おはよう、銀世界
くあーーとムチルは欠伸をし、雪国での1日がはじまった。
すごく気持ちが良い。
大きく口を開けて伸びをし、ムニャムニャと目をこする事が出来るのは幸せだ。
鎖に繋がれていた時との大きな変化へ、ムチルは戸惑ってもいた。
牢獄からずっと見上げ続けていただけの日々。
それは唐突に終わり、ベッドなる快適な寝床を知ってしまった。
両腕を持ち上げて大きく伸びをすると、布団は素肌を流れて落ちてしまう。ぶるりと腰から震えるほど、きぬ擦れの感触は気持ち良かった。
輝かしいとさえ思う。窓から入り込む朝日に、どこからか響く野鳥の声に、しばしムチルは窓の景色に見とれた。
たくさん食べ、眠りについた事で、身体には躍動するようなエネルギーに満ち溢れてもいる。
雪国の寒さを気にもせず、すっくと立ち上がった。
肌に触れる冷気は雪国ならではだが、以前よりずっと暖かいので気にならない。
縮んでしまった身体も、尻尾も、無くなってしまったカギ爪も割とどうでも良い。快適な状況というのが何よりも大事だ。
復活した魔力を本能的に悟り、誰から教わったというわけでも無くそれを行使する。ヘッドバンドで角を飾り、ヒヅメ状の形をした牛柄のブーツを履き、下着じみたパンツと胸当てを身にまとう。
上腕から先までも毛皮で覆うと、ようやく準備が整った。
どれも毛でふかふかとしており、暖かさだけでなく肉体強化も与えてくれる。
ひと通り全身を眺め、ミノタウロスとしてあるべき力を取り戻したのを確認して満足する。
最後に尻尾を揺すって調整すると、にまりと可愛らしい笑みを浮かべた。
そして整った鼻をクンクンと鳴らし、ここに居ない誰かを探しに小屋を出て行く。まるで本能から背中を押されるように。
外は輝くような銀世界であり、すぐにムチルは「おーー!」と声を上げ、犬のように駆け出した。
今日は快晴に恵まれそうだ。
どおお!と吠え立ててくる熊に、俺は「クマったなぁ」と漏らす。本当にゴミみたいなセリフでしたね、ごめんなさい。
狩りの下見に出てみたら、こんなのが出てきちゃうんだもん。熊ってさ、まずいし臭いし調理は大変だし、この時期は脂肪も少ないから嫌いなんだよねー、おばあちゃんのニシン……じゃなくって熊肉。
雪山用にしっかりと防寒具を着ているけれど、早朝ともなると入り込む冷気は極寒だ。
「せめて兎か猪、あるいは鹿だな。あのアホ娘はバカみたいに食うから、1週間分どころか3日ぐらいしか持たないし……っと」
どすんと前脚で押しつぶされかけ、すんでの所でかわす。
「あれ、まだ居たの? 冬眠を逃したみたいだけど……ほら、あっちにちょうど良い穴があったからついて来いよ」
ちょいちょい指で招くと、真っ白い鼻息をゴフーーとひとつ吐き、熊は小首をかしげた。しばらく歩いていると、ドスンと前脚を降ろし、戦闘態勢を解いてくれた。
枯れ枝を踏みながら一緒に歩き、当の洞穴へとたどり着く。
栄養を蓄えられず、冬眠のできなかった熊は悲惨だ。
凍てついた場所でウロウロ獲物を探し続け、死ぬまでわずかな確率にすがるしかない。
そんな状況では肉など美味いはずもない。などと思いながら、冷え切ったそいつの身体に俺は触れた。
うろんな瞳がこちらを向く。たぶん「冬眠なんて出来っこないよ」と言いたいんだろうなぁ。
ところがどっこい。
そこは気功の達人である俺になら、どうにかする事も可能なわけだ。
触れた手のひらから、ズシッとした重さを熊は覚えただろう。これは肥え太るための回復術で、熊程度ならどうにか出来る。代わりに俺の腹は減るけどな。
それが気持ち良かったのか、オロロという不思議な鳴き声で礼を言われた。
ばいばいと手を振り、そのまま熊との別れをする。
気のコントロールってのは便利で、動物相手でも多少は意思疎通ができる。魔物とも無用な戦闘を避けることだって出来るんだし、王都の必修科目に加えれば良いのにね。
さて、狩場の下見も終わったし帰るかと思ったら、今度は不思議な奴がいた。のしのしと雪道を歩く牝牛で、大気が凍るような極寒だというのに腹や背中、太ももまで晒している変な奴。
「おー、よくここが分かったなー」
「お前の匂いならどこに居るか大体分かるっス。熊より匂うとか、人間としてブッ壊れてるんじゃないっスかね」
はい、今朝も辛らつな言葉をいただきましたぁー。
ひょっとして匂うのかなと腕をクンクンするけど……匂うかなぁ。
どう?とムチルに顔を向けると、匂うっスと頷かれた。
「まあいいや。その牛柄の服はどうしたんだ、そんなの小屋にあったか?」
「んー、なんとなく作ってみたっス。どうっスか、似合うっスか?」
ほー、装備生成まで出来たのか。そういや技能リストでも見かけたな。
どうだと胸を誇張するよう近づき、ムチルの口端には褒めて欲しそうな笑みが浮いている。食事をしたせいか昨日より表情は明るくなったようだし、より人間味を増したようにも思う。
へっと俺は笑い、小生意気なお子様に口を開いた。
「ああ、このクソ寒い山でヘソ丸出しとか頭がおかしいのかと思った」
「はぁーーーーっ!? バッカじゃないっスか、こういう時に褒めないとか男として欠陥品っスよ!」
おっと、やめるんだ。抗議をしているようだけど、むぎゅりと膨らみを押しつけられると……。
マジか、モテない俺が朝からこんなダブルタッチをされるだなんて。いますぐ手袋を外してタッチダウンしてえなぁーーおい!
「こら、聞いてるんスかーーっ!? 褒めろ、褒めろ、ムチルを可愛いって褒めろーーっ!」
おっとっと、怒りで肩を揺すっているけれど、二つの膨らみでワンツーパンチを決めるのは今すぐ止めるんだ。
効果音で例えるなら、ばいっ、ばいんっ、ばいんっというのが近しいか。
何ですかこの幸せすぎるサンドバック状態は。こいつの顔と言葉は腹立つってのに気分良いなぁーー。
「じゃあ美味いものでも食おうか」
「ええっ、急に気持ち悪いくらいの笑顔っ!?」
なぜかドン引きされたけど、朝の山ってのは空気が美味しくて笑顔になるものだろ。まったくこれだから魔物ってのは情緒を分かっていなくて駄目なんだ。
お互いにバカだのアホだのと罵り合いながら、すぐに山を降りた。
あとしばらくすれば、この娘に【奴隷術】をかけ、王都の専門家に手渡す予定だ。
その時のことを、俺はなるべく考えないようにしていた。