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ダークエルフ忍法帖~津軽弘前女騎士始末~迫る氷河期ぶっ飛ばせ  作者: 上梓あき
第一部 八兵衛、江戸時代に巻き込まれる。
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5、八兵衛、ご先祖様に御家の危機を伝える。(中)



「今にして思えば最初の躓き(つまづき)は四民を平等と為して、武士を無くしたことにあると思います。教育で町人を一代で本物の武士にできると。

 ところが実際にはそうではありませんでした……。

 今から200年後、ロシアとの(いくさ)で活躍した日本軍の武将に一戸兵衛(いちのへひょうえ)という大将がいます」


「一戸……?」


「はい。彼は津軽家の家臣の家に生まれました。

 彼がロシアとの戦からしばらく経って後、弘前に帰郷した時のことですが、弘前中の人間が駅に集まっていて口々に一戸大将の幼少時の事を取り上げては彼を腐していたそうです。

 その心根のあまりの卑しさに怒りを覚えた大将は列車を下りて駅の裏手からこっそり立ち去ったと祖父より聞いております。

 その後、一戸大将は存命中、一度も帰郷することはなかったとも」


「結局、農工商の性根が士になることはなかったというわけか」


御家老様は慨嘆した。


「そういうことにて。

 士を無くして士農工商の別をいちどきに社会から失わせる明治維新という改革は誤りであったと思います。

 武士は残すべきでした。農工商を武士の領域にまで引き上げる導き手とするべきだったのです。

 農工商が士となり身分の差が自然消滅するまでは」


「そして武士を武士たらしめたものが赤穂浪士の吉良邸討ち入りであったと……」


「なので赤穂の方々には吉良殿を討っていただかねばなりますまい。

 残念ながら」


ここであたしは息を吐く。問題はこれだけではないのだ。

これだけでは……


「後世で云う(いう)忠臣蔵の後も徳川大公儀がこのまま続けば、いずれ、明治維新となるでしょうが、それは避けねばなりませぬ」


徳川がどうなろうが知ったことじゃない。

忠臣蔵によって武士階級が引き締まったことはいい。

だが……


「この日ノ本も含めた世界は大きな球の形をしておりますが、世界はこれから寒冷な気候が100年以上続く時代に突入します。

 この期間のことを後世では小氷河期と呼んでいます」


御家老様の表情が険しいものとなる。

津軽藩の軍学である山鹿流軍学の開祖、山鹿素行は地球球体説を弟子達に教えているので理解がしやすいのだろう。

ここは時系列で説明した方がいいんじゃないかな。


「神君家康公が天下を取った慶長年間は世界的に温暖な気候が続いた時代の終わりの頃にあたります。

 この温暖期は千年以上にわたって続きました。

 家康公の定めた石高制による士農工商の身分制社会は、この温暖期の農業生産を前提にして成り立っていたものです」


この頃の地球がどれだけ温暖だったかを示すエピソードに、グリーンランドにヴァイキングが入植して農業を行っていたというものがある。

その後訪れた寒冷化によってグリーンランドは耕作不可となりヴァイキングは島を去ることとなったが。


「……そういうことか」


察しのいいご先祖様はもう気づいたようだ。


「これから奥羽越は凶作と飢饉がうち続くようになります。

 豊作の年は無く、良くて平年並み。ほぼ毎年凶作で時に大凶作。

 収穫が無いので年貢米が取れず、家中の武士を士分のまま帰農させる大名家は数知れずとなり、士農工商の身分制度は事実上、崩壊いたします」


「これはわが津軽家中においてもか」


「左様にございます。

 あたしの父母から聞いた話では、今から70年ほどのちの飢饉で津軽の民百姓の3割が餓死したそうです。

 それで食うに困って秋田領へ食物を求めて越境してみると、国境(くにざかい)の矢立峠の向こうにも餓死者の亡骸があちこちに転がっていたとか。

 この飢饉によって津軽領でも他の大名家同様、人手の足りなくなった農村を立て直すために他領から移住者を募らねばならなかったほどです。」


溜息。


だが、津軽はまだましな方だった。

津軽を怨む南部藩では毎年のように百姓一揆が起きている。

徳川幕府の存続期間を300年として南部で発生した百姓一揆の回数は150回近くあり、平均して二年に一度は領内のどこかで一揆が発生していた計算となる。

この南部藩で起きた史上最大の一揆は19世紀半ばの幕末も間近となった頃に発生した三閉伊一揆(さんへいいっき)と呼ばれるもので、この一揆では一揆側の要求通りに南部藩の殿様の首が飛ぶ(政治的に)結果となった。

もう一つ南部藩における一揆で特筆すべきは一揆指導層の中に藩の士分の者まで居たということだろう。


「徳川大公儀も無策だったわけではないのですが、御用学問の朱子学が足を引っ張る結果になりました」

 


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