15あたしの嫉妬
スコラの門を出て、殿下はひと気の少ない木立に入る。弾む足取りで背中を追いかけていたあたしは、振り向いた彼の沈痛な面持ちに虚をつかれた。
「顔色が良くないな」
「……いいえ、もうすっかり治ってしまいました」
「目が赤い。まだ本調子ではないんだろう」
それはきっと、昨夜の茶葉選びに夢中になってしまったせい。
あたしはごまかすように笑った。
体調は本当にもう万全なのだ。
「クロッタには、参加しないほうがいいんじゃないか」
「何をっ、……そんな、平気です、殿下にご心配いただかなくても……」
何を言い出すんだこの人は。
思わず素が出そうになる。殿下は動揺しまくるあたしと目を合わせないまま、焦ったような調子で口を開いた。
「君の、友人を紹介してくれないか」
「……友人」
は?
「リコリベージ?」
「できません」
頑なな言い方になる。表情を硬くする殿下。だって。
「私に、友人と呼べるような人は、いない」
あなた以外に。
「なにを言っているんだ? よく一緒にいるだろう」
「アリシオのことですか」
殿下まさか、アリシオが気に入ってあたしと仲良しごっこをすることにしたのか。
本当は、アリシオとお近づきになりたくて?
まあ、いい。
いいけど。そういうことなら、別にいい。いいよ。
「……リコリベージ?」
しかしどうしたことだろう。
わかりました、と返事をするだけなのに、あたしの口は開いたまま音を発することはない。
それどころか、無礼にもほどがある行動に出た。踵を返して、その場を走り去ったのだ。
木立を縫って、息切れしながら寮の門を通り抜ける。運良く人目を避けて、見知った塔の入り口にたどり着く。這うようにその階段をのぼり、小部屋の扉を開いた。
そしてあたしは泣いた。さすがに大声を発してはバレるので、部屋の隅で本棚を背に膝を抱え、突っ伏して嗚咽する。
竜という夢をなくした瞬間よりもずっと、胸の痛みは鋭利に、深々とあたしに突き刺さる。
ショックだった。
こんなことでショックを受けている事実もこわい。
あたしはうまいこと、あたしをコントロールして、いつでも冷静なリコを演出していたはずなのに……
あたしは念願の友達に浮かれていたのだ。
仮に殿下が、単に交友関係を広げたいという理由でアリシオを紹介してくれと言っているとして、何の慰めにもならない。
だってきっと、殿下はあたしよりもアリシオといた方が楽しい。
きっとそうでも、殿下はあたしを放り出したりはしないだろう。それは、とっても辛い。
だけど、しかたない。謝ろう。殿下は許してくれるだろう。そのくらいの関係はあるだろう。ダメでもきっと、あたしの身分はあたしを守ってくれるだろう。
だから、ちゃんと殿下の望む通りにしよう。
ーー立ち上がりざま、アリシオがレディに跨り、手綱を操る凛々しい姿が脳裏によみがえる。
パキン、と、体の芯で何かが割れる音がした。あたしは不安に急かされて胸の鎖をたどる。石は……なにも変わりないように見える。
大丈夫。
このリコは本当のあたしを守るための殻だ。
本当に大切なものは、ちゃんとあたしの手の中にある。
気がつくと医務室のベッドに寝ていた。
塔の付近で意識を失っていたところを生徒が発見してくれたらしい。
翌日、あたしは自分から殿下の元へ出向いた。不自然なくらいに落ち着いて昨日の非礼を詫びると、殿下はむしろあたしの体調を気遣った。その時だけ、チクリと胸が痛かったけれど、それもすぐに消えた。
あたしはアリシオに殿下を紹介する。アリシオはすごく驚いていて、でも嬉しそうだった。アリシオを通じて数人の赤実の生徒が殿下に名前を覚えてもらい、彼らはあたしにも声をかけてくれるようになった。
クロッタ・ジルバも滞りなく片付いた。クロッタの祝いとして、友人たちに、買い求めておいたお菓子を送った。殿下と楽しもうとして取っておいた茶葉だったが、少しずつ分けて皆へのお菓子に添えた。その方がいいと思えた。あたしは殿下の友人だが、おたがい唯一無二というわけではない。
あたしはうまくやっていた。アリシオとたくさんの友達があたしを気にかけてくれる。どうして今まで不安だったのだろう。何に怯えていたのだろう。
ベリダ兄様からの手紙にも、あたしはなんの心配もないとしたためた。
クロッタが終わり、夏がくる。比較的涼しい気候のスコラジルバであたしは休暇を過ごすつもりでいたが、実家から帰省を促す手紙が届いたので了承した。久しぶりに家族の顔を見るのもいいと思ったのだ。
約一年ぶりに帰ったシンクレイのお屋敷は、青々とした緑に囲まれていた。躑躅花の最盛期は終わり、落ちた花の始末に庭師が忙しなく働いている。
予定よりも早い到着を知らせに走る使用人を見送ると、あたしは花の匂いに誘われて庭に足を踏み入れる。
庭の隅の納屋の扉が開いており、そこから一人の少年が顔を出した。
まだ幼さが残るが、ずいぶんと背が伸びた。
彼はこちらに気づくと、キョトンとしておいて、すぐさま瞳を輝かせる。
「リコ姉さま」
その口があたしの名を紡ぐのが遠目にもわかる。
一瞬その姿が小さかった頃の彼に見えて、胸の底が熱くなる。それは久しぶりの生々しい感情だった。
「マクジーン……」
「おかえりなさい! ああ姉様、さみしかったんだよ!」
薄手の上衣の裾を揺らし、駆け寄ってくるなり抱きしめられた。
お、おいおい。
「全然帰ってきてくれないんだから! どうせ僕のことなんて忘れて楽しんでいたんでしょう! 僕がどれだけ……もう、姉様ってば、本当に薄情だよ!」
ぎゅうぎゅうと腕に力を込める、あたしの弟。身長は……あたしも少し伸びて、それでも同じくらい。しかし体ばかり大きくなっても、中身は甘ったれの弟のままのようだった。
それでも力の加減は覚えたようで、さすがに内臓が引き絞れるような抱きしめ方はしてこない。……息はし辛いけど。
あたしが呻くように解放を求めると、マクジーンは渋々腕を解いた。
「本当に、寂しかったんだからね」
「……悪かったわ」
あたしが素直に謝ると、マクジーンはいまだ上気した顔のままで訝しむ。
「姉様、何かあったの?」
変わりないと答えようとして開けた口を、あたしはむっつりと閉じた。無言で首を左右に振る。
これでは何かあったと言っているようなものだ。
「姉様……」
あたしは俯いた。思わせぶりな態度とわかっていても、これがあたしの取れる最善の行動だった。
その感覚はあまりに突然で、思考が全く追いつかない。
唇が震えていた。泣き出さないので精一杯だ。
なんでいきなりこんなことになっているのだろう。あたし、おかしくなってしまった?
久しぶりの再会で感極まったのだろうか。
……実はホームシックだったの?
「……姉様も、さみしかった?」
その言葉がストンと、胸の空白を埋める。あたしはとっさに唇を噛んだ。マクジーンは首を横に振って、驚くほど優しく、あたしの肩にふれた。
「こらえないで」
これではまるで、自分の方が年下になったようだ、滑稽だ。
そう思いながら、勘のいい弟に肩を抱かれるままに涙を落とした。
庭で弟にしがみついたまま、ずびずびと鼻をすすり、それはもうひどい顔をしているだろうあたしを最初に発見したのはおじさまだった。
「リコ、お前……いや、喋らなくていい。とにかく中に入りなさい。冷たい飲み物があるから」
あたしは「うー」と唸るように、近づいたおじさまの腕にすがりつくようにしてついて歩いた。




