第1話 箱入り令嬢の歪な歓待
彼女は、天文学的な資産と権力を持つ一族の、ただ一人の令嬢であった。
生まれた瞬間から、彼女の周囲には「拒絶」という言葉が存在しなかった。彼女が望めば世界中のあらゆる至宝が手に入り、彼女が微笑めば国家の重鎮たちですら平伏した。
彼女の歩く道には常に最高級の絨毯が敷き詰められ、気温や湿度すらも彼女が不快にならないよう完璧に管理される。文字通りの温室育ち、あるいは絶対的な支配者として生を享けた存在だった。そんな彼女が唯一、人生において重きを置いていた美学がある。
それは『客人への徹底した歓待』である。
莫大な富を持つ自分にとって、ありきたりなもてなしなど無作法に等しい。客人の想像を絶する驚きと感動を提供してこそ、真の礼儀である。彼女は本気でそう信じていた。
例えば、ある小国の王族を招いたパーティーでのことだ。彼女は「極上のスリルと非日常」をプレゼントするため、私兵である軍事企業を動かし、王族の乗るリムジンを本物の戦闘ヘリで襲撃させたことがある。
火の手が上がる中で、王族たちは顔面を蒼白にして震え上がり、涙を流して絶叫していた。死の恐怖に直面し、ドレスやスーツを泥だらけにして逃げ惑う彼らの姿を見て、彼女は心から満足げに微笑んでいた。
しかし、彼女の権力を恐れる周囲の大人たちは、誰一人としてそれを咎めなかった。それどころか、後日「一生忘れられない、素晴らしい刺激でした」と震える手で書かれた礼状すら届いたのだ。
こうした経験の積み重ねが、彼女の倫理観を致命的に歪ませた。
『私の全力のサプライズは、皆様に最高の感動と涙を与えるのだ』と。しかし、現実世界の人間はあまりにも脆かった。少し派手な爆破や演出をすれば、客人はすぐに気絶してしまうし、最悪の場合は本当に壊れてしまう。
そんな彼女の不満を満たしてくれたのが、仮想現実のゲーム空間であった。そこでは、どれほど極大の魔法を撃ち込んでも、人は光となって消え、またすぐに蘇ってくる。彼女は「なんて頑丈で素晴らしいお客様たちなのだろう!」と歓喜し、湯水のように資産と時間を注ぎ込んで最強の力を手に入れた。
彼女はいちプレイヤーとしてログインしていたにもかかわらず、手当たり次第に他プレイヤーへ攻撃を仕掛けるという凶行を繰り返した。
結果として、彼女はシステムが用意したボス以上に恐れられる最悪の賞金首として、全サーバーからヘイトを集めることになった。
自分を討伐しようと押し寄せるプレイヤーたちの軍勢を見て、彼女は「こんなに大勢のお客様が私に会いに来てくださるなんて!」と歓喜し、最上級の致死魔法をぶっ放し続けたのである。
……それが、生前の彼女のすべてである。
ふと目を覚ますと、彼女は豪奢な天蓋付きのベッドに横たわっていた。
身を起こし、滑らかなシルクのシーツを撫でる。漂ってくるのは、生前愛飲していたものよりも遥かに芳醇な薔薇の香り。
ゆっくりと立ち上がり、部屋の片隅にある身の丈ほどもある大きな姿見の前に立つ。そこに映っていたのは、見覚えのない、しかし酷く見慣れた少女の姿だった。
夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪。血のように赤い瞳。そして、どれほど高価な宝石すらも霞ませるほどの、禍々しくも圧倒的な美貌。
「……まあ」
彼女は、己の頬に手を当てて恍惚とした吐息を漏らした。
鏡の中にいるのは、彼女が愛してやまなかった仮想世界において、全世界から最も恐れられていた存在。間もなく訪れる『世界を揺るがす大災厄』の中心として現れる、悪の公爵令嬢。
伽羅・ヴァン・ディザスター。それが、今の彼女の器であった。
窓を開け放つと、清浄な風が彼女の黒髪を揺らした。遠くからは鳥のさえずりが聞こえ、眼下には美しい庭園が広がっている。色鮮やかな花々が咲き乱れ、白亜の噴水が太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
これは、夢などではない。本物の風であり、本物の世界だ。彼女はその圧倒的な現実感を、五感のすべてで理解した。
「なんて素晴らしいことかしら」
伽羅はうっとりと目を細めた。
この世界に生きる『冒険者』と呼ばれる平民たちは、どれほど肉体を破壊されようとも神殿で蘇ることができる。不老不死にも等しい、強靭な肉体を持った人間たちなのだ。
「現実世界では、人間はとても脆くて、私の全力の歓待に耐えられませんでしたわ。でも、この世界の方々ならきっと……何の遠慮もなく、私の持ち得る最高の力で、皆様を心の底から楽しませて差し上げますわ!」
伽羅は両手を組み、満面の笑みでそう誓った。
自分がこの世界を滅ぼす悪役として討伐される運命にあるなど、彼女にとっては些末なことだ。重要なのは、毎日たくさんの人々が自分に会うために、武器を手にして熱心に訪問してくれるという事実である。
その時である。
地響きのような重低音と共に、公爵邸の周囲に張り巡らされていた強固な結界が硝子のように砕け散る音が響いた。窓の外から、けたたましい怒声と金属音が波のように押し寄せてくる。
「……あら。さっそく、最初のお客様がいらっしゃったようですわね」
伽羅は嬉しそうに微笑むと、身支度を整えるべく使用人たちを呼んだ。
漆黒のドレスに身を包み、優雅な足取りで大階段を下りる。邸宅の正面玄関の扉が、外からの乱暴な衝撃によって吹き飛ばされたのは、彼女がエントランスホールに降り立ったのと同時だった。
「第一結界、突破したぞ! 皆の者、気を引き締めろ!」
「油断するな、相手はあの厄災の化身だ! 前衛は盾を構え、後衛は神聖魔法の詠唱を急げ!」
土足で踏み込んできたのは、重武装に身を固めた数十人の冒険者たちだった。彼らの顔は極度の緊張で引き攣り、額からは滝のような汗が流れている。強大な敵を前に、本物の死の恐怖と戦いながらも、この世界を救うために決死の覚悟で踏み込んできた本物の戦士たちの顔だ。
しかし、伽羅はそんな彼らの悲壮な決意を、全く別のベクトルで受け取っていた。
(まあ。息を荒らげて、あんなに汗を流して……。私に会うために、あんなにも急いで走ってきてくださったのね)
彼女はパチンと黒いレースの扇子を広げ、口元を隠した。
「ようこそいらっしゃいました、勇敢なる冒険者の皆様。本日はこの白百合邸へようこそ」
鈴を転がすような、甘く美しい声が響き渡る。そのあまりの優雅さと余裕に、先頭に立っていた歴戦の大剣使いが一瞬だけ怯んだ。
「な、なんだこの女……厄災の化身のくせに、全く殺気がねえ……っ!」
「惑わされるな! このまま一気に首を落とすぞ!」
「おおおおおっ!」
数人の戦士たちが雄叫びを上げながら、鋭い剣や槍を構えて伽羅へと突進してくる。
本物の殺意が籠もった刃が、彼女の華奢な首筋を断ち切ろうと迫る。しかし、伽羅は一歩も退くことなく、ただ悲しそうに眉尻を下げた。
「……ご挨拶もそこそこに得物を振り回すなど。この世界の平民の方々は、ずいぶんと情熱的で、そして少しばかりせっかちですのね」
ため息を一つ。そして、伽羅は満面の笑みを浮かべた。
「よろしいでしょう。我が領地に足を踏み入れたお客様には、公爵令嬢として、相応の礼儀作法を身を以てお教えしなければなりませんわね」
彼女が手にした扇子を、まるで指揮棒のように優雅に一振りする。
その瞬間——世界が凍りついた。比喩ではない。物理的な意味において、エントランスホール内の空間そのものが絶対零度の地獄へと変貌したのだ。
超広範囲殲滅魔法、『絶対零度の微笑』。並の宮廷魔術師であれば数十人の魔力を結集しなければ発動できないはずの大魔法を、彼女は呼吸をするように無詠唱で放った。
「な、にっ……あ、ぎぃぃぃぃぃっ!?」
先頭を走っていた男の顔が、驚愕と激痛に歪んだまま凍りつく。
防御魔法も、重厚な鎧も、一切の意味を持たなかった。極低温の暴風が吹き荒れ、数十人の冒険者たちは凄まじい悲鳴を上げながら、一瞬にして美しい氷の彫像へと変えられていく。
そして、わずか数秒の後。ピキッ、と甲高い音を立てて、氷の彫像たちは文字通り粉々に砕け散った。
彼らの肉体は、神殿で蘇るための神聖な光の粒子となって虚空へと溶けていく。その光の残滓を見つめながら、伽羅は満足げに頷いた。
「ふふっ。皆様、あまりの感動に言葉も出ないまま、神殿へとお帰りになってしまいましたわ」
誰もいなくなったエントランスホールで、彼女は心底嬉しそうに呟く。
「よほど私の歓迎が嬉しかったのでしょうね。きっとすぐに、また皆様で連れ立っていらっしゃるはず。次のお茶会までには、もっと楽しいお出迎えの準備をしておかなくては」
世界を恐怖と絶望のどん底に陥れることになる災厄の公爵令嬢は、今日も幸せそうに微笑んでいる。最高に充実した、狂気とすれ違いの日常の幕開けであった。




