第十二節*洗濯屋と魔国
雲が空を滑るように流れていた。ドゥンケルタールの渓谷は東西に亀裂が走っているため、谷底でも陽の当たる時間が長かった。午前中に洗濯物を干すと曇っていても夕方には乾く。だからテディーたちは毎日、毎日、朝やってきて夕方に帰った。
霊樹に来て早一週間。カールはそんな日々にすっかり慣れ、洗濯をしたり畑仕事を手伝ったりしながら楽しく暮らしていた。
今日も日課を終え、昼食のデザートに熟した蟠桃を食べた。
「んー、いい天気だなあ。風もあるし、洗濯物が早く乾きそうだ」
「全部きれいになって気持ちがいいですね」
「カールさんと一緒にやると、いっぱいあってもすぐに終わっちゃうわ」
「お洗濯って力仕事だったのに」
「そうよ、そうよ」
「本当に!」
カールを間に挟んで五人のテディーたちが和気藹々と喋る。皆すっかりカールの洗濯方法に魅了されていた。お湯を使えば今までよりも楽に、きれいに洗うことができる。彼らはそれをとても喜んだ。
木陰の下で香ばしい麦のお茶を楽しみながら午後の予定を話し合う。採ったトマトを天日干しにしようとか、たくさんある木苺を摘もうとか、そんな提案が出ていた。
そんなときに、一体のテディーが思い出したように言った。
「カールさん。そういえば、ドロシーさんからアイロンを借りられました」
「え、本当?」
「はい。お裁縫道具も合わせて貸してもらえることになりました」
「針と糸も、って言ったら不思議な顔をしてましたよ」
複数のテディーがそれぞれに喋り、最後に「ねー」っと確認しあう。彼らが言うのは、数日前にカールが頼んだ足りない道具についてである。
霊樹に来るときハルから渡された魔王の衣裳は二代目タピオの物であった。カールはそれを確認し、洗濯に必要な物をテディーに集めてもらっていたのだ。
「そっか。じゃあ道具が届けば今日、洗えるかなあ……」
まだ日の高い空を見上げてカールはそう呟いた。
新たに預かった魔王の衣裳は、泥汚れがたくさんついた襞の多い服だった。
『洗濯屋と魔王様』
「カールさん! アイロン持ってきました!」
「お裁縫道具も借りてきました!」
「ブラシもありますよ!」
噂をして間もなく、霊樹の魔方陣から小さなテディーたちが飛び出してきた。休憩しているカールたちを見つけるとそれぞれが荷物を手に駆けてくる。カールも嬉しそうに立ち上がり、そのうちの一人の見て「あっ」と叫んだ。
「やあ、久しぶり! お城でお別れした以来だね、テディー! 君が持ってきてくれるなんて嬉しいよ!」
そう言って迷うことなく駆け寄った先は、アイロンを持った小さな子だった。
「わっ! カールさん僕が分かるんですか?」
「もちろん! だって、毎日手伝ってくれていたし、アイロンだってしてくれたじゃない。忘れるわけがないよ!」
驚くテディーをカールはアイロンごと持ち上げ、懐かしいもふもふ感を味わった。抱えられた方も久しぶりの触れ合いにふわりと顔を綻ばせる。小さな彼はふふふ、と嬉しそうに笑った。
「ふふふ、ふふふ。カールさん、僕が分かるんですね。嬉しいなあ!」
上機嫌でそう繰り返し、テディーはアイロンをぎゅっと抱きしめ全身で喜びを表した。再会を喜ぶのはカールも同じだったが、その特別な様子に首をかしげる。
「覚えていたことがそんなにすごい? 俺、お客さんの顔を覚えるの得意なんだよ?」
「ふふふ。ヒトのお客さんと、僕たちは違います。だってほら、僕たちってサイズが違うだけでみんな作りが同じでしょう? そう簡単に見分けられませんよ?」
「うーん……、言われてみるとそうだなあ…」
抱えたテディーに指摘されてあたりを見回すと、確かにどの子も似たようなパーツで出来ていた。茶色い短い毛、黒々とした目、ちょこんと盛り上がった鼻に小さな口。色に多少の違いがあってもその差はほとんど分からない。サイズが同じ子であれば尚更で、身につけている物で判断するしかなかった。
それなのに、カールは今抱きしめているテディーがお城で手伝ってくれていたあの子だと分かる。一目見たときに「あっ」と気が付いたのだ。間違いなくあの子だと。理由は彼にもよく分からない、直感的なものだった。
「何だか、君だけは大勢の中にいても分かるような気がするんだ」
カールは小さなテディーを目の前に持ち上げてそう言った。
彼はそれを聞いて一層嬉しそうに笑う。
「ふふふ。それは、カールさんと僕がとっても仲良しになった証拠です!」
「とっても仲良しに?」
「そうです! 僕たちの区別は仲間と、とっても仲良しな相手にしか分からないんです。僕らは《テディー》って呼ばれて大勢で動く種族。個が分かる人は少ないんですよ! カールさんは僕のことを一番見ていてくれたんですね!」
小さな両手で口元を押さえ、テディーは何度もふふふと笑った。
つまり彼とカールが特段仲良くなった結果、カールは彼と他のテディーの見分けがつくようになったのだ。カールにはそれがどのぐらい凄いことなのかピンと来なかったが、親しさの証と受け取った。テディーの笑顔が伝染してカールも頬を緩ませる。
そんなカールに目一杯身を乗り出してテディーが言った。
「僕の名前は、《アル》って言うんです。カールさんは僕のことが分かるから、これからアルって呼んでいいですよ」
「えっ、テディーは名前じゃなかったの?」
「それは僕らの、名前です。それとは別に、ちゃんと一人ずつ名前があるんですよ」
「……そうだったんだ」
アルに詳細を聞かされカールは大きく頷いた。
今まではまとめて「テディー」と呼んでいたので、それぞれに名前があるとは思わなかった。しかし考えてみれば、彼らは一人一人が意志を持っている。目の前のアルと足元の子は別の個体だ。名前が違うのは当然であった。
「ねえ、君の名前は何て言うの?」
カールはしゃがんでお裁縫箱を持っているテディーに尋ねてみた。
「僕の名前は僕が分かるようになったら教えます。間違えて他の子の名前で呼ばれるのは嫌ですからね! 僕らは、とっても仲良しになるまで自分の名前を教えないんですっ」
ふふん、と小さな胸を張り出してテディーはそう言い切った。どうやら他の子もみんな同じ意見らしく、うんうんと頷いている。
「んんん……手強いなあ…」
テディーの名前を知るということは、カールが思った以上に難題だった。
「僕の名前はいつでも呼んでいいですからねっ! カールさんっ!」
「ふふふ、ありがとう。改めてよろしくね、アル」
他に振られてしょげるカールをアルが元気よく励ました。
***
それからしばらく目の前でころころと入れ替わるテディーを眺めていたカールだったが、やはりアル以外は区別がつかなかった。一朝一夕ではどうにもならない、ということが分かりカールは気分を変えて洗濯をすることにした。アルたちが必要な道具を借りてきてくれたので、タピオの衣裳が洗えるようになったのだ。
預かってきた衣裳は泥汚れが多く、ところどころ土の塊すらついていた。服は合わせになっている上着と、紐で留めるズボン、帯に足袋。そしてどう着るのか分からない、大きくて襞が多い円筒形の布。そこには長い紐と短い紐が二本ずつついていた。
「これ、どうやって着るんだろう?」
カールは見たことのない形状の衣服を不思議に思いながら竿にかけた。
横幅が広く、縦に長く、紐に至っては地面にくっつきそうなほど伸びている。小さいテディーからブラシを受け取ると、カールはとりあえず土埃を丁寧に落とし始めた。襞の先が特に汚れていたので、おそらく足元に近い部分なのだろう。だとすると、これはズボンのように履く物なのだろうか?
服の作りを見るのがおもしろく、カールは覗いたり開いたりしながら作業を進めた。
テディーたちはカールがどうやって衣裳を洗うのかと、楽しみに周りを歩き回る。
そこへ畑にいたタピオがやって来た。
「何じゃ。午後は儂の方を手伝ってくれるかと思っとったのに。まだ何かあったのか?」
「すみません、タピオ様。道具が揃ったので衣裳を洗おうかと思いまして」
「…ん? おお! 懐かしいのう。儂が現役だった頃の正装か」
竿に吊された服を見てタピオが懐かしそうに言った。午後も既に一仕事してきたのか、額のあたりに汗が浮いている。
「タピオ様、これはどういう衣裳なんですか? この、大きなズボンのような物はどうやって着るんでしょうか?」
カールは一旦ブラシの手を止めて、疑問を持ち主に聞いてみた。
「んむ。これは袴と言ってのう。ほれ、今も履いておるこの衣服じゃよ。ズボンのように足を通して、その四本の紐で留めるんじゃ。慣れるまでちと着るのに手惑うが、これがなかなか動きやすいし涼しいんじゃよ」
「ハカマ、ですか。おもしろいズボンですね。胴回りの倍近くも横幅があるのに、履くとぴったりだなんて。こっちの短いズボンは下に履いているんですか?」
「そうじゃ。丈が短い上下の服は道着と言ってな、袴の内側に着る物じゃよ」
タピオはそう言って今着ている袴を捲り、中に履いているズボンの裾を見せた。
ズボンの上にズボンを履く。まるで女性がドレスのスカートを重ねるような構造だとカールは思った。しかしズボンの重ね履きは初めてで、それがとても斬新に思えた。
襞の数が多い方が正面で、分かれ目が一筋だけ通っている方が背面。腰回りにくる部分はやや厚くできていて、背中部分は板のように堅くなっている。その腹部から短い紐が。背部からは長い紐が左右一本ずつ伸びて計四本。タピオの様子を見ると、それらをぐるぐると腰に巡らせて結んでいるらしい。
袴の構造は今まで見てきたどのズボンとも異なり、とても興味深かった。
またタピオは普段着としてボタン付きのシャツを着ていたが、衣裳の上衣は紐で留める物だった。腰に巻く帯はほとんど袴に隠れ、脇腹のあたりにちらりと覗くだけである。
「襞が多いから複雑そうに見えますが、意外と簡単な作りをしていますね」
「簡単な分、よく考えられておるんじゃよ」
タピオにそう訂正されてカールは思わず納得した。
粗方の泥汚れが落ちたところで、カールは袴をテーブルの上に広げた。そこで襞を整えてきれいな形をつくる。どの襞も上から下まで真っ直ぐな線を描いていた。カールはそれを確認すると、借りてきた針と糸を取り出しおもむろに縫い始めた。
側で見ていたタピオもテディーたちも何をするのかと驚いたが、誰も止めはしなかった。カールがやっているのだからこれも洗濯の手順なのだと、そう思ったからだ。けれども細い糸が前にも後ろにも縫い付けられ、横線の走った袴の意味が分からなかった。
「カールさん、どうして袴を縫ったんですか?」
皆を代表してアルが尋ねた。
「ん? この襞は折り目がついているだけで、濡れると取れそうだったから躾け縫いをしたんだよ。長いスカートなんかでやったことがあるんだ。こうしておくと洗濯中に型崩れをしないし、後でアイロンもかけやすいしね」
「洗うと、襞がなくなっちゃうんですか?」
「うん。物によっては型崩れが酷くて元が分からなくなってしまうことがあるよ。だからこの作業は結構大切なんだ」
そう説明を返す間にも横線が一つ増え、袴の襞がきれいに固定された。手で持ち上げて振ってみても襞がばらばらになることはない。この下ごしらえが終われば、後はいつものような洗濯手順だった。
やや熱めのお湯に固形石けんをよく溶かし、カールはその中に袴を入れる。入れるときも形が崩れないように畳んで沈める。袴の泥汚れは浸け置きだけでは取れないので、小さなブラシで粒を掻き出すように軽く擦った。タライいっぱいの泡で丁寧に、少しずつ洗っていく。布の面積が大きかったので、カールが慣れた手つきで作業をしても随分と時間がかかった。同じく泥汚れの酷かった足袋は浸け置き後に手で揉み出した。濯ぎは三度行い、最後にクエン酸で肌触り良く仕上げる。
ここまではいつもどおりで順調だった。だが水分を吸った袴はカールの予想以上に重く、簡単に脱水できそうになかった。
タピオが持っていたのは回転式の脱水機だった。しかし重量のある衣類の脱水は故障の原因になるので向いていない。それに腰紐が中で絡まるような気がして、カールは脱水機を諦めた。となれば、後は手で搾る他ない。
カールは袴を水中で軽く畳み込み、それを筒状に丸め込みながら絞り出した。腹に当てながら絞ったのでカールの服はびしょびしょである。それに濡れながら取り出しても背板の分厚い部分は曲げられず、脱水はかなり不十分だった。
そこで今度はテーブルの上に袴を広げて、背板から裾に向かって手で払うように水気を飛ばした。しゅっ、しゅっ、とリズム良く弾くと下に敷いたタオルも手伝って、随分と脱水することができた。仕上げに上からも乾いたタオルを重ねて押さえる。そうして漸く粗方の水分が取れると、袴を竿に干せるようになった。
だが難なく道着や足袋を干す一方で、またもや袴はカールを悩ませた。
腰部分の布の高さが前と後ろで違ったのだ。前は腹のあたりまでしか布がないのだが、後ろは背中の半分近くにまで背板が伸びていた。これではズボンのように履き口を揃えて干すことができない。履き口を丸く開けて留めようにも、背板は堅くて円を描かなかった。加えて言うと腰紐も長すぎて、竿にかけても地面につきそうであった。
「うーん……」
両手で袴を高く持ち上げてカールはしばらく考えた。
竿にひっかけてしまうのが一番簡単に思えたが、それだと襞が広がって形が崩れそうに思えた。何かいい方法はないかと、袴をいろいろな角度で眺める。
結果、思いついたのが逆さまに吊すことだった。
「逆さだあー」
「反対だー」
「……うん。これなら襞が崩れずに干せるかな?」
袴で唯一布の長さが揃っている部分、それが裾だったのだ。
裾を上にして干された袴をテディーたちは面白そうに見て回った。上下逆にすることで、ちょうど襞も整えて固定することができた。ついでに紐も下から上に向かって持ち上げて洗濯ばさみで留める。
「なんだか魚の開きみたいだなあ」
横幅が広く竿を丸々一本占領した袴を見てカールはぽつりと呟いた。不思議な格好になったが、型崩れの心配を省ければそれが最良の干し方だろう。
経験したことのない重量感たっぷりの洗濯物に彼は心地よい疲れを感じていた。
「ふうっ、こんなに洗いごたえのある洗濯物は初めてだ!」
洗濯自体は幾度となくやって慣れていた。けれども袴の大きさ、厚さ、形状は過去に例を見ないぐらい大変なものだった。普段なら洗った後の脱水には差ほど時間がかからないのに、今回は干すことが一番の苦労になったのだ。
一つの洗濯物でこんなにも体力を使ったのは初めてだった。
「ほっほぉー、見事じゃのう! 魔法なしでそれを洗い上げるとは流石カール殿! 城で洗ってもらっておったときは風の魔法を使っても重い、大きい、乾きづらい、の三重苦で随分と嫌な顔をされたもんじゃ!」
「ははは……、そうなんですか。俺もこんなに重たい脱水は初めてでしたよ。たった一着なのにシャツ三十着よりまだ重い気がします」
竿を軋ませながら揺れる袴を見てカールは満足そうに言った。まだ乾かしている途中だが、過去最高の大物を洗った達成感が既に湧いていた。初めて洗濯物を仕上げたときのような、嬉しさと誇らしさが混ざった感覚だった。
「乾くまでの間、畑の方を手伝ってくれんかのう?」
「はい。分かりました」
カールはしばらく袴を眺めた後、タピオに誘われてその場を離れた。
***
日も傾き空が朱色に染まってきた頃、テディーたちは洗濯物を取り込んで帰る支度を始めた。午前中に干した分はたくさんの風に当たってすっかり乾いていた。洗濯物は回収される端から畳まれて、持ち帰りやすく籠の中に入れられる。洗濯係を担っている大きなテディーたちは手際が良く、見渡す限りの洗濯物もあっという間に取まれた。
午後に洗った袴と道着もだいたい乾き、後もう一押し、という感じであった。そこでカールは道着を竿に吊したまま袴だけを先に回収した。霧吹きと当て布を用意して仕上げの作業に取りかかる。ピンとした仕上がりまであと一仕事あった。
「アル、またアイロンをお願いできる?」
「うん! 任せてっ!」
顔を見て名前を呼ばれたアルが意気揚々と作業台に上がる。以前やったときと同じように、アイロンの柄に紐を結んで魔力を注いでもらった。
襞を整えてきれいに寝かせた袴全体に、霧吹きで少し水分を加えてからアイロンを当てる。温度はやや熱めで、当て布越しに水がじゅわっと水蒸気に変わった。襞の折り目を間違えないよう、形を確認しながら慎重に伸ばしていく。
後ろ側の襞と前側の襞が股下で重なっているため、襞のアイロンがけは思った以上に難しかった。変な折り目をつけてしまわないように注意しながら伸ばしていく。ここで間違えては躾までした意味がない。しかしこれを乗り越えれば、後は真っ平らな面にアイロンを走らせるだけだ。四本の腰紐もピッシリとした袴ができあがる。
腰から裾まで真っ直ぐに伸びた襞の線が美しかった。
「うん。できた!」
カールはアイロンを置き、ぴんぴんに生き返った袴を見てそう宣言した。泥汚れが取れたことは勿論、襞の一筋一筋がくっきりとした袴が生き生きとして見えた。
残しておいた道着にもさっとアイロンをかけ足袋の表面も整える。衣裳一式が仕上がると、周りにいたテディーたちも思わずわっと声を上げた。
「タピオ様の衣裳、きれいになりましたね!」
「襞がピンッとしてるわ!」
「この袴、星屑の木綿だったんですね」
「ほしくずのもめん?」
仕上がった衣裳を見ていろいろな感想が飛び交う。
タピオの真っ黒な袴は、実は光の加減によってきらきらと輝く上等な木綿だった。その輝きは黒い夜空に輝く星粒のようであるから、星屑の木綿と言うらしい。特別に黒く育てた綿を使って織る上等品だと言う。
道着の方も凹凸に詰まっていた泥が落ち、刺し子の糸が見えるようになっていた。平らな面の中にうっすらとした波模様が浮かび上がる。全体的に洗う前が汚れすぎていたので、どれも目を見張るほどの洗濯結果だった。
「カールさん。タピオ様の普段着もお洗濯した方がいいんじゃないかしら?」
「そうですよ! アイロン、二~三日は貸してくれるって言ってました!」
「タピオ様のお服の汚れ具合は魔国でも噂なんです」
「袴、ずっと洗ってないって…」
「ね……」
「明日も袴のお洗濯しましょう? カールさん」
代わる代わるため息をつくテディーたちにカールは思わずおかしさを覚える。きれいに洗われた服が好まれるのは、故郷でもここでも変わらなかったのだ。それにタピオの袴の汚れ具合が気になっていたのは職業病ではなかったらしい。
しばらくの間アイロンを借りて、アルにも来てもらうことになった。テディーたちとの小さな結託は『タピオ様の普段着洗濯計画』と名付けられた。
***
いよいよ日も沈み、渓谷の底からは太陽が見えなくなった。
カールは仕上がった衣裳をきれいに畳んで、テディーたちに持ち帰ってもらうことにした。ハルに渡せばきっとシュランクの中に戻してくれるだろう。
袴は三つ折りにすると意外なほどに小さくなった。
「タピオ様、呼んできますね」
「しまう前に見てもらいましょう!」
そう言ってテディーたちが畑の方へ駆けていく。
カールは麦の匂いがする風を受けながら洗濯物を整えていた。
「もし、そこのお方」
そこへ聞き知らない声がかかる。
しかし確かに呼ばれた気がしてカールはそちらを向いた。
麦畑を背に優しげな老生が立っていた。見た目は頭巾を被ったヒトの顔に鳥のような体で、ハルと同じ種族に見えた。その後ろにもう一人、大きな眼に管のような口元をした長身な人物もいた。おそらく二人とも魔物だろう。
自分がここにいることは秘密だと思っていたのでカールはいくらか戸惑った。洞窟での一件のように、外で動きすぎたせいで居場所がバレたと思ったのだ。
またヴフトにきつく叱られるのだろうか?
いや、それよりも老生はどうして自分に声をかけて来たのだろうか?
カールは何とも言葉が出ずに、両手を祈るように組んで固まってしまった。
「そこのお方、貴方がヒト族の洗濯屋でしょうか?」
混乱するカールを余所に二人は着実に近づいてきた。地面を踏みしめるその足はもみじの形をしている。老生は杖を持っていたが、思いの外しゃんとした足取りだった。目の大きな魔物は虫のような複眼を光らせていた。
「洗濯屋とは貴方ですか?」
カールが答えられないでいるうちに、互いの表情がよく分かる距離まで近づいてしまった。かつん、と老生が返事を促すように杖先で地面を打つ。そのピシャリとした音にカールはハッとして、漸く口を開いた。
「あっ、はいっ。ヒト族のカール・ベーアです! 洗濯を生業にしています。……どうして俺がここにいると?」
「ふふふ。私はジェフ・フォーゲル。この国の左丞相をしています。こちらは法務の卿フロリアーノ。魔国のことは、一通り把握しているのですよ」
「左丞相、さま……?」
カールの故郷には丞相がいないのでよく分からなかったが、とりあえず姿勢を正して向き直った。説明してくれそうなテディーも今はいない。
さわさわと穂の擦れる音がした。
「貴方がここで洗ったタオル、使わせていただきました。とてもふわふわで、肌触りが良かったです」
「えっ、本当ですか? 俺が洗った物、みなさんの肌にも合いましたかっ?」
「ええ。城内では既に評判が立っていますよ」
「わたくしのハンカチも古いシミが消えていたのですが、ここで洗ったのでしょうか?」
ジェフの後ろからフロリアーノも感想を述べる。
「テディーたちが持ってくる中で、何枚かシミ抜きをしました」
「そうですか。貴方の洗濯技術は種族を越えて素晴らしいものですね」
フロリアーノにもそう言われ、カールは胸の中がカッと熱くなった。顔馴染みの多い故郷ではなく、異国の地で自分の技術を喜んでもらえたのだ。獲物と魔物という、大きな種族の違いがあっても自分の思いは伝わったのだ。
カールは思わずフロリアーノの、管のような手を取って礼を告げた。
「ありがとうございますっ! 俺っ、実は故郷を出て仕事をするのが初めてで! 成り行きで来てしまったんですけど、俺が洗った物、喜んでもらえて嬉しいです!」
その喜びように今度は法務の卿がしばし固まる。
「……あの、カール殿は、魔物を恐いと思わないのですか? 貴方がたの歴史はご存じでしょう? それにわたくしはヒト族とかなり姿が異なりますが」
「魔物は恐いです。昔のことも教わりました。でも、俺の洗濯技術を喜んでくれる人は、何て言う種族だろうと俺の《お客さん》です! 俺はたくさんのお客さんに気持ちよく仕上げた洗濯物を届けたいんです! 魔物は恐くても、お客さんなら大丈夫です」
「あっはっは、何て理屈でしょうねえ。純粋、という言葉を結晶化したようなお方だ。御主もそう思わないかい? 法務の卿よ」
「確かに」
臆せずフロリアーノの手を取ったカールを見てジェフがそう讃えた。
「三代目様を思わせる爛漫さですね」
「そうですねえ」
カールの笑顔につられて二人もにこりと笑い合う。
そこに畑へ行っていたアルたちが戻ってきて、あっという間に賑やかになった。テディーたちに呼ばれてタピオとシュピッツもやって来た。左丞相と法務の卿の姿を見た途端、シュピッツが電光石火の早業でカールの頭を押さえ込んだのは言うまでもない。
「頭が高いっちゅーねんっ! ちゃんと挨拶したんやろなあっ?」
「あたたっ。大丈夫ですよ。今、握手していたところで…」
「あーくーしゅうーっ?」
ひそひそとした声で喋りつつ、シュピッツが一層腕に力を入れる。片膝を折るシュピッツに押さえ込まれ、カールもその場に膝をついた。
ジェフはその様子をおかしく思い、ふふふ、とまた軽快に笑った。
「護衛隊長、彼は陛下が認めた技術者です。そこまで下げさせなくても良いのですよ。貴方も頭を上げなさい」
「はっ」
左丞相に優しく声をかけられシュピッツがカールから手を離す。彼を立たせながら自分もゆっくりと顔を上げた。改めて周りを見渡すとそこには先代の魔王、丞相、卿、と魔国の上位三つの位が一合に会していた。顔を上げろと言われた以上立っていないといけないのだが、シュピッツは目が眩む思いだった。
「二代目様ご無沙汰しております。お変わりないようで何よりです」
「んむ。御主が来たということは臨時議会も終わったということじゃろう?」
「はい、結果を伝えに参りました」
世間話でもするかのように重鎮同士が気軽に言葉を交わす。
シュピッツはこの会話を聞いてすぐに状況が分かったが、当の本人は飲み込めていない様子だった。直立不動で動けないシュピッツの代わりにアルが耳打ちをする。それでやっとカールも気付きジェフの言葉を待った。
「八卿議会は、陛下のご意志に賛同いたしました」
少し改まった口調でジェフがそう告げる。
瞬間、場の空気がふっと暖かくなった。
「……陛下、ってヴフトさんのことだよね?」
「そうですよ!」
「ヴフトさんの意見が通ったってことは?」
「つまり!」
聞き慣れない言い回しにカールはすぐに頭が追いつかない。
陛下、ヴフトの意見を議会が聞き入れたということは、つまりカールは魔国にいて良いこととなったのだ。
「これからもカールさんとお洗濯ができる!」
「カールさんにお洗濯を教えてもらえる!」
「お城で遊んだり、食堂に行ったりしてもいいんですかっ?」
「わーい! カールさんが残るー!」
本人よりも先に内容を理解したテディーたちが喜びの声を上げ、あたりを嬉しそうに駆け回った。それを見てやっとカールも実感が湧く。シュピッツはほっと息をつき、緊張していた肩から力が抜けた。
これでようやっと、カールは軟禁生活から解放されることになったのだ。
ヴフトの正式な洗濯屋となったのである。
「周知するのに数日いただきますが、城の洗濯係に就いていただく予定です。事を進める前に、カール殿、改めて一つだけ確認させてください」
「は、はい」
ジェフが厳粛な態度で仕切り直し、カールはさっと背筋を伸ばした。
「ドゥンケルタールは魔物が住む魔国。貴方以外、獲物種族は一人もおりません。ご自分で帰ろうと思っても、帰れる場所ではありません。それでもこの魔国に残り、陛下の洗濯係となりますか?」
言葉にすると一層重い条件に思わずあたりが息を呑む。
ジェフの眼差しはカールの本心を見極めようと鋭く光っていた。
だが、カールにとって重要なことは、そんなところには全くなかった。
「はい。どうぞよろしくお願いします」
迷いのない眼差しでカールはジェフの問いかけに真っ直ぐ答えた。
その様子を受けジェフも大きく頷いた。
「では後日、改めて迎えを出します。今日はこれにて」
「はい。ありがとうございます」
最後に約束の握手を交わし、ジェフとフロリアーノはふわりと姿を消した。
空全体が朱色から紺色へと変わっていた。
「シュピッツさん、俺、ここで働いてもいいってことですよね?」
「今、左丞相様が言わはったやろ!」
「だって。何だか緊張しちゃって。話が全然頭に……」
「洗濯係するって返事しとったやないか!」
「します! しますよ! でも、ここで洗濯屋をやってもいいってことですよねっ?」
「せやっ!」
「やったあっ!」
ジェフが去った後、カールは改めてシュピッツに内容を確認し喜びに飛び上がった。肩に乗っていたアルが腕を振られて転げ落ちそうになる。それに気付いたカールは慌ててアルを抱きかかえた。
「俺、お城で洗濯ができるんだっ!」
「良かったですね! カールさん!」
「うん! 嬉しいよっ!」
もふもふ、ふふふ、と笑いあう二人は本当に嬉しそうだった。
この日はタピオの提案でテディーたちも一緒に夕食を取ることにし、持ち帰る洗濯物を一旦家の中に入れた。その途中、洗濯係のテディーたちがしきりにきれいになった袴を見せ、タピオに他の袴も洗うよう促していた。輝きを取り戻した衣裳を見てタピオも大層感心した様子だった。
カールが魔国に連れてこられてから一月以上が経っていた。
それが長かったのか短かったのかは別として、カールにとっては濃厚な時間だった。今まで知らなかった魔物との出会い。間近で見たことがなかった魔法。そして故郷にいては洗えなかった特別な服、珍しい衣裳。店で毎日の洗濯をこなすよりも、ずっとずっと貴重な体験がここにはあった。
「お城の洗濯場って、どんな感じなんだろう……」
夕食の準備を手伝いつつ、カールは一足早く城内での洗濯に思いを馳せた。きっとまだまだ自分が知らないことはたくさんある。知らない衣服、知らない洗濯方法。それに城での洗濯というのも初めてになる。
カールはこれからの全てが楽しみに思えて堪らなかった。
第十二節 『洗濯屋と魔王様』一章 了
2017/8/26 校正版




