22あたしとノート
成績が落ちた。それは面白いように落ちた。
当然だ。いくらリコリベージの頭が律子より上等だといっても、上の空で受けた授業の内容が自然と刻まれる訳もなく、もちろんノートだって、真面目に受けているように見える体を装うためだけにペンを遊ばせたようなもので、だから、この結果は、別段おかしなことじゃない。
――だけど、それがなんだっていうんだろうか。
あたしはこの世に勉強よりも大事なことがあると気づいただけだ。
教えてほしい?
教えてあげるよ。
それは、そう、友情――そして、『ゆうかんなわかものシリーズ』を読み込むこと。
ああ、ああ!
あたしは小指の先程も面白さを見いだせない、春季の成績の記された半ペラの紙を机上に放り出して、うふふ、空想にふける。
読めば読むほど好きになる。怖いくらいに、あたしの中に眠っていた竜への憧れは底を知らなかった。
今夜はオオイヌの物語を、青水草と餡好果のお茶でさっぱりと、そして静謐に楽しもうではないか。
ぐふふ、と内心でにやついていたら、視界に入った指がぺらりと、すっかり存在を忘れていた紙をつまみあげた。その時やっとあたしは、目の前にアリシオが立っていたことに気づいたのだ。
「あら、アリシオさん。ごきげんよう」
「……リコ嬢」
いやに硬い声である。いったいどうしたというのだろう。「なにかしら」と首をかしげるあたしに、その赤実一怠け癖のある女生徒は、手元の用紙からおもむろに目をあげ、似合わない真面目な顔を作って、
「――殿下に、捨てられるわよ」
――えっ。
ははそんなまさかあ。
そんな、怖い顔で冗談を言うなんて、アリシオさんったら……。
そう言い返そうとした時だった。あたしの名前を呼ぶ声がして、足音がすぐそばで立ち止まる。
「私が、なんだ」
背中を冷たい汗が伝った。
結局あたしはその日、その直後、殿下に『りゅうとわかもの』を『自主的に』預けることになった。
――アリシオの手元をなんの気なしに視界に入れた殿下は、一瞬確かに「マジかよ」という顔をした。ああ、すみません、いつもはこんなじゃないんです、今回はたまたま、ちょっと、と脳内で言い訳を構築したが、無様に口に出すことだけはなんとか理性で押しとどめた。あたしは青い顔をしていたのだろう、殿下は何も言わずに、憐れむような視線をくださった。
それでもなんとか拝み倒し、殿下からもらった絵本だけは残しておいてもらえたのだが、触れるのは禁止された。色を失くしたような殺風景な部屋の棚の上に、恭しく飾ったそれをアリシオは呆れた目をした。
がんばれあたし!
スコラでは、前回の結果が思わしくなかった者に対して再試験が行われる。赤点救済だけでなく、希望者はもう一度受けることができるのだ。一回目と二回目で、良い方の成績が残せるので、あたしは基本的に今までも二回受けていた。赤実はそういう人間が多い。黒玉は見栄っ張りなので、一回で良い点を叩き出すか、点数なんて細かいことにはこだわらないので赤点ギリギリかのどちらからしい。
この二回目の試験が終わるまでは、殿下に会わないでいようとあたしは決めた。顔を合わせるたびに頭の心配をされたのでは恥ずかしすぎるからである。
しかし、マズイぞ。
授業中、あたしはメモをとったり取らなかったりしていたので、ノートを開いてみても全然参考にならない。アリシオは無論である。
今更ながら危機感を覚え始めていた時、あたしは見つけた。何の気なしに拾い上げた。廊下の隅に、ぽとりと落ちたそれは、誰かのノートだった。
こ、これは……。
読みやすい字、色分けされてひとめでわかる要点。
項目ごとに付箋が貼ってある手の込みよう。誰かのために作られたような完成度だ。
まさに今のあたしにふさわしい、試験対策ノートではないか。
あたしはパラパラとノートをめくる。なんだか見覚えのある字だと思ったのだ。
どこにも持ち主の名前は書いていない。
なくした人も困っているだろう。
早く届けてあげよう。そしてあわよくば見せてもらおう。ダメでもせめて今回のヤマを教えてもらおう。
階段を降りる途中で、あたしは踊り場の窓から、裏庭を歩く女生徒を見つけた。キョロキョロと、何かを探すそぶりである。まさかね、と思いつつ、その視線がこちらを向くタイミングでノートを不自然でないようにちらつかせると、明らかにその目の色が変わる。あたしがノートを指差して首を傾げると、その意図をくんで激しく頷いた。そこで待つようにと手で示して、あたしは階段を駆け下りた。
面と向かいあったとき、急ぎ足でその場に達したあたしと同じか、それよりも酷いくらいに彼女の息は上がっていた。真っ赤な顔でソワソワと、視線をあっちこっちにさまよわせる。赤茶色のふわふわとした髪に、まん丸のグリーンの瞳をした、あたしと同じくらいの背丈なのに、俯きがちのせいでこぢんまりとした雰囲気の女の子である。
「あの、こんにちは」
なんだかいたいけな少女をかどわかす悪人になったような気分である。あたしはつとめて、無害に聞こえるよう、優しく優しく、第一声を発した。
「……は、の、ここ、こんにちは……」
人見知りするのか、心配になるくらいに緊張している。あいさつだけでこれでは、一緒に勉強しよう、なんて言えるわけもない。
あたしは内心しょんぼりしながら、ここへきた目的のものを差し出した。
「これ、探していらしたんじゃないかしら」
女生徒ははっと顔を上げて、ノートと凝視し、あたしの顔を恐る恐る見上げた。
「……あ、ありがとうございます、リコリベージ、様」
あたしは表向きにこやかな顔を心がけつつ脳のライブラリを参照したが、知り合いリストに彼女の姿はない。
「私のことをご存知なのですか?」
彼女はわずかに瞳を震わせ、あたしの視線から逃れるようにノートを見下ろし、ものすごくやりにくそうに、つっかえつっかえ口にした。
「あの、以前、授業の記録を、お貸ししたことが……」
えっ。
あたしはポンコツ頭をひっくり返す。そういえば、ノートを借りたこと、あったぞ。
あれはそう、体を壊して長々休んだ時だ。殿下との関係に落ち込んで、家に逃げ帰る直前のことだった。
「ドロシーベル様の、ご友人の?」
そうだ。ドロシーの取り巻き。そういえば、そのうちのひとりは赤実だったのだ。姿は記憶にないが、そういうことは、確かにあった。
あの時、名前を聞いていただろうか。
あたしの顔がわかりやすかったのか、女生徒……いつかのノートの主は、困り眉ではにかんだ。
「その、ヘーゼル・ベイグッドといいます。いつかのときは、名乗りもせず、失礼いたしました。ドロシーさんには、お世話になっています」
少しリラックスしてきたのか、ヘーゼルの顔色は落ち着いている。代わりにあたしは恥ずかしくてたまらない。
「……いいえ、私の方こそ、物覚えが悪くてお恥ずかしいことですわ。改めて、リコリベージ・シンクレイと申します。ヘーゼル様、どうか非礼をお許しください」
「わ、どうか頭をあげてください!」
あたしがおずおずと顔を上げると、ヘーゼルはまた赤くなっていた。
「ああ、びっくりした……どうか、私なんかにそんな風になさらないでください、それに、様、だなんて。呼び捨ててください、リコリベージ様」
「それじゃあ、ヘーゼルさん、でいいかしら。私のことも、リコと呼んで」
「ええっ!」
ヘーゼルはきょときょと目を左右にさまよわせてから、あたしが引かないとわかると、意を決して
「その、……リコ、様」
リコだって! いい響きである。学園ではアリシオくらいしか、そんな風にあたしを呼んではくれないのだ。様が余計と言ったら、意外と頑固なのかそこは譲ってくれなかった。
あたしは彼女の視線の先を理解しながら、スッとそれを差し出した。
「ねえ、ヘーゼルさん、いきなりこんなことを言うのは図々しいと思うのだけれど」
「なんでしょうか?」
あたしは笑みを貼り付けたまま、ぺこりと頭を下げた。
――ノート、貸してください。
というのを回りくどく、なるべく不自然でないように、たまたま、そうたまたま今回わからないところがあって、リベンジのためにもう一度試験を受けたいから、他の人のノートを参考にして勉強し直したいのだ、というようなことを伝えた。
かくしてあたしの情けないお願いは受け入れられた。
最初は少し戸惑うようだったのだが、あたしが真剣に困っているという顔をすると、同情してくれたらしい。快く貸してくれた。それどころか他の科目も見せてくれるという。しかもしかも、『わかりにくいところがあったら聞いてください』と来たもんだ。天使かよ。ていうかたぶんバレてる。あたしの成績が直視できない悲惨な事態に陥ってること、バレてる!
しかしその視線の暖かさからして、この病弱ボディを持て余すあたしをご存知で、体調が悪くて勉強できなかったとか思われてるんだろう。そういう目だ。救われたような、気まずいような。
ヘーゼルと一緒に次の教室へ向かう道中、ドロシーベルとのことを尋ねると、はにかんで「素敵な方なんです」と答えた。多くは語らないけれど、彼女にとっては大切な人物らしい。激しく意外というか、あのお嬢様、黒玉主義っぽい癖に、実は赤実と友情してるんじゃないか。




