26あたしと黒い犬の童話
風邪をひいた。なんとなく予感はしていたのだ。試験が終わって、殿下とお話して、マクジーンがやってきて。
気が抜けたのかもしれない。
雨に打たれたりもしたしね。
こんなことじゃ、また殿下にバカだと思われる。
風邪ひきの頭でメソメソとベッドに横たわるしかないあたしの元に、お見舞いに訪れたのはアリシオだった。ノートはヘーゼルがとってくれているから、心配しないでいいと言う。
その後なんとか復活したあたしは、ヘーゼルにお礼を伝えた。答えはいつもの通り、「お役に立てたのなら嬉しいです」だ。
彼女の中には、あたしによくする目的がある。ただの友情ではないとアピールされているのは苦しい。
耐えかねて「ドロシーさんとのことを聞いてもいい?」と尋ねると、ヘーゼルははにかんで頷いた。
その瞳のきらめきは覚えのあるものだ。見たことはないけれど、きっと殿下のことを考えるとき、あたしはこんな顔をするのだろう。
寮の庭に出て、木陰のベンチに腰掛ける。それでもまだ眩しくて、二人並んで日傘をさした。飲み物を持って来ればよかっただろうか。あたしは平気だけど、ヘイゼルは赤い顔をしている。
「ヘイゼル、暑い?」
「いいえ、……あ、ごめんなさい、違うんです。お話できると思うと嬉しくて……すぐ赤くなっちゃうんです。恥ずかしいな」
そう言って頬を押さえる。乙女か。咳払いをするように喉の調子を整えて、ヘイゼルは語り始めた。
「……まず、私たちの関係を。私の父がドロシーさんのお父様にお仕えしていたんです。父がお役目を辞した後も、目をかけてくださって……縁があって、ドロシーさんの弟さんを療養のために我が家にお預かりすることになったんです」
体の弱い弟の様子をみるために、彼女は度々ヘーゼルの家を訪ねたという。そしてその度に違う絵本を読み聞かせてやっていた。
あたしは自分とマクジーンの関係を思い出す。ドロシー姉弟も、仲は良かったのだろう。
一時は良くなりかけていた弟の体調も、ある夏を境に悪化した。ちょうどドロシーの多忙が重なって、姉と弟は同じ時間を過ごせなくなる。良くしてやってほしいと、ヘイゼルは花と共に伝言をうけたという。そしてその年の冬、亡くなった。
葬儀の日、ドロシーは涙を見せなかったという。
「あの方は、不可侵です。ドロシーさんのご友人がたは何もお気づきでないけれど、私にはわかります」
胸に手を当てて、愛おしげな視線を中空に投げる。うっとりと微笑む頬は薔薇色で、瞳は劇的な憂慮を宿していた。
「ドロシーさんは孤独です。何もその目に映さない、本当の意味で心を動かすこともない
。……弟さんを亡くされてから、ずっと。あの方のお心は遠い天に向いているのです」
自分が話したことは秘密にしてほしい、と断ってから、ヘーゼルは続けた。
「どうかドロシーさんを慰めて差し上げてください。あなたはどこか似ていらっしゃるから」
少女の感情に翻弄されて、何を言われているかすぐには飲み込めなかった。かろうじて「あなたがお慰めしては」と返すけれど、思考の追いつかない私に彼女は首を横に振った。
「私では、だめなんです。あなたでなくては、リコリベージ様」
ドロシーを慰めると言っても、本人に直接お願いされたわけでもないし、事情だって又聞きである。どうすることもできないぞ……そもそも、他人の手が本当にドロシーベルに必要なのか?
まあ、会いたいとこちらから伝えているし、その流れで少しくらい話してみるのもいいのかも、と「機会があれば話してみる」という答えを返した。それでじゅうぶんだ、と喜ばれてしまって面食らう。あたしはそんなたいそうな人間ではないぞ。
そしてお昼、待ち受けていた殿下に風邪の件で叱られた。怖い顔をしている。いや、あたしが悪いのだ。あたしが悪いのです。すみません。
お母さんのようにうかつな生活態度をいさめられめ、平謝りである。でもそれがちょっと嬉しいなんて思ってしまうのは、あたしがアホだからだろう。ひとしきりお小言をくださった殿下はひとつ息をつく。この話はこれでおしまいだ、と教えるように。
「それで、……君の弟は編入生だったんだな」
「……ええ、私も突然のことで、驚いています」
「事前に聞いていなかったのか?」
全く聞いてません、と首を振る。殿下は驚いていらっしゃった。わかっていたら、あたしだってお伝えしてましたよ。
「ともかく、家族が近くにいるのなら、少しは君も安らぐだろう。スコラが違うといっても、同じジルバの中にいるのだから」
そう笑ってくださる殿下。天使かよ……。
そう、マクジーンはてっきり赤実に入る思っていたのだが、どっこい選んだのは高貴な黒玉。編入して一週間も経たないうちに、もう友達もできたらしい。あたしは寝込んでたから、又聞きなんだけど。別に悔しくない。
図書館で珍しい顔を見た。ドロシー。その手元にあるのは、なんだか難しそうな、あたしには読めない言葉の本。彼女はあたしに気づくとにっこりと笑う。
体調を気遣う常套句に、平気、と答えて、前にもこんなやり取りをしたっけと微笑むと、ドロシーも同じことを思ったのか、唇に指を当ててくすくす笑った。銀の髪がはらはらと落ちる。
よければ部屋で話さないか、とドロシー。あそこなら、誰も来ない。取り巻きのお嬢様方も。
自分から話したいと伝えていたことを思い出して、あたしはもちろん、と承知した。内心は結構ドキドキしていた。ヘーゼルの話を聞いていたせいか、その涼しい顔の下に、どんな想いを秘めるのだろうと考えてしまって。
ドロシーの部屋はもちろん、黒玉の寮内にある。他の生徒と同じ並びの一室だ。もっと特別な場所を用意されてるのかと思った。
室内は綺麗に整頓されて、華美な印象はほとんどない。これも意外。殿下と趣味があいそうだな、と考えて少し妬けた。
従者にお茶を運ばせる、というドロシーについて、どっしり構えたソファに腰を下ろす。当然ながら二人きりだ。
早まったかな、落ち着かない……
「お口にあわない?」
「いいえ、とてもおいしいです」
美味しいです、ほんと。
「ドロシー様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「様、だなんて。ドロシーと呼びつけてくださいませ」
「でしたら、私のこともそのように……」
「あら、それはいけませんわ。私、大切な方はきちんとお呼びすると決めているのです」
面食らう。
「それでは、ドロシーさんと」
「ええ、そうなさって」
首を傾げてクスクス笑うドロシーは、きにんと年頃の少女のように見えた。
「ずっとお話ししたかったんですの、ですから、あなたからお声をかけてくださって、私本当に嬉しかった」
「あの、ひとつお聞きしてもいいですか。どうしても気になってしまって」
「なんなりと」
「どうして、私によくしてくださるのでしょう」
「まあ、そんなこと」とドロシーは目を見張り、ころころと笑う。
「だってとっても、かわいらしい方なんですもの」
否定しようとするものの、その目の優しさに思わず言葉が詰まって、「あなたの方が、ずっとお綺麗です」なんて口走ってしまう。ドロシーは「光栄ですわ」とさらりと受け止めた。器の違いを感じてなりません。
「飾り気のない部屋だとお思いになるでしょう」とドロシー。
答えあぐねて目を彷徨わせると、卓の上に一冊の本。先ほどのものだ。私物だったらしい。
「リコリベージ様は書物がお好きなのでしたわね。私も時々読んでみるのですが、すぐに眠くなってしまいますの」
「どんな本なのですか」
「古い物語で…興味がおありなら、よろしければお貸しいたしますわ。本当なら差し上げたいところなのですけれど、知人から譲り受けたもので」
「いいえ、そんな、贈り物をお借りできません」
ドロシーはあら、と首を傾げて、良いことを思いついたというように指を組んだ。
「それでしたら、読み終えた後でどんなお話か、教えてくださらない?」
まだ一度も最後まで読み通したことがないのだと、ドロシー。自分を助けると思って、とまで言われてしまうと、引き受けないのも悪い気がした。あたしは赤実の寮の門前まで送ってくれた従者から本を受け取ると、それを丁重に抱えて部屋へ戻る。
タイトルは、『黒い犬の童話』。
小さな黒い子犬が、美しい花と友達になり、枯れた花を惜しんでその種を拾って飲み込んだことで、他の兄弟犬とは違う、大きく美しい犬になる。
犬はある時、美しい人の少女に恋をする。けれど残酷にも少女は病を得て、みるみる姿を変えていく。若い娘には特に残酷なこの病の治し方を、犬は花の友人たちに尋ねて回る。中でもひときわ大きな株の花が、方法はないから諦めるよう犬をさとすが、彼は諦めない。食事も取らずに探して回り、衰弱しきった犬に、とうとう古い花は教えてやった。
お前の中にある花の種を娘が口にすれば、たちまち病は消えてしまうよ。
どうすればよいか、犬にはすぐにわかったので、彼は自分から、娘の部屋の前にある池に飛び込み、やがて芽を出し茎をのばし、とうとう花の蕾になると、窓の中の少女に呼びかけるのだ。自分の種を食べれば、あなたの病気は治る、だからどうか諦めないで。
すっかりふさぎこんでいた少女は、つぼみの言葉をはじめは聞かなかったけれど、必死な様子のその花に心を励まされてだんだんに元気を取り戻す。
ついに庭に姿を現すと、花は蕾を開いて美しく咲き、小さな実をつける。娘がその実を口にすると、あまりの美味しさに生き返ったような気分になる。
花のいうとおりに鏡を見た少女は、庭の花にお礼を伝えに行くけれど、その時にはもうすっかり枯れてしまっていた。
少女の涙が池に落ちると、翌年からは黒く美しい小ぶりの花が、池の上にいくつも咲くようになった。
モノクロだが、繊細で美しい挿絵に彩られた本である。
最後の挿絵の花のつやつやした様子からするに、犬は幸せだったのだろう。
黒い花の下に、小さく刻まれた文字がある。ここだけ手書きだった。
『小さなきょうだいたちへ。幸いを祈る』




