と正宗を包んでいる。そっと体を傾ける。いつもより近い、傍にいる、彼女。そして、自分。
「理子」
「まさむね、くん」
お互い、目を瞑らなかった。勿体なかった。今溶け合うように傍にいる存在が愛おしくて、求めていて、こんなに近い。そんな最上の人から目を逸らすことが、この瞬間、どうしてもできなかった。一つには決してなれないからこそ、そのもどかしさすら愛おしくて。
ぽつ、と降り出した雨のような、小さな重なり。確かめるように、伺うように、ぽつ、ぽつ、何度もその柔らかさを重ねる。確認するように振る雨は、けれど激しさを増していく。ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ。絶え間なく、二人の間で降り注ぐ。
息ができない、と理子は喘ぐ。何度も重ねられるそれは、とても熱くて、わけがわからなくて、戸惑って、恥ずかしくて、いつものように呼吸ができなかった。思わず空気を求めた小さな入口は、躊躇いもなくそれを受け入れる。ぬるり、とろり。
ぞくり、と背筋が泡立って、苦しくて、泣きそうになる。理子の舌は突然の侵入者に怯えて奥へと引っ込む。それに怯えないでと縋るよう、正宗は深く侵入する。気付くと、彼女の頭を抱き込むように手を添えていた。片方の手は、伸ばされた彼女の許しに添えられて甘えつつ、もう片方は彼女を逃がすまいと獰猛に。その相反した動きに、それでも正宗は整合性を見出す。これが俺だ。そう思いながら、怯えて奥にいる彼女に摺合せ、絡み合わせる。くちゅ、と粘液のこすれる音がする。んぅ、と掠れて聞こえる彼女の声が、脳髄の芯を焼き尽くす。少し警戒を解くように、正宗に触れた彼女のそれが、あまりにも幼気で、厭らしくて、可愛くて、一層強く絡め取った。ふぅ、とまた声が。なんて、厭らしい、厭らしい、可愛らしい。
角度を変えて、温度を変えて、繰り返して、ある意味蹂躙して、睦みあう。知らず目を瞑って、一心に繋がった部分を貪りあう。理子は、躊躇いがちに。正宗は、飢えたように。こんなに近いのに、けれど一つになれないのならば、交換できるものを全て分かち合いたいと、貪欲に。
けれど二つの個体であることに感謝した。そうでなければ、こうして触れ合う喜びを知ることができない。こんな風に、お互いを愛していると、通わせられない。
降りていくゴンドラ。沈んでいく日。隠さていく互いの姿。重なり合ってほどけない影は、下に降りるまで続いた。
あと少しで地上だよ、と理子が途切れ途切れに紡ぐ。
もう少し、と正宗はまた貪る。
(みられたらはずかしいよ)
(見せない。絶対に)
囁くような会話をお互いの中で交わして、最後にくちゅり、とお互いに探って、唇を離す。つぅ、とかわした情交の跡が尾を引いて、互いの口を繋いだ。名残惜しそうに落ちて消えるそれを、とろけた目でお互い見詰める。もっと、もっと、と腹の底から湧き上がってくる衝動に、正宗は呆然とする。こんなに、心地よく相手を蹂躙したくなる気持ちを持て余しそうだった。それと同時に、陶然と酔っていた。
(理子、理子、理子、理子!)
愛しい、愛しい、欲しい、食べたい。
獰猛な気持ちで荒れ狂う正宗を尻目に、ぼんやりとこちらを見つめる理子。初めて交わしたそれにとろんととろけた目で余韻に浸っている。刺激が強すぎたのだろう。いつもなら逃げ出す距離であっても、もがくことなく身を任せている。そのなんと可愛らしく、そしてしどけないことか。
(好きだ、理子、愛してる、好きだ、好きだ、愛してる)
荒れ狂いそうなほど埋め尽くされた正宗の頭など知る由もない理子は、幸せにとろけた頭で考える。芽吹いた花が嬉しそうに震えている。いいだろう、仕方ないだろう。諦めなくてはならなくても、絶望しかなくても、今幸せでいてはいけない理由など、どこにもない。ここで、正宗を独占する権利は、間違いなく理子にある。
(いいよね、よくばりに、いま、なったって)
求めてくれていると、想えた。好いてくれていると、想えた。だから、それは、幸せだ。とても、とても幸せだ。
そして、理子はほにゃりと、笑った。無防備に、ただ、幸せに。
「まさむねくん、すき」
屈託のないその言葉に、悶えた気持ちは、ここでは筆舌しがたく。
悶絶する内心から動けない彼の耳に、ゴンドラは無情に地上に到着したアナウンスが響く。
日は、すっかり沈んでいた。
帰らなくては、ならなかった。
(なんで、おれは…!!)
ホテルを予約できなかったんだ…!!
眩暈のしそうなほどの怒りで動けなかった正宗を、理子が涙目になって現実に戻すのは、それなりに時間がかかったことだった。
その時に彼らがどんな会話をしたのか。それはまた、彼らだけの睦言。
締まらない、情けない、でも、かわいらしい。
彼と彼女の不器用な、そんな、あるデートのこと。