三千人のお嬢様第一主義
「騎士団長」
「何だ」
グランディア公爵家騎士団長。
ジークフリード・バルガス。
三千人の騎士を率いる男。
彼の前に、マリアンヌたち十人がいた。
「お願いがあります」
「断る」
ジークフリードの返事は短く、低かった。
「まだ何も申し上げておりません」
「お前たちが揃って来た時点で、平穏な話ではない」
「失礼ですね」
「去年、お前は『お嬢様の散歩道に不審者がいる』と言って、私兵五百人を動かした」
「不審者がいました」
「猫だった」
「お嬢様が驚かれました」
「猫に驚かれただけで五百人を?」
「結果として、お嬢様は猫を飼われました」
「だから何だ!」
「お嬢様は幸せになられました」
「……」
ジークフリードは腕を組んだ。
「今回は何だ」
マリアンヌは微笑んだ。
「お嬢様を幸せにします」
「話が抽象的すぎる。具体的に言え」
「婚約者を排除します」
「物騒だな」
「社会的に、です」
「最初からそう言え」
マリアンヌはアルフォンスの資料を差し出した。
ジークフリードは無言で読み始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
十枚目。
「……」
二十枚目。
「……」
五十枚目。
「……」
「騎士団長?」
ジークフリードは書類から顔を上げた。
「三千人」
「はい?」
「三千人、全員集めろ」
「お待ちください」
「侯爵家へ行く」
「お待ちください」
「城壁を壊す」
「お待ちください!」
「侯爵家の庭に全員立たせる」
「何をするつもりですか!?」
「圧力だ」
「圧力の規模がおかしいです!」
ジークフリードは書類を握り潰した。
「この男」
低い声だった。
「お嬢様を泣かせたのか」
「はい」
「……」
ジークフリードは立ち上がった。
「三千人は動かさない」
マリアンヌは目を細めた。
「分別がおありなのですね」
「一人で行く」
「もっと駄目です!」
「止めるな」
「止めます!」
「マリアンヌ」
「何ですか!」
「私は騎士だ」
「存じております!」
「お嬢様を守るのが仕事だ」
「それも存じております!」
「なら、なぜ止める」
「だからこそ、法律に従ってください!」
ジークフリードはしばらく黙った。
やがて、渋々と椅子に座る。
「……どうする」
マリアンヌは扇を開き、優雅に微笑んだ。
「上品にまいります」
「その言い方をする時のお前は、上品では済まない」
「証拠を提出します」
「それだけか?」
「ええ。まずは」
「本当に、それだけか?」
「今のところは」
ジークフリードは深く息を吐いた。
「その『今のところ』が一番信用できん」
数日後。
王都に奇妙な噂が流れ始めた。
「グランディア公爵家騎士団が動いている」
「戦争か?」
「いや」
「反乱?」
「分からない」
しかし、三千人の騎士は王都の各地に配置されていた。
市場。
港。
城門。
貴族街。
そして、レイヴァン侯爵家の周辺。
「これは包囲では?」
「違います」
騎士団長ジークフリードが答えた。
「通常の警備だ」
「三百人も?」
「通常だ」
「侯爵家の前に?」
「治安維持だ」
「なぜ全員グランディア公爵家の紋章を?」
ジークフリードは胸を張った。
「我々の所属を明示しているだけだ」
「それを威圧と呼ぶのでは?」
「威圧ではない。警告だ」
「同じでは?」
「違う」
誰も納得しなかった。
レイヴァン侯爵家では、アルフォンスが窓の外を見ていた。
「なぜ、あれほどの騎士がいる?」
「現在、侯爵家の前だけで三百名ほどです」
「何をしている!」
「警備だそうです」
「何の警備だ!」
「それは……」
使用人は言葉に詰まった。
「分かりません」
アルフォンスは青ざめた。
翌日。
三百人が四百人になった。
その翌日。
五百人になった。
「何だこれは!?」
アルフォンスは窓を開けて叫んだ。
「お嬢様の安全確保です」
騎士の一人が答えた。
「誰のお嬢様だ!」
「それは申し上げられません」
「絶対にエレオノーラだろう!」
騎士は答えなかった。
ただ、直立したまま、にこやかに敬礼した。
アルフォンスは拳を震わせた。
初めて、自分がとても恐ろしい相手を怒らせたことを理解した。
「エレオノーラ!」
ある日。
アルフォンスがグランディア公爵邸を訪れた。
「お会いになりますか?」
マリアンヌが尋ねた。
「ええ」
エレオノーラは静かに答えた。
「話を聞くわ」
応接室。
アルフォンスは明らかに苛立っていた。
「最近、おかしなことが起きている」
「そうですか?」
エレオノーラの返事は穏やかだった。
「知らないとは言わせない」
「何のことでしょう?」
「グランディア公爵家の騎士団だ!」
エレオノーラは首を傾げた。
「騎士団?」
「侯爵家の周囲を監視している!」
「まあ」
エレオノーラは驚いたふりをした。
「物騒ですね」
「お前が命令したんだろう!」
「いいえ。私からは何も命じていません」
「なら、誰が!」
その瞬間。
背後にいたマリアンヌが、柔らかく微笑んだ。
「さあ。私には見当もつきません」
アルフォンスが振り返る。
「……」
マリアンヌは完璧な笑顔を浮かべた。
「何か?」
「……いや」
アルフォンスは視線を戻した。
「とにかく!」
彼はエレオノーラを見る。
「この婚約は続ける」
「……」
「グランディア公爵家の娘として、結婚の準備を進めろ」
エレオノーラの表情が変わった。
「アルフォンス様」
「何だ」
「一つ、お聞きしたいことがあります」
「何だ?」
「私を」
エレオノーラは一度息を吸った。
「愛していますか?」
アルフォンスは少しだけ黙った。
「……何だ、急に」
「お答えください」
「政略結婚だ」
「はい」
「愛など必要ない」
エレオノーラは目を閉じた。
「そうですか」
「何だ?」
「いえ」
彼女は微笑んだ。
「よく分かりました」
「なら、話は終わりだ」
アルフォンスが立ち上がる。
「結婚の準備を――」
「アルフォンス様」
「何だ」
「私は」
エレオノーラは真っ直ぐ彼を見た。
「あなたと結婚したくありません」
沈黙。
「……何?」
「結婚したくありません」
「何を言っている」
「私は」
エレオノーラは立ち上がった。
声は震えていなかった。
「あなたの財産ではありません」
アルフォンスの顔が歪む。
「公爵家の娘として命令する」
「あなたが私に命令するのか?」
「そうだ!」
「侯爵令息が?」
「……」
「公爵令嬢に?」
アルフォンスは言葉を失った。
エレオノーラは静かに続けた。
「私は、あなたに愛されなくても仕方ないと思っていました」
「……」
「でも」
彼女は微笑んだ。
「大切にされない結婚をする必要はないと、気付きました」
その瞬間。
後ろにいたマリアンヌが、小さく拳を握った。
「……お見事です」
「マリアンヌ?」
「失礼いたしました。感情が表に出てしまいました」
アルフォンスは叫んだ。
「そんなことを言って、婚約を破棄できると思っているのか!」
「できます」
低く、よく響く声がした。
扉が開いた。
「父上」
そこには、グランディア公爵が立っていた。
「エレオノーラの意思を尊重する」
「公爵!」
「婚約は解消する」
アルフォンスが青ざめた。
「そんな!」
「さらに」
公爵は書類を差し出した。
「君の違法賭博」
「……!」
「借金」
「……!」
「愛人たちへの詐欺」
「……!」
「侯爵家の資金流用」
「……!」
アルフォンスは書類を見た。
「なぜ」
震える声だった。
「なぜ、こんなものが」
その後ろで、マリアンヌがにっこりと笑った。
アルフォンスは理解した。
「お前たちか」
「何のことでしょう?」
マリアンヌは首を傾げた。
「お前たちが調べたのだろう!」
「証拠を集めたのは、私たちではありません」
「嘘をつくな!」
「私どもは、事実を確認し、整理し、提出しただけです」
「それを調べたと言うんだ!」
「まあ。では、そういうことにしておきましょう」
マリアンヌは隣のヴィクトルを見る。
「ヴィクトル、書類の控えは?」
「すでに王都の司法局へ提出済みです」
ヴィクトルは淡々と答えた。
「逃げ道は残しておりません」
「なぜ、そんなことまで!」
「お嬢様の将来に関わる案件ですので」
ヴィクトルは眼鏡を直した。
「手続きに不備があっては困ります」
アルフォンスは、初めて本気で後悔した。
エレオノーラを泣かせたことを。
婚約は正式に解消された。
レイヴァン侯爵家は、不正の責任を取ることになった。
そして、アルフォンスは侯爵家の後継者から外された。
全てが終わった後。
エレオノーラはグランディア公爵邸の庭園にいた。
「マリアンヌ」
「はい、お嬢様」
「ヴィクトル」
「こちらにおります」
「みんな」
エレオノーラの前には、侍女五人、侍従五人、そして騎士団長ジークフリードがいた。
「……あなたたち」
エレオノーラは尋ねた。
「今回の件、何をしたの?」
「何もしておりません」
十人が答えた。
ヴィクトルだけが、少し間を置いて付け加えた。
「正確には、必要な調査と手続きを行いました」
「それは何もしたとは言わないの?」
「お嬢様にご迷惑をおかけするようなことは、何も」
「なるほど」
エレオノーラは騎士団長を見た。
「騎士団は?」
「通常業務です」
ジークフリードが答える。
「本当に?」
「……通常業務だ」
「三千人で?」
「必要な人数だった」
「それを通常業務と呼ぶの?」
「呼ぶ」
「呼びませんよ、普通は」
ヴィクトルが静かに訂正した。
ジークフリードは彼を睨んだ。
「余計なことを言うな」
「事実を申し上げただけです」
エレオノーラは、しばらく全員を見た。
そして、笑った。
「ありがとう」
その瞬間。
全員が固まった。
「お嬢様」
マリアンヌの目から涙が溢れた。
「私」
エレオノーラは言った。
「ずっと、一人で我慢するしかないと思っていたの」
「……」
「でも」
彼女は笑った。
「あなたたちがいた」
マリアンヌは胸元に手を当てた。
「お嬢様……そのようなお言葉をいただいては、私、もう何も我慢できません」
「何を我慢するの?」
「侯爵家への追加措置をです」
「もう十分よ」
「承知いたしました。では、別の方法を検討します」
「検討もしなくていいわ」
「かしこまりました」
返事だけは完璧だった。
アリスも泣いた。
クラリスも泣いた。
侍従たちも泣いた。
騎士団長も、顔を背けながら目元を拭った。
「ジークフリード」
エレオノーラが呼ぶ。
「……何だ」
「あなたも泣いているの?」
「泣いていない」
「でも、目が赤いわ」
「風だ」
「今日は風がないけれど」
「……」
ヴィクトルが静かに布を差し出した。
「騎士団長。お使いください」
「いらん」
「強がりは結構です」
「お前は黙れ」
「はい」
ヴィクトルは素直に黙った。
「お嬢様!」
マリアンヌがエレオノーラを抱きしめる。
「今後は!」
「はい」
「一人で悩まないでください!」
「ええ」
「誰かに傷つけられたら!」
「……?」
「私たちにお申し付けください!」
「……ほどほどにね?」
「善処いたします!」
「その返事は信用できないわ」
「心外でございます」
絶対にほどほどにはしない。
その後。
グランディア公爵家では、新しい規則ができた。
第一条。
お嬢様の意思を尊重すること。
第二条。
お嬢様を悲しませる者を許さないこと。
第三条。
お嬢様が泣いた場合、全員で原因を排除すること。
第四条。
騎士団三千人を動かす際は、必ず騎士団長の許可を取ること。
そして、その下に誰が書いたのか分からない文字があった。
第五条。
どうしても必要な場合、侯爵家程度なら三千人で解決すること。
「……誰ですか」
エレオノーラが尋ねた。
全員が目を逸らした。
「マリアンヌ」
「私ではありません」
返事が早すぎた。
「ジークフリード」
「知らん」
「ヴィクトル」
「筆跡鑑定をお勧めします」
「全員怪しいわね?」
「お嬢様」
マリアンヌが胸に手を当てた。
「私どもをお疑いになるのですか?」
「疑うわ」
「それは残念です」
「顔が嬉しそうよ」
「気のせいでございます」
その時。
遠くから声が聞こえた。
「お嬢様!」
騎士たちだった。
庭園の向こう、訓練場に三千人の騎士が整列している。
「お嬢様!」
三千人が一斉に敬礼した。
「ご婚約解消、おめでとうございます!」
エレオノーラは目を丸くした。
そして、笑った。
「ありがとう!」
その声を聞いた瞬間。
三千人の騎士が歓声を上げた。
「お嬢様が笑ったぞ!」
「良かった!」
「これで安心だ!」
「次の婚約者は厳選しろ!」
「まず騎士団長が面接しろ!」
「私が!?」
ジークフリードが叫んだ。
「なぜ私が面接官なのだ!」
マリアンヌが当然のように答えた。
「お嬢様を守る者を見極めるためです」
「私が見極める必要はない!」
「では、私が行います」
「お前は相手を初対面で埋めるだろう!」
「失礼ですね。二度目までは様子を見ます」
「一度目から駄目だ!」
ヴィクトルが淡々と口を挟んだ。
「面接官は複数名にした方が、判断の偏りを防げます」
「お前まで参加するのか!」
「当然です。審査項目を作成します」
「何項目ある!」
「現時点で百二十七項目です」
「多すぎる!」
侍女たちは頷いた。
「当然です」
「何でだ!?」
「お嬢様の未来ですから」
侍従たちも頷いた。
「当然ですね」
「お前たちもか!」
エレオノーラは、そんな彼らを見ながら声を上げて笑った。
もう、一人ではなかった。
自分を大切にしてくれる人がいる。
自分の幸せを願ってくれる人がいる。
そして、少しだけ過激すぎる人たちだけれど。
「ねえ、みんな」
エレオノーラが言った。
「はい!」
マリアンヌが即座に答えた。
「何なりと」
ヴィクトルが続ける。
「お申し付けください」
ジークフリードは胸を張った。
「命令があれば、いつでも動く」
「私は幸せよ」
その瞬間。
侍女五人が泣いた。
侍従五人が泣いた。
騎士団長が泣いた。
そして、三千人の騎士たちが一斉に剣を掲げた。
「「「「「お嬢様の幸福に、永遠の忠誠を!」」」」」
その声は、グランディア領の空まで響いた。
こうして、一人の公爵令嬢は最低な婚約者との結婚を免れた。
そして、王国中の貴族たちは一つの教訓を学ぶことになる。
グランディア公爵令嬢を泣かせてはいけない。
なぜなら。
彼女の背後には、過激な侍女が五人。
過保護な侍従が五人。
そして、お嬢様第一主義の騎士団が三千人いるのだから。
――エレオノーラ・フォン・グランディアを不幸にする者は、三千人の騎士を敵に回す。
それは、王国の貴族社会において、もっとも守られるべき暗黙の了解となった。
公爵令嬢エレオノーラシリーズのタグに、公爵令嬢エレオノーラとつけました!
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