1-6 クリフハウルの朝
翌朝。
太郎は魔石ランプの淡い光の中でゆっくりと目を覚ました。
疲れが取れたような取れないような、不思議な重さが残る。
寝返りを打つと、頭に変な感触があった。
(ついてるな……やっぱり)
慎重に手を伸ばし、頭の上の角カチューシャを指先でつまむ。
昨日と同じように、そっと力をかけてみる。
びくともしない。
(本当に外れないのか……?)
髪に絡まっているわけでも、汗で張り付いているわけでもない。
むしろ頭そのものに吸い付いているような感覚で、違和感の正体はそこにあった。
もう少し力を入れようとした瞬間、
昨日ミラたちが言っていた言葉を思い出した。
「角は誓いと出自の象徴」
「折れれば深刻な問題」
「粗末に扱うのは禁忌」
太郎は動きを止める。
(これ……もし壊れたら、俺どうなるんだ)
本当はハロウィンの安物なのに、
この世界では身分を守る唯一の盾だ。
(壊れたら……命に関わるってことも、あり得るよな)
自分にとっては軽い飾りでも、
魔族にとっては重大な意味を持つ“角”。
太郎は唇を引き結び、手を離した。
(触らないほうがいい。この角が、今の俺の生命線だ)
軽く頭を押さえてから、気持ちを整えて部屋を出た。
外に出ると、もう本部内は騒然としていた。
「巡回ルートはどうなってる」
「知りません。昨日の担当が辞めたので」
「辞めた? いつだ」
「夜明け前です」
太郎は思わず立ち止まる。
(三日連続夜勤だったって聞こえたな……
完全にブラックの音がする)
別の場所では若い魔族が角を押さえて呻いていた。
「またぶつけた……」
「昨日もだろ」
「通路が狭くて……」
(角をぶつけるって本当にあるんだ……)
さらに遠くからは疲れ切った声。
「今日も休憩なしか……」
「戦況によるって言われた」
「新人、もう来ないぞ」
太郎は胃が重くなる。
(新人が定着しない……どこでも同じ問題が起きるんだな)
太郎は歩きながら、嫌でも現世の会社を思い出していた。
昔は怒号の飛び交う職場だった。
休憩は取れず、引き継ぎも曖昧で、誰かが突然辞めることも珍しくなかった。
時代の流れと世論に押され、徐々に改善されていったけれど、それはそれで別の問題が生まれた。
(ブラック時代を知る中堅と、改善後しか知らない若手の価値観がぶつかるようになったんだよな)
若手はハラスメントに極端に敏感で、
中堅は理不尽に耐えた経験から、柔らかい指導を得意としない。
(俺はどっちの気持ちも分かってしまう立場で……
教育が難しかった)
太郎が係長として悩んでいた日々が、ふいに蘇る。
「太郎さん。おはようございます」
「あ、おはようございます」
ミラは変わらず落ち着いていた。その姿が混乱する廊下で逆に目立つ。
「本日は、本部の日常をご覧いただこうと思います。
柔角族の方には状況の把握が重要だとされているので」
(状況把握……俺にできるのか……)
会議室の前に着くと、複数の魔族が言い争っていた。
「昨日の報告がないんだ」
「すみません。書き方を教わってなくて……」
「教わっていないなら聞くだろう」
「誰に聞けばいいのかも分からなくて……」
太郎は息を飲む。
(報告書の形式が不在、担当の引き継ぎが曖昧、
手順書もない……組織として危険な形だ)
ミラが小さく説明する。
「最近は退職者や負傷も多くて、どうしても混乱が出てしまいます。
仕組みを整える時間が取れなくて」
(仕組みが追いつかないと、現場の人間が摩耗する。
本当に、現世の初期の頃と同じだ)
「お、太郎。来てたか」
警備隊長ラグナが豪快に笑いながら近づいてくる。
「ここを見ると、魔族本部がどれだけ大変か分かるだろう。
柔角族なら、この程度の混乱には動じないはずだ」
「あ、えっと……」
太郎が曖昧に笑った瞬間、角が小さく揺れた。
「ほら、揺れ方が落ち着いている。柔角族の反応だ」
(いやただ動いただけなんだけど……)
(この状況、見ているだけで胃が痛くなるな……
ここで働いている魔族たち、かなり限界だろう)
太郎は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
(俺は柔角族なんかじゃないし、魔法も使えない。
でも……この混乱を放っておくのも、なんか……苦しいな)
まだ行動するつもりはない。
だが胸の奥に、不思議なざわつきが残っていた。




