23あたしと雨
寮に帰るとすぐにノートを開いた。最近はずっと、この時間は絵本を読んだり、殿下と飲むためのお茶を選んだりしていたっけ。
スコラに来たばかりの頃は、勉強が苦ではなかったのに、今のあたしときたら。そりゃ成績も落ちる。
――殿下に捨てられるわよ。
アリシオの残酷な言葉と、王子様の哀れむような視線を思い出す。
……殿下の中のあたしの株を、取り戻さなくては……
あたしは殿下にお出しする予定だったお菓子を脳の栄養に変えて、教本に向き合った。
ヘーゼル・ベイグッド。緑の瞳の少女とは、教室の外でもよく出会った。というかあたしが見つけるのだ。彼女ははよく、キョロキョロと何かを探すように廊下や庭を歩いていることが多い。なくしものなら手伝うと言うと、なんでもないと断るのだ。それどころか、話をそらすように勉強しないかとあたしを誘う。こちらとしては願ったり叶ったりなので断る理由はないのだが、それでも気にはなるのだ。
あたしたちはよく、図書館で一つの机に向かい合って腰かけた。ヘーゼルは当然ながら再試験の必要はないのだが、復習になるからと付き合ってくれる。
――ここ、なんだろ。
借り受けたノートと教本を見比べていたら、設問の意図が引っかかった。こういう時はすぐに聞くに限る。あたしは差し向かいの彼女に声をかけようと顔を上げた。
ヘーゼルは外を見ていた。
降り出した雨を、気鬱そうに眺めている。
「ヘーゼル?」
呼びかけると、ぴくりと肩を揺らして、いま気づいたという顔で照れ臭そうに笑う。わからないところがあると教えをこうと、「ああ、ここはですね、」とごく自然な雰囲気で解説してくれた。
その日、それから一度もヘーゼルは窓の方を向かなかった。
蒸し暑い雨の日のこと。渡り廊下の途中で、中庭に彼女を見つけた。
革色の傘をさして、植え込みの前に立ち尽くしている。背中しか見えないけれど、あたしはきっと彼女だろうと思った。
あんなところに、何の用事だろう?
少し躊躇したけれど、あたしはその名を呼んだ。
「ヘーゼル!」
激しい雨音にかき消されて声は届かない。なんだか無性に気になって、一度傘を取りに行って戻ってくると、すでに彼女の姿はない。諦め悪く、植え込みのそばまで行ってみると、根っこのあたりに、白い切れ端が落ちていた。
あたしはしゃがみ込んで、慎重にそれをつまみ上げた。見慣れた字が滲んでいる。
まちがいない。
ヘーゼルの、ノートだ。
横っ面を鈍器でぶたれたような衝撃があたしを襲った。血の気が引く。自分の馬鹿さ加減にだ。
あたしはその、破り捨てられたようなノートの切れ端を握りしめて、その場にしゃがみこむと、更に探ってみた。
――やっぱり。
枝に隠れた奥の方に、バラバラと同じような切れが落ちている。
彼女が、自分でこんなことをするわけがない。
誰かが、わざとこんなことをしたの?
――ヘーゼルは、ずっとこれを探していたの?
あたしは乱暴に立ち上がると、行き場のない憤りに駆け出した。
あたしが初めてノートを拾った日、どんな気持ちで中庭にいたのだろう。図書館で雨が降りだして、どんな気持ちだったろう。
あたしが拾ったノートが、誰かに盗まれたものだったとしたら……あれからずっと、あたしは全く気付かずにいたということだ。
なんてことだろう。彼女がいつも、何かを探していると知っていたのに。
今頃どこかで泣いているんじゃないか。
心当たりを探し回っても、彼女の姿はなかった。といっても、建物の外周に沿って、庭を歩いただけだけど。
外にはもういないのかな。
あたしは最初の渡り廊下に戻って、柱に手をついた。体が重い。
探してないところ、あるかな。それこそどこかの庭木の影にしゃがみこんでいたりしたら、見落としているかもしれない。
もう一回、見てまわろう。
「――おい、ずぶ濡れじゃないか」
頭を振ってまた雨の中へ歩きだそうとしたとき、聞きなれた声が思考を遮った。反射的に、しまった、と思った。それが顔に出たんだろう。張り付いた前髪をすくいあげた先で、金髪の王子様はしかめっ面であたしを見下ろしていた。
「そんな格好で何をしているんだ。いや、とにかく体を拭いたほうがいい。いくぞ」
自然な動作で差し出された手に、いつもだったらこみ上げるだろう嬉しさが、今日は胸の底でほのかに揺らぐだけだった。久しぶりのユクシュル殿下。お優しい殿下。だからこそ彼はきっと、あたしを見逃してくれない。
「ごめんなさい。人を、探してるんです」
「人?」
殿下はうさんくさそうに顔を歪めた。それはきっとあたしを急かしたいがゆえの苛立ちからくる表情なのだが、あたしはその乱暴な反応に、ぎゅっと心臓を掴まれたような気分になる。
「友達です」
「その友達が、どうしてこんな雨の中にいるんだ」
殿下はあたしがほっぽり出していた傘を拾い上げると、素早くたたむ。次はお前だ、とばかりに手を伸ばされて反射的に身を引いた。
瞬間、視界が揺らぐ。ふんばろうとした足には力が入らず、それどころか靴は水を吸ってずるりと滑った。
あ、ヤバイ。
ぐん、と強い力で腕が引かれる。背中に触れた手が、食い込みそうな勢いであたしの体を支えた。
いまだふらつく頭で考える。お礼を言わないと。それから、探しに行かなくちゃ。
「あの、あたし」
「いいから、こい」
頭の上に何か被せられる。そのまま手を引かれた。どちらがかはわからないが、ひどく汗ばんでいる。
殿下は有無を言わせなかった。
無言のまま腕を引かれていると、だんだんと冷静さが戻ってくる。同時に、怖さも。
「ご、ごめんなさい……」
ユクシュル殿下は振り向かなかったけれど、少しだけ歩調を緩めてくれた。確実に呆れられただろうけど、嫌われては、いないのかな。
たどり着いた医務室の扉を開けると、殿下は「ほら」、とやっと口を開き、あたしを促した。まだ少しモヤモヤして入室をためらっていると、とうとうため息をつかれた。殿下が何か言おうと息を吸い込んだ時、先んじて、部屋の中から声がした。
「――リコ様?」
あたしはガバリと顔を上げた。
殿下の後ろ、医務室の椅子には、あたしの探していた女の子が、ちょこんと腰掛けていた。
「ヘーゼル……」
「リコ様、顔色がお悪いです。休まれた方がいいですよ」
彼女は立ち上がると、立ちっぱなしでアホのように口を開けているあたしに寝台を勧める。その表情はいつもと変わりない。今も純粋にあたしを心配しているようだ。殿下に気づくと一瞬目を見開くが、小さく会釈すると、「それでは私はこれで」と出ていこうとする。
「ま、待って、ヘーゼル……さん、あなた具合が……」
「風邪を引いてしまったので、今日は帰ろうと思います。リコ様も、お気を付けて」
彼女は思わず身を引いた私の横を、ぺこりと頭を下げて通ると、丁寧に扉をしめて出て行った。
「妙だな」
殿下はそう呟いて、物言いたげにあたしを見下ろしたが、あたしこそなんと伝えればいいかわからず、ただ渡されたタオルで髪を拭き、言われるがまま寮へ帰った。
「出てきて平気なのか」
翌日、最後の授業を終えて教室を出たところで殿下に会った。タイミングが良すぎる。待ってくれていたのだろうか。いやまさかな。
「今朝、アリシオにも同じことを言われてしまいました」
「それはそうだろう」
あたしは軽口をたたくような調子で言ったのに、殿下は「なにがおかしいんだてめえ」というように眉を潜めた。あたしは反射的に頭を下げる。
「昨日は申し訳ありませんでした」
「何がまずかったか、本当にわかっているのか」
「えっと、ご迷惑を」
――おかけして、と続けようとしたら、殿下がその柳眉をすごい形に歪める。あたしの言葉は完全に凍った。
そんなあたしに殿下は深いため息をついて、「あまり自分の体をいじめるな」と気落ちした声を出す。
「ごめんなさい……」
思わずそのまま飛び出た本音に、殿下はこくりと頷いた。あたしの事情を問い詰めることもはしなかったけど、「何かあったら言ってくれ」と言い残してくれた。




