第51話 トップクランの朝飯と、ファズのお散歩デビュー
日本中のトップクランが集結したあの大規模な『レイド・フェス』から、数日が経過した。
合成音に依存したメガクラン【Noize】の虚飾を完全に引き剥がし、俺たちの『生音』と極限の連携で変異種ボスを両断したあの夜の配信は、まさに伝説となった。
同接数は最終的に300万人を突破し、SNSの世界トレンド1位を独占。俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』は、名実ともに探索者界の頂点――世界一のトップクランへと上り詰めたのだ。
だが。
世田谷にある8億円のクランハウスの朝は、そんな世間の熱狂をよそに、いつもと変わらない出汁の香りに包まれていた。
「――近藤さん! また大手飲料メーカーからタイアップのオファーよ! 今度はグローバル展開の大型契約! それと、海外の音楽レーベルから音源配信の打診が3件!」
広大なアイランドキッチンに、パジャマ姿のままタブレットとスマホを両手に持った坂本千夏が飛び込んできた。
その目は完全に血走っており、クマができている。あの夜以来、彼女の端末は文字通り鳴り止むことがなく、プロデューサーとしての彼女を休眠から遠ざけていた。
「落ち着いてください、千夏さん。とりあえず温かいお茶でも飲んで。……それにしても、凄い反響ですね」
「凄いに決まってるわよ! 今や私たちは世界で一番注目されてるエンタメ集団なんだから。……でも、安売りはしないわ。私たちの『音』の価値を下げるようなオファーは全部蹴り飛ばしてやるんだから!」
千夏は鼻息を荒くしてタブレットを操作し続けている。
そこへ、二階から他のメンバーたちも次々と降りてきた。
「ふぁぁ……うるさいわよ、千夏。朝から張り切りすぎ……」
「コソボの戦勝パレードの時より騒がしいぜ、お前のスマホの着信音は」
寝癖をつけたままの村上環と、大きな欠伸をするザーナ・ベリシャがダイニングテーブルの椅子に崩れ落ちる。
その後ろからは、いつものように二日酔いの斉藤ナナが「……頭痛い、味噌汁をくれ……」と幽鬼のように這いずり、太田真生とアナスタシアの20歳コンビが目を擦りながらキッチンへ近づいてきた。
最後に、西村実那子が「あー、よく寝たわ」とスッキリした顔で現れ、これで8人のメンバー全員が揃った。
「よし、お前ら。世界一のクランになろうが、朝は腹が減るもんだ。今日の朝飯は特別だぞ」
俺は巨大な土鍋の蓋を開けた。
むわっ、と立ち昇る湯気と共に、芳醇な味噌と豚肉の甘い香りがリビングの隅々まで広がる。
「昨夜の宴会で疲れた内臓を優しくリセットする、『究極の豚汁』だ」
俺が用意した豚汁は、ただ具材を煮込んだものではない。
まず、豚バラ肉をごま油でカリッとするまで炒め、肉の旨味と脂を鍋底に引き出す。そこに、乱切りにした大根、ニンジン、ゴボウ、こんにゃく、そして里芋を投入し、しっかりと油を回す。
出汁は、利尻昆布と厚削りの鰹節で引いた濃厚な一番出汁だ。
「具材が柔らかく煮えたら、味噌を溶き入れる。ここがポイントだ。甘みのある信州味噌と、コクと渋みのある八丁味噌を7対3の黄金比でブレンドしている。複雑で奥深い、まさに『和のセッション』だ」
熱々の豚汁を大きめのお椀にたっぷりと注ぎ、仕上げに刻みネギと、風味豊かな黒七味をパラリと振る。
そして、豚汁の隣には、炊きたてのツヤツヤとした土鍋ご飯で握った『塩結び』だ。
「具は入ってない。手に粗塩をつけて、ふんわりと空気を包むように握っただけの銀シャリだ。豚汁の濃厚な旨味を受け止めるには、これが一番美味い」
「「「いただきます!!」」」
美女たちが一斉に豚汁のお椀を両手で包み込み、ズズッと汁を啜った。
「……ぁぁっ、染みるぅぅ……!」
環が目を閉じて天を仰ぐ。
二日酔いのナナは、言葉すら発せずに震えながらお椀に顔を埋めている。
「ゴボウの香りがすごく立ってるわね。それに、この豚肉の脂とブレンド味噌のコク……毎日フレンチのフルコースを食べるより、こういうご飯の方が何百倍も贅沢に感じるわ」
実那子が塩結びを齧りながら、感嘆の息を漏らした。
真生も「……糖分と塩分。完璧な朝です」と無表情ながらも食べる手が止まらず、アーニャも「おじいちゃんの作る和食、本当にズルい……」と文句を言いつつ豚汁のおかわりを要求してきた。
世界中からのオファーが殺到しようが、俺たちの根っこにある「日常」は何も変わらない。
同じ釜の飯を食い、バカな話をして笑い合う。この温かい土台があるからこそ、俺たちは戦場であれほど狂った音を鳴らせるのだ。
「さて。みんなが揃ったところで、今日は一つ、重大なイベントがある」
俺は自分の分の塩結びを食べ終えると、ポンと手を叩いた。
「午後からの取材の前に、ファズを外に連れ出すぞ」
「外に?」
「ああ。昨日、動物病院で最後のワクチンプログラムが終わったんだ。獣医からも許可が出た。つまり……今日からファズは、抱っこ紐なしで、自分の足で地面を歩けるってことだ」
俺の言葉に、リビングの空気が一瞬止まり、そして爆発した。
「キャアアアアアッ! ついに公園デビューね!!」
「マジじゃん! 可愛い服着せないと! あと動画用のカメラのバッテリー満タンにするよ!」
千夏とアーニャが弾かれたように立ち上がり、歓声を上げた。
環も「私がリード持つわ!」と鼻息を荒くしている。
部屋の隅のクッションで寝ていた生後3ヶ月目前の豆柴・ファズが、突然の騒ぎに「クゥン?」と不思議そうに首を傾げた。
「よし、じゃあ準備するぞ。ファズ、おいで」
俺が手招きすると、ファズはフローリングで爪をシャカシャカと滑らせながら、弾丸のように俺の胸元へ飛び込んできた。
俺は受け止めた小さな毛玉に、買っておいた真新しいハーネスとリードを取り出した。
だが、ここからが第一の難関だった。
「ほら、ファズ。これを着るんだ」
俺がハーネスを被せ、首元にリードの金具を『カチャッ』と取り付けた瞬間。
「……グルルルルルッ!?」
ファズの動きがピタリと止まり、喉の奥から聞いたこともないような低い唸り声を発した。
そして、自分の背中から伸びる未知の紐を振り返って睨みつけると、突然、狂ったように暴れ出したのだ。
「キャンッ! ワフッ! ガウガウガウッ!!」
ファズはその場で高速でスピンし、自分の背中に繋がれたリードに食ってかかろうと必死に首を振った。
ガブッ! とリードの布地を小さな乳歯で噛みしめ、ブルドッグのように「ウゥーッ!」と力強く引っ張る。
だが、当然リードは外れない。
ファズはリードに引っ張られる形になってしまい、勢い余って「ヒヤンッ!」と情けない声を上げてフローリングの上でゴロンとひっくり返ってしまった。
「……っっ! なにあの生き物! リードと戦ってるんだけど!」
「ヤバい尊い! ムリ、心臓止まる……っ!」
千夏とアーニャがスマホを構えながら腹を抱えて悶絶している。
ひっくり返ったファズは、今度はリードから「逃げよう」と決めたらしく、短い四肢をシャカシャカと動かして猛ダッシュを試みた。しかし、フローリングで爪が滑り、その場で空回りを続けている。まるでアニメのキャラクターのようだ。
「こらファズ、落ち着け。敵じゃないぞ」
俺が優しく抱き上げると、ファズは「ハァ、ハァ……」と荒い息を吐きながら、俺の腕の中で『すんっ』と大人しくなった。だが、目はまだ背中のリードを警戒してチラチラと見ている。
「……前途多難ね」
「外の空気を吸えば気分も変わるだろ。行くぞ」
俺、環、千夏、アーニャの4人で、クランハウスから徒歩5分ほどの距離にある、緑豊かな大きな公園へとやってきた。
(ナナとザーナと実那子は「二日酔い」「筋トレ」「発声練習」を理由に、真生は「日光は敵です」と地下の防音室に籠もることを理由に留守番だ)
俺たちは、念入りに変装を施していた。世界トレンド1位となった今の俺たちが無防備に外を歩けば、瞬く間にマスコミとファンに包囲されてしまうからだ。
環は目深に被ったバケットハットと大きめの伊達メガネ、千夏とアーニャもキャップとマスクで顔の半分以上を隠している。俺も千夏に選んでもらったサングラスをかけ、なるべくオーラを消して歩いた。
その甲斐あってか、すれ違う一般人たちは誰も俺たちの正体に気づかず、ただ足元の小さな豆柴に「可愛い」と微笑むだけだった。
公園の入り口に到着し、俺はファズをそっとアスファルトの地面に下ろした。
ファズにとっては、抱っこ紐越しに見たことはあっても、自分の肉球で直接触れる初めての「外の世界」の地面だ。
「……クゥン」
ファズは地面に足がついた瞬間、腰を低く落とした「へっぴり腰」の体勢になり、一歩も動かなくなってしまった。
短い尻尾は完全に後ろ足の間に巻き込まれている。
「怖がってるわね。ほらファズ、おいで」
リードを持った環が少し前方に立ち、しゃがみ込んで優しく呼ぶ。
ファズは俺の靴の甲に前足を乗せ、ブルブルと震えながら環の方を見つめた。
助けを求めるような、つぶらな黒い瞳。
「大丈夫だ、ファズ。怖くないぞ。……ほら、あっちに芝生がある」
俺が少しだけ背中を押してやると、ファズは恐る恐る、本当に1センチずつ前足を前に出し始めた。
ペタッ、ペタッ、と肉球がアスファルトを叩く。
そして、公園の広大な芝生エリアへと足を踏み入れた瞬間だった。
「フンスッ、フンスンッ!」
ファズは足元の青々とした芝生に鼻先を突っ込み、狂ったように匂いを嗅ぎ始めた。
アスファルトとは違う、土と草の柔らかい感触。風に乗って運ばれてくる、数え切れないほどの未知の匂い。
ファズの短い尻尾が、ピーンと上を向いた。
「ワフッ!!」
ファズが短く吠えた。
恐怖が、好奇心と野生の興奮に完全に上書きされた瞬間だった。
彼は足裏で土を蹴り、弾かれたように芝生の上を爆走し始めた。
「ちょ、ちょっとファズ! 速い速い!」
リードを持っていた環が、慌てて後を追う。
ファズの走りは、ウサギが跳ねるようなピョンピョンとした独特のダッシュだ。
公園の隅に積まれていた落ち葉の山を見つけると、一切の躊躇なくそこへダイブした。
カサカサッ! と音を立てて落ち葉に潜り込み、数秒後に顔を出した時には、鼻先から耳まで葉っぱだらけになっていた。
「あはははっ! 何あの顔! 完全に森の妖精じゃん!」
アーニャが動画を撮りながら大爆笑している。
俺も千夏も、その無邪気すぎる姿に腹を抱えて笑った。
「ワンッ! ワンワンッ!!」
ファズは落ち葉の中から飛び出し、今度は俺たちに向かって「追いかけてこい!」とばかりに吠えながら走り回る。
あの最強の剣姫である環が、小さな豆柴に引っ張られて右往左往している図は、なんとも平和で滑稽だった。
――だが、その平和な公園デビューに、最大の試練が訪れた。
「ハッ、ハッ、ハッ」
向こうの方から、優雅な足取りで近づいてくる巨大な影があった。
散歩中の、立派なゴールデン・レトリバーだ。ファズの何十倍もある巨体。
「グルルルルッ……!」
ファズはピタリと足を止め、その巨体に向かって背中の毛を逆立てた。
自分のテリトリーに侵入者が現れたとでも思ったのだろう。番犬としての本能が目覚めたのか、ファズはゴールデン・レトリバーに向かって果敢に吠えかかった。
「ワァァァンッ!! ガウガウッ!!」
細い声で必死に虚勢を張るファズ。
しかし、大人のゴールデン・レトリバーはそんな子犬の威嚇などどこ吹く風で、優しげな顔をして「なんだろう?」というようにゆっくりと近づいてきた。
「ウォッフ」
ゴールデンが、フレンドリーに一鳴きした。
その低くて太い鳴き声を聞いた瞬間。
「……ヒャンッ!?」
ファズの番犬のプライドは、コンマ1秒で粉々に砕け散った。
彼はパニックを起こし、猛ダッシュでUターンすると、俺の足元に転がり込み、コロンと仰向けになって見事な『死んだふり』を決めたのだ。
目をギュッとつむり、短い四肢を硬直させてピクリとも動かない。野生の尊厳を完全に投げ捨てた、見事なサバイバル術だった。
「……っっ!」
「ダメ……お腹痛い……っ! 強がってたのに、死んだふりでやり過ごそうとしてる……っ!」
千夏とアーニャが涙を流して笑い崩れる。
大型犬の飼い主のおじいさんも、「はっはっは、元気な子犬ちゃんですねぇ」と好々爺の笑顔で通り過ぎていった。俺たちの変装のおかげで、彼が世界一のクランに話しかけているとは微塵も思っていないようだ。
リードを持っていた環も、膝から崩れ落ちて肩を震わせている。
「ほらファズ、もう向こうのワンちゃんは行っちゃったぞ」
俺が足元で硬直している毛玉を抱き上げると、ファズは恐る恐る片目を開け、「……くぅん」と情けない声を出して俺のジャケットの胸元に顔を埋めた。
その心臓は、さっきまでの爆走とは違う意味で早鐘を打っていた。
「よしよし。初めてのお散歩にしては、よく頑張ったな」
俺はファズの背中についた落ち葉と泥を払い落としながら、優しく撫でた。
1時間後。
俺たちはクランハウスに帰還した。
ファズの足先とお腹は、芝生の泥と土ですっかり真っ黒になっていた。
「さあ、ファズ。お風呂の時間だぞ」
俺は洗面所のシャワーを適温に調整し、泥だらけのファズの足を丁寧に洗っていく。
ファズはシャワーの音に少し驚いていたが、温かいお湯が気持ちいいのか、やがて目を細めて大人しく身を任せてきた。
リビングからは、午後からの取材に向けた千夏の張り切った声と、留守番組のナナやザーナたちの賑やかなやり取りが聞こえてくる。
俺はシャンプーの泡を流しながら、ふと息を吐いた。
世界トレンド1位。トップクラン。
取り巻く環境は激変し、外の世界は俺たちに熱狂している。
だが、俺たちの『音』の土台は、決してブレることはない。
美味い飯を作り、仲間と笑い、この小さな命の温もりを守る。そういう当たり前で泥臭い日常の積み重ねこそが、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の最強のグルーヴを生み出す源泉なのだ。
「……さて。綺麗になったな、ファズ。ご褒美のササミを食うか」
「ワンッ!」
洗い立てでフワフワになったファズをタオルで拭きながら、俺はリビングへと歩き出した。
俺の第2の青春は、トップクランとしての新たなプレッシャーと、さらに広がる未知の世界を巻き込んで、新たな日常の幕を開けようとしていた。




