第十四夜:鳥怪異聞
思えばあの頃だったか。
四十島が商人見習いで、お文がまだいた頃は。
「旦那様、そろそろあっしも手代にしてくませんか」
燕屋の旦那、燕野文蔵は悩んでいた。
(確かに見込みも本人の意気込みもある。しかし――)
四十島は鴻屋の繋がりも自力で切り開き、人に頼ることも覚えた。
「まだ、足りない部分もあるとは思いますが、もう七年になります」
「しかしなぁ……」
そこにお文が通りかかり、文蔵に耳打ちをする。
なるほど、その手があったかと旦那の顔が明るくなった。
「四十島、それならあやかしが出るって騒ぎは知っているだろう。それを解決してみせよ」
「はぁ……」
四十島はここ数日、深川に出ると言われるあやかしの騒ぎを思い出す。
若い娘に母親が夜に出歩かないようにと、店頭で話していた。
「オラァ、知ってるぜ。また鳥なんだろう」
そう呟きつつ、腕は粟立っていた。
夜風が月代を冷やす。
提灯を片手に深川橋の周辺を彷徨いていると、恐ろしい雄叫びが耳に入った。
「クワァッ! クワァッ!」
「ひょえっ! いやいや、待て待て。あれは川の方からだ」
橋の上から川を覗き込むと、白い喉をふくらませる赤い目の鳥がいる。
「ほぉれ、見たことか。あれは鴻屋の旦那の絵巻で見たことあるぞ。確か……」
件の鳥は首の短い鷺に見える。
黒い羽織りを羽織っているかのように見えるこれは確か、ゴイサギだ。
「……そうだ、ゴイサギだ。へへっ、これで手代になれるぞ!」
四十島が意気揚々と去ろうとしたが、橋の真ん中に一羽の白鷺が道を塞いでいる。
「おお、なんだってんだ。ちょいと横を通らせてもらうぜ。急いで旦那に知らせなきゃならないんでな」
身体を反り、横を通っても、白鷺はまた四十島の前を塞いでくる。
「おいおい、ゴイサギはお前さんの仲間なのかい? 人の言葉なんてわかるわけないか」
『四十島……』
「うえぇっ。喋れるのか……。もうなにも怖かねえぞ!」
ゴイサギが四十島と白鷺の上空を飛び去っていく。
「ほら、お仲間さんはあっちに行ったぞ。お前もついていかなくていいのか?」
『いいんだ。お前に用がある』
「なんだってオレの周りにゃ、鳥が多いんだ……」
ため息をつき、首にかけた手ぬぐいで汗を拭く。
『お前を手代にさせるわけにはいかないんだよ』
「なんで……」
『お前が、お前自身もまた、鳥だからだよ』
四十島は目を丸くする。
誰もいない深川橋。対峙する一人と一羽。
にじり、にじりと白鷺は近寄り、深い霧に包まれていく。
「こんな時間に……霧?」
霧が白鷺の身体を包んで瞬間、風が霧を消して女の姿があらわになった。
「な、んで……お文さんが」
よく見た女、お文だった。
「知ってるだろう? 私が鳥だって。それにあなたもね、四十島さん」
「なにを言って……ほら見ろ。オレは人間だぞ」
必死に突き出した自分の両手を見る。
紛れもなく、人間の器用な五指が生えている――はずだった。
だが、彼女はクククと冷たく笑った瞬間、その指先がみるみるうちに黄色い羽毛に覆われていく。
「夢の時間は終わりだよ。私たちの読本の世界に帰る時間だ」
四十島の左手を掴んで、引き寄せる。
するとどうだろう。四十島の視界がぐにゃりと歪み、衣服も、身体も、すべてが一羽の小さなマヒワの姿へと縮んでいく。
「鶸野四十島、お前はただの〝マヒワ〟なのさ。……これでよかったのかい?」
お文のその声が、なぜか遠く離れた燕屋の旦那や、鴻屋の旦那の、いつか聞いたかすれた声と重なって、四十島の耳の奥に響いた。
「ああ、すまねぇな。嫌な役割を押し付けちまった」
「燕屋、オメェは悪くねぇさ。悪いのは何年も留めてしまったオレのせいなんだから」
「お文、せめて四十島を本にしてくれねぇか。題名は『鳥怪異聞』ってのはどうだ? とり文の鴉沢にまた置いといてもらおう」
――ああ、そうか。
オレたちは最初から、あの鴉沢の古びた読本の中にいたのだ。
お文がマヒワをそっと手に乗せ、その小さな頭を撫でる。
「四十島が寂しがるといけませんから。私もすぐに、文字の中に戻りますよ」
視界が真っ黒な墨の海に染まっていく。
(ひえぇ……最後の最後まで、また鳥か……!)
そんな四十島の心の叫びは、夜の深川橋に響く、か細いマヒワの羽ばたきの手応えとともに、静かに本の中に閉じ込められた。




