第49話 ラスト・ボス:絶望の巨神
主たちが地下深くの死線に立っている間、世田谷のクランハウスは、どこまでも穏やかな夜の帳に包まれていた。
広大なリビングの照明は落とされ、防犯用の薄暗いフットライトだけが点灯している。
その床暖房が効いた温かいフローリングの隅で、豆柴のファズが、俺が数日前の合宿に出発する前に脱ぎ捨てていったヨレヨレのバンドTシャツの山に埋もれてスヤスヤと眠っていた。
丸まった姿勢から不意に身をよじり、寝ぼけ眼のまま、自分の鼻先をヒクヒクとさせている。夢の中で何か動くものを追いかけているのか、短い尻尾をパタパタと振りながら、ぐるぐるとその場で小さな円を描くように寝返りを打った。やがて自分の尻尾に前足が触れると、捕まえた獲物だと勘違いしたのか、安心したように『ふぅ』と小さく鼻息を漏らし、再びTシャツの匂いに包まれて深い眠りへと落ちていく。
その体から発せられるミルクのような甘い匂いと、純度100パーセントの愛くるしさ。
もしこの場に千夏さんやアーニャがいれば、間違いなく悲鳴を上げて連写モードのシャッターを切っていたことだろう。
どんなに過酷な戦場にいようとも、俺たちには帰るべき温かい日常がある。
この小さな命の鼓動が、俺たちの背中を押す何よりのバフとなっていた。
――そして、現在。
新宿第3迷宮・第30階層の最深部。
重々しい地鳴りと共に開かれた巨大な水晶の扉の奥から、俺たちの日常とは対極にある、純粋な『絶望』が姿を現した。
「ギョォォォォォォォォォォッ!!!」
空気を物理的に引き裂くような、悍ましい咆哮がドーム状の空間に轟いた。
ギルドの事前情報では、ターゲットは大型の魔導ゴーレム系の変異種とされていた。
だが、扉の奥から這い出してきたそれは、ゴーレムなどという生易しいものではなかった。
漆黒の粘液のような肉体に、無数の魔物の残骸がグロテスクに融合し、さらに背中からは禍々しい紫色の魔力で形成された巨大な六枚の翼が蠢いている。
『混沌の巨神』。
誰かがそう名付けたわけではないが、その姿を見た瞬間、脳内にその悍ましい概念が直接刻み込まれるようだった。
全身から立ち昇るどす黒い瘴気は、息を吸うだけで肺が焼け焦げるほどの高濃度だ。
「……なんだ、これは……」
俺たちの後方に陣取っていた、【Noize】のマネージャー・木崎が、腰を抜かして後ずさった。
彼の眼鏡が恐怖でズレ落ちている。
メガクラン【Noize】の主力部隊数十人は、誰一人として武器を構えることができていなかった。
「話が違うじゃないか! あんなバグみたいな化け物、ギルドのデータには載ってなかったぞ!」
【Noize】のリーダー・レイが、肩に担いでいたマイクスタンド型の杖を取り落とし、悲鳴のような声を上げた。
彼の整った顔は恐怖で完全に歪み、青ざめている。
後方で浮遊していた魔力コンソールを操る音響班も、操作を止めてガタガタと震えていた。
無理もない。彼らは現場で生の音を鳴らさず、後から安全な編集室で合成音を乗せるスタイルを貫いてきた。つまり、極限状態において自分たちの魂を奮い立たせ、恐怖を麻痺させる「本当の音楽」の力を持っていないのだ。
ハリボテの心では、この純粋な死の威圧感に耐えられるはずがなかった。
「て、撤退だ! こんなの勝てるわけがない! 機材なんて置いて逃げろ!」
レイは無様に踵を返し、来た通路へ向かって一目散に駆け出した。
リーダーの逃亡を合図に、数十人の精鋭部隊たちが我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
彼らが残していった高価なドローンやコンソールだけが、虚しく宙に浮いていた。
「……最後まで、救いようのないダサい男ね」
西村実那子が、逃げ惑う元相棒の後ろ姿を冷たい目で見送り、鼻で笑った。
「同感だ。足手まといが消えて清々したな」
俺はベースのネックを強く握りしめ、ミキサーのフェーダーに指をかけた。
メガクランは逃げた。
つまり、この場に残っているのは、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の8名だけだ。
100万人の視聴者が見守る配信のカメラの前で、俺たちは一歩も引くことなく、巨神と対峙していた。
「来るわよ! 全員、迎撃態勢!」
坂本千夏がドローンを再配置し、二丁魔銃を構えながら叫ぶ。
巨神が六枚の魔力翼を羽ばたかせ、一瞬で俺たちとの距離を詰めてきた。
巨体に見合わない、常識外れのスピード。
城壁の柱のように太く禍々しい漆黒の右腕が、最前線に立つザーナ・ベリシャに向かって振り下ろされる。
「ハッ! 逃げた連中の分まで、特等席で楽しませてもらうぜ!」
ザーナが巨大なタワーシールド『アイギス・ウーファー』を斜めに構え、衝撃を受け流そうとする。
だが。
ズガガガガァァァンッ!!!
「……ぐあっ!?」
ザーナの巨体が、後方へ十メートル以上も弾き飛ばされた。
受け流しの技術すら無効化する、圧倒的な純粋質量。地面に深い溝を刻みながら、ザーナはなんとか片膝をついて踏み止まったが、その大盾の表面には、今まで見たこともないような深い亀裂が走っていた。
「ザーナ!」
「大丈夫だ……っ! だが、重すぎる! パリィが機能しない!」
ザーナが血を吐き捨てるように叫ぶ。
そこへ、巨神の左腕から紫色の魔力弾がマシンガンのように連射された。
「させないわ!」
斉藤ナナが鉄扇を開き、優雅に、しかし必死の形相でステップを踏む。
【音響結界】が展開されるが、魔力弾が着弾するたびに、結界がガラスのようにピキピキとひび割れていく。
「くっ……瘴気が濃すぎて、私の浄化が追いつかないぞ!」
ナナの顔に疲労の色が浮かぶ。
俺はミキサーのイコライザーをいじり、変拍子のプログレッシブ・メタルへと曲調をシフトさせた。
複雑なリズムと、極限まで重く歪ませたベースラインで、空間を支配する瘴気の波長を無理やり乱し、ナナの結界を底上げする。
「アーニャちゃん、合わせなさい! 遠距離から削るわよ!」
「了解、千夏さん! 私の極低音、喰らいな!」
アーニャがホログラムコンソールを叩き、上空から極大の氷塊を巨神の頭上へ落下させる。
同時に、千夏の魔弾が巨神の関節部を的確に狙い撃つ。
物理と魔法の複合飽和攻撃。並のボスならこれだけで消し飛んでいるはずだ。
だが、氷塊と魔弾が着弾する直前。
巨神の周囲に、黒曜石のような多面体の魔力障壁が展開された。
ガキンッ! パキィィィン!
「嘘でしょ……私のドロップが、傷一つ付けられないなんて!」
アーニャが愕然と目を見開く。
千夏の跳弾射撃も、障壁に完全に弾かれ、虚しく虚空へ消えていく。
巨神は無傷のまま、鬱陶しい羽虫を払うように六枚の翼を震わせた。
そこから放たれた無数の魔力の羽根が、誘導ミサイルのように俺たちへ降り注ぐ。
「――Listen to my soul!!」
実那子がマイクスタンドを握りしめ、渾身の【ソウル・シャウト】を放った。
物理的な魔力波の塊が、降り注ぐ羽根の雨を空中で迎撃し、相殺していく。
だが、迎撃しきれなかった数発が地面を抉り、爆風がメンバーを吹き飛ばす。
「きゃあっ!」
「ぐぅっ!」
千夏とアーニャが地面を転がる。
後方でサポートしていた太田真生も、爆音と衝撃に顔を歪めてしゃがみ込んだ。
「……店長。敵の魔力波形がメチャクチャです。弱点が、一秒ごとに激しく変動しています。私の指パッチンじゃ、捉えきれません……っ」
真生が青ざめた顔で報告してくる。
圧倒的な暴力。理不尽なまでのステータス差。
これまでの俺たちの連携が、根底から否定されていくような感覚。
「まだよ!」
その絶望的な状況の中、村上環が立ち上がった。
だが、彼女の瞳に焦りはない。かつてのようにリズムを無視して単独で突っ込むような愚かな真似はしない。彼女は仲間を、そして俺の音を完全に信頼していた。
「千夏! アーニャ! 視界を奪って!」
「了解よ!」
「任せて!」
千夏の閃光弾とアーニャの氷結の粉塵が巨神の視界を覆う。その隙に、ナナの【浄化の舞】が環の足元に黄金のバフの道を敷いた。
俺は変拍子のビートをコントロールし、彼女の踏み込みに完璧に同期するクレッシェンドを作り上げる。
神速のステップ。すべての連携を背負い、環は巨神の懐へ潜り込んだ。
「ハァァァァッ!!」
赤い閃光が、巨神の魔力障壁のわずかな死角を正確に切り裂き、その漆黒の肉体に深く剣を沈めた。
完璧な連携が生み出した、必殺の一撃。
だが。
「……なっ!?」
斬り裂かれたはずの肉体が、まるで意思を持つスライムのようにドロリと蠢き、環の剣を抜き放つよりも速く、一瞬で傷口を塞ぎ始めた。
ただの超速再生ではない。その傷口そのものが巨大な顎のように変形し、環の大剣をギリギリと噛み砕こうとしたのだ。
「剣が……抜けない!」
環が体勢を立て直そうとした瞬間、巨神の背中から無数に枝分かれした紫色の翼が、鞭のようにしなり、彼女の無防備な横腹を凄まじい質量で打ち据えた。
「がはっ……!」
環の口からおびただしい量の鮮血が吐き出され、大剣『紅姫』が悲鳴を上げて軋む。彼女の細い体はボールのように吹き飛び、後方の石壁に激しく叩きつけられた。
「環さん!!」
「ボス!!」
俺と千夏が同時に叫ぶ。
ナナが即座に回復魔法を飛ばすが、巨神の放つ瘴気が回復の光を侵食し、本来の効果の半分も発揮されない。
徐々に、確実に、俺たちのパーティが削られていく。
ザーナの盾は限界が近く、ナナの魔力も底が見え始めている。
千夏とアーニャの攻撃は通らず、実那子も防戦一方で喉を酷使している。
そして、最大火力の環すらも、立ち上がることができない。
「ギョォォォォォォォォォォッ!!!」
巨神が、勝利を確信したような咆哮を上げる。
その背中の紫色の翼がさらに巨大化し、部屋中の魔力を吸い上げて、一撃必殺のチャージを開始した。
次に放たれる攻撃は、間違いなく俺たち全員を跡形もなく消し飛ばすだろう。
「……店長。このままじゃ、全滅します」
真生が、震える声で呟いた。
タブレットの配信画面では、100万人の視聴者たちが『逃げろ!』『全滅するぞ!』『Sランクでも無理だ!』と絶望のコメントを滝のように流している。
俺はベースの弦を弾きながら、絶望的な戦況を俯瞰していた。
確かに、普通にやれば全滅だ。
俺の【音響共鳴】のバフでステータスを底上げしても、この理不尽なまでの基礎能力の差と自己再生能力を突破することは不可能に近い。
(……だが、こんなところで終わるわけにはいかない)
俺は奥歯を強く噛み締めた。
俺たちは、あんなダサい逃げ方をした元相棒に、本物の音を見せつけると宣言したのだ。
それに何より、家に帰れば、小さな家族が俺たちの帰りを待っている。
俺は手元のミキサーのイコライザーを、一旦全てフラットに戻した。
そして、エフェクターのスイッチをすべてオフにし、ベースのボリュームを限界まで引き上げた。
「……みんな、聞け」
俺はマイクを通さず、地声で叫んだ。
その声は、巨神の魔力チャージの轟音の中でも、不思議とメンバー全員の耳に届いた。
「環、ザーナ、千夏さん、ナナさん、実那子、アーニャ、真生」
満身創痍の彼女たちが、一斉に俺を見る。
「まだだ。俺たちの曲は、まだ終わってない」
俺はベースのネックを強く握りしめ、口角を上げてニヤリと笑ってみせた。
「今のバラバラな音じゃ、あいつの装甲は破れない。……なら、全部の音を一つに束ねて、あいつの再生速度を超える一撃を叩き込むだけだ」
「全部の音を、一つに……?」
環が痛みを堪えながら、大剣を杖にしてゆっくりと立ち上がる。
「ああ。次で決めるぞ。お前らの命と魂、全部俺に預けろ。……俺たちの、最高のアンセムを鳴らす」
俺の言葉に、絶望に沈みかけていた彼女たちの瞳に、再び強烈な光が宿った。
巨神の極大魔法のチャージが完了しようとしている。
タイムリミットは、あとわずか数秒。
俺は深く息を吸い込み、世界で一番イカれたメンバーたちとの、最後のセッションへのカウントダウンを刻み始めた。




