6、八兵衛、ご先祖様に御家の危機を伝える。(下)
18世紀後半、幕府の執政を担った田沼意次は明治維新とほぼ同じ形での幕政改革プランを持っていたと言われている。
側用人から老中へと出世した田沼意次は幕府体制を重商主義へ転換させることによって小氷河期を乗り切ろうとした。
なお、フランスにおいてルイ十四世の下で重商主義政策を推し進めたコルベールは田沼と同時代の人であった。
ある意味で英仏などヨーロッパ諸国の植民地帝国主義は小氷河期下での国家サバイバルの一面もあったのではないかとも思う。
ついでに言えば歴史的に見て何が理由なのかは不明だが、日本と欧州においてはほぼ同時期に同じ事象が起きる。
名誉革命、権利の章典、産業革命。
規模の大小の違いはあったとしても同時代にほぼ同じ動きが生じて双方、乃至はどちらかが後世において文明の発展に影響を及ぼすこととなる。
「ですが、田沼の改革は失敗しました。
朱子学気触れの徳川御一門衆が政争で田沼を追い落として老中となり、士農工商の身分制度の引き締めと石高制の維持へと社会の流れを逆戻りさせて、徳川大公儀がその80年後に滅ぶ原因となります」
この時代の農業生産高は農業人口に比例する。
石高制社会において農業生産高は税収の多寡を意味し、税収は武士の俸禄となる。
では、農業生産高が維持できないとなったら?
その時は俸禄が払えなくなり、自分では何物をも生み出さない、大名家の家臣たる武士にも農作業をやらせる他なくなる。
そこに貨幣経済の発達もあって、困窮した武士の中から経済的に富裕な町人に御家人株を売る者まで現れるようになった。
皮肉なことに寛政の改革は改革者の意図とは裏腹に、士農工商の身分の流動化を促し、幕府を滅亡させる遠因となったと言えなくもない。
維新の立役者の一人である勝海舟の大祖父米山検校が旗本男谷氏の御家人株を買って幕府旗本として士分になったのは世に知られたところだ。
幕府体制を守ろうとした改革が幕府の寿命を縮める結果になるとは何という皮肉だろう。
松平定信は「江戸幕府創業に戻れ」と言ったが、維新の志士達は「神武創業の理念に還れ」だった。
志士の思想は行き着く所まで行き着いて、「神武創業に還れ」から「天照大御神に還れ」を通り越してついには「天之御中主に還れ」となって明治が生まれる。
江戸幕府は中世の温暖期に生まれ育った家康の世界観が生み出したと言えなくもない。
「なので方法は一つ。
徳川大公儀を延命させつつ内部から変質させ、実態として自然消滅へと誘導するしかないのですが、
そのためには、今、すでに始まっている飢饉による餓死を防いで士農工商の身分を守る必要があります」
去る元禄8年(1695年)の大飢饉では津軽領の餓死者が3万とも10万とも言われ、幕府からの借金8000両と家臣1000余人に暇を出して何とか凌いだ。
この時の体験を思い出してご先祖様は何ともいえない表情を作る。
これからも飢餓地獄が何度もやってくるというのだから良い心地なわけがない。
だけどあたしには手札がある。
息を吸って言った。
「北の土地の寒さに強い作物を植えるしかありません。幸いなことにあたしは色々と持ってきています」
かたわらに置いたリュックの開いてみせる。
中に入っているのは林檎、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、トマト、ワイルドライス、キヌア、スイートコーン、ケンタッキーコーヒーツリーとブラックウォルナットの実、……それとニガヨモギ。
それぞれの作物の特性について説明する。
「……じゃがいもなどは蝦夷地でも栽培可能です。ワイルドライス、キヌアは米の代わりに、きみ(スイートコーン)は嶽で栽培したらいいでしょう。
ケンタッキーコーヒーの木から採れる豆を焙煎して淹れたものがお茶の代わりに、
黒クルミは実が食用となり、その材は在来の樫よりも硬いので成木となった暁には津軽領の特産物になると思います」
ニガヨモギは健胃強壮解熱、殺菌、痙攣、駆虫、風邪などに効果があり、抽出成分の油は強心剤としての薬効を持っていることを話した。
ご先祖様はうむむと唸る。
「これらの作物を育てることによって、奥羽越、それから蝦夷地の民を餓死から救うことができると思います。
特に南部はやませで米が採れないため必要になってくるかと」
それぞれの支藩を含めた実高換算では津軽藩と南部藩の石高はほぼ同じ。
どれだけ南部領が稲作に向いていない気象条件なのかがよくわかる。
やりとりを横で見ていた中川様が口を開く。
「作物として育てれば確かに民百姓は救われよう。
だが、津軽だけならまだしも奥州羽州の各大名家でもこれらを育てるとなると御公儀の許しを得ねばならん。
その際にこれらの出所についてどう申し開きができるものか……」
確かにその問題はある。
八代将軍吉宗になって蘭学の禁が緩和されるまで、ヨーロッパ伝来の植物資源は日本に存在しないことになっているはず。
「岩木大権現の思し召し」があって領内の山奥で見つけたと誤魔化すこともできるが、その後の蘭学解禁でバレる危険性は十分ある。
作物の一つや二つならまだしも全部となるとさすがに不味いかもしれない。
「ですが、もうじきにやってくる、身分制度の崩壊を遅らせるにはこれがどうしても必要です。
そうしないと士農工商の身分が溶け出すのを防げません」
「どうしてもか?」
「はい」
問われたあたしがご先祖様に返答するとご家老様は眉間の皺をさらに深くした。
脳裏ではさまざまなものが浮かんでは消えているのだろう。表情を微妙に変えつつ沈黙を守っている。
これから津軽は長い冬の時代に入るのだ。
今から約30年後、享保16年(1731年)に家督を相続した信著公の治世は打ち続く凶作のみならず、
松前大島噴火の津波被害、大雨による洪水とそれによる疫病の大流行に害虫の大発生があり、城下や青森町では大火、
北海道の有珠山噴火が引き起こした群発地震、領内での大地震など、天災が相次いで領政は疲弊していく。
津軽5万石と言いつつ、幕末時点での実高ランキングでは全国280大名家中堂々19位の33万石、各種産業合わせたGDP換算では80万石近くとなる津軽藩はこうして満身創痍のまま幕末へと突入していくことになる。
このままでは。




