25あたしに襲来
ヘーゼルの問題発言から三日が過ぎた。
雨を被りながらも奇跡的に熱を出さなかったあたしは、鼻水を垂らしながらも勉学に勤しんだ。ヘーゼルはあれからも、いや、今まで以上にあたしの良き教師を務めてくれた。
そしてお礼を伝えると「お役に立ててよかった」とはにかむようになったのだ。
『あの言葉、どういう意味? ドロシーが取り立てたって、なに?』
そんなこと、聞けっこない。
与えられた任務を遂行することだけが自分の価値であると割り切っているみたいな、不自然に平時通りの彼女を、今までの比較にならないレベルで傷つける行為に思えて。
試験は無事終わり、成績を見たアリシオにかなりほっとされた。あたしより自分を心配した方がいいのではと思ったが、要領のよさと友達の有能さによって、ぎりぎり赤点をまぬがれている。いるよねこういうタイプ!
あたしはヘーゼルのことを頭の隅に置きながら、弾んでしまう心を抑えきれない。机から試験結果を片付けながらソワソワしていると、アリシオが他の友人と別れて寄ってきた。
「リコは……今日は殿下と過ごすの?」
「ええ」
「久しぶりに甘えられるわね」
「ええ……え?」
「はあ、なんだかおもしろくないけど、いいわ、今日は殿下にお貸しするわ」
「もう、アリシオさんったら……」
あたしは微笑するにとどめる。からかわれるのはなかなか慣れない。確かにあたしは殿下を尊敬しているし、竜にあこがれる盟友的存在であるし、なにより、はじめてできたお友達である、ムフフ。
「……顔に出ているわよ」
聞こえない振りをした。
それなのに、それなのに、である。殿下との待ち合わせ場所にたどり着いて、あ、向こうからいらっしゃる! お付きの方も角張った包みを持っていらっしゃる! とその姿を発見して思わず駆け寄りたいのをがまんして足を踏ん張ったときである、殿下が目を見張る。あたしは自分がひどい寝癖でもしているのかと髪をさわって、その直後、
「――姉様!!」
襲来した。
あたしは腰にしがみつく弾丸を見下ろして言葉をなくした。
幻覚かな?
その黄色い頭がぴょこりと跳ねおき、期待に満ちたまなざしでこちらを見上げる。
だから、おずおずと呼んだ。
「……マクジーン?」
「ああ、姉様!! 会いたかった!!」
いや、わりと最近会ったじゃん。なんて口が裂けても言えないようなテンションで、我が弟はぎゅうぎゅうしがみついてくる。腰と言ったが、お腹というか、ちょうどみぞおちである。苦しい。放せ、と言おうとして、気がついた。
「……また、背が伸びたの?」
マクジーンは顔を輝かせた。アカン奴や、アカンスイッチや、とあたしは即座に後悔するが、遅かった。
「そう! そうなの! わあ、気づいてくれた……姉様すごい、……僕、愛されてる…」
締め上げポイントの位置が上がってて、いやでもわかったよ。
「紹介して、もらえるかな」
ああ、殿下!!
突然近づいたユクシュル殿下のご尊顔に、あたしはつい見とれてしまう。優しい殿下。ゆっくりとお会いできるのは、本当に久しぶりだ。
「あ、あの、殿下、こんにちは……」
鳩尾がさらに、ぎゅっとしまった。
「ユクシュル殿下でいらっしゃいますね。マクジーン・シンクレイと申します。いつも僕の姉がお世話になっております」
私たちは着席した。いつもの東屋である。殿下のお付きの生徒はその道の筋を通しているのか、殿下の後ろに立っているが、興味津々な表情は全く隠していない。
「堅苦しい挨拶はよそう、マクジーンと呼んでもよいだろうか。私も彼女には救われている」
ええっ、殿下、やだなあ、そんな……。
「姉様、ニヤニヤしてる」
「マクジーン! ……あ、すみません、殿下……」
「構わない。私は席を外そうか」
「えっ?」
あたしは思わず発してしまった声を恥じて俯くが、殿下はその海より深いお心で微笑んでくださった。
「家族が会いに来てくれたのだから、水入らずで話すといい。本は……あとで送らせよう」
「……本?」
マクジーンが怪訝にする。本当は担いで帰りたいくらいだったが、さすがに無理である。
「申し訳ありません、助かります」
「構わない、またあとで、リコリベージ」
「はい、ユクシュル殿下」
「……ふうん」
殿下の後ろ姿が見えなくなるまで凝視していたあたしの横で、マクジーンは早速にテーブルに肘をついていた。あたしは気持ちを切り替えるように静かに息を吐いて、弟に向き直る。
「それで、どうして急に? 会いにくるのなら言ってくれれば良かったのに」
「早く姉様に会いたくて。荷物は御者に任せて、僕は馬で先にきたんだ」
「荷物?」
「そう、編入するから」
……
「は?」
「母様はすぐに賛成してくれてね、行くなら早い方がいいからって、急いで手続きしてくれたんだ」
「なんで?」
「もちろんお勉強のためだよ、姉様」
柔らかく微笑む。あたしはそのすました頬をつねってやりたい衝動を抑えながら、なんだか無性に情けなくなった。
どれだけ頼りないのだろう。いや確かに頼れないけれど。
「先に相談してくれても良かったのに……」
腐っても姉なのに……。
「姉様は、僕が来るのはいやだった?」
「嫌ではないけど」
「本当?」
めずらしく疑わしい目を向けられている。
嫌じゃないけど急でとまどっている、と答えると、
「……よかった、僕はお邪魔になったかと思ったよ」
「どういう意味?」
「秘密」
あたしは今度こそその頬をつねった。
「まだ部屋が用意できてないんだって」とふくれっ面して学舎の客室へ向かうマクジーンと別れて寮に帰ると、殿下からの本が届いていた。あたしはウキウキとその包みを抱えて机の上に置くと、ほどき、その表紙を撫でた。
「おかえり」
会いたかった。昔のあたしの全て。そして、今のあたしの一部。
うふふ、と笑いを漏らしながらそのうちの一冊を広げる。はらりと一枚の紙が落ちた。
『あまり夜更かしはしないように』
あたしは震える心を宥めながら、拾い上げたメモをつぶさないようにそっと両手で包み、額に押し当てた。
――優しすぎる。
もう、もう、どうしたらいいのか。
本当に、たまらない。
この人のためなら、なんでもできる気がする。
そして不意に、また思い出すのだ。
――ヘーゼル。
あなたのドロシーへの気持ちも、こんな風なの?
気持ちの熱さが体に伝染したのか、なんだか、火照る。




