5-11 線を言葉にする
砦の夜は、少しずつ静かになっていった。
うめき声も、怒鳴り声も減り、代わりに時おり聞こえるのは、見回りの足音と焚き火のはぜる音だけだ。
太郎は、焚き火から少し離れた場所に腰を下ろし、帳面を膝に広げていた。
土の上には、さっきイルスと一緒に描いた前哨地の簡易図が、まだかすかに残っている。
帳面の一行目に、太郎はゆっくりとペン先を走らせた。
――前に出る役と、下がる役を混ぜない。
次の行。
――「どこまで前に出るか」と同時に、「どこまで下がっていいか」を決める。
さらに、その下に短く書き足す。
――疲れていても思い出せる数にする。
言葉を選びながら、何度も書き直した跡が、紙ににじんでいく。
足音が近づく気配がして、太郎は顔を上げた。
「まだ起きてたんですね」
イルスだった。
鎧の代わりに薄い上着を羽織っているが、歩き方にはまだ戦闘の疲れが残っている。
「寝つけなくてな。そっちは?」
「同じです。……何を書いてるんですか?」
イルスが隣にしゃがみ込み、帳面を覗き込む。
太郎は少し迷ってから、帳面を彼のほうへ向けた。
「今日の線を、明日使える形にしておこうと思って」
イルスの視線が、短い文を追っていく。
「……“混ぜない”“決めておく”“思い出せる数”」
「難しい話をしても、どうせ覚えられないからな。
せいぜい三つか四つ。戦いの前に聞いて、そのまま頭に残るくらいでちょうどいい」
イルスは、うなずいた。
「じゃあ、今のがその三つですか?」
「いや、これは“考え方”のほうだ」
太郎は帳面の下半分を指で軽く叩いた。
「ここから、“現場で何をするか”に変えていく」
彼は新しく行を開き、ペンを走らせる。
――一番前の者は、必ず“下がる合図役”を決めてから出る。
――退くとき、合図役が声を上げるまでは、勝手に走らない。
――誰かが倒れたら、“助ける役”と“前を押さえる役”を、その場で分ける。
書きながら、太郎は少しだけペンを止めた。
「……全部守らせるのは、たぶん無理だ」
「無理、ですか」
「状況がぐちゃぐちゃになったら、決め事なんかすぐ飛ぶ。
だから、“一個だけでも頭に残ってればマシ”ってくらいが限界だと思う」
イルスは静かに息を吐いた。
「それでも、何もないよりは、ずっといいです」
そのとき、砦の入口のほうから、重い足音が近づいてきた。
振り向くと、ガルドがこちらへ歩いてくるところだった。
「まだ起きていたか」
焚き火の明かりが、ガルドの顔の疲れを浮かび上がらせる。
それでも、その目は冴えていた。
「明日の準備を少し」
太郎が帳面を軽く持ち上げると、ガルドが顎で合図した。
「見せろ」
太郎は立ち上がり、そっと帳面を差し出す。
ガルドは受け取ると、しばらく無言で文字を追った。
――前に出る役と、下がる役を混ぜない。
――「どこまで前に出るか」と同時に、「どこまで下がっていいか」を決める。
――疲れていても思い出せる数にする。
そして、その下の短い実行項目へと視線を移す。
しばらくして、帳面を閉じた。
「……長くないのが、いいな」
ぽつりと、それだけ言う。
「戦場で長い話は聞けませんから」
「聞けん。覚えもせん」
ガルドはわずかに口元を緩めた。
「明朝の点呼前に、時間を取る。
新しく補充された連中と、前線経験の浅い者を集める。そこでこれを話せ」
「俺がですか」
口に出した自分の声が、少し上ずって聞こえた。
「お前が考えた線だ。
俺が代わりに話したら、意味が抜け落ちる」
ガルドの言葉は淡々としている。
そこにおだてるような色はなかったが、その分だけ重みがあった。
「……どのくらい時間がもらえます?」
「五分だ」
「短いですね」
「それ以上は取れん。その五分で、生き残るやつが何人か変わるなら、安いものだ」
ガルドの視線が、太郎の目をとらえた。
「柔角族。お前に頼んでいるのは、戦い方じゃない」
「分かっています。
“生き残り方”ですよね」
太郎がそう返すと、ガルドは小さくうなずいた。
「そうだ。俺は前を押さえる。
お前は、“下がる線”を教えろ」
それだけ告げると、帳面を太郎へ返し、踵を返した。
背中が暗がりに消えていくまで、太郎はしばらくその場に立ち尽くす。
「……本当に、やることになりましたね」
隣でイルスが、少しだけ笑った。
緊張と、どこか安堵が混じった声音だった。
「逃げ道、なくなったな」
「最初から、なかったと思いますけど」
太郎も、釣られるように笑う。
帳面を開き、最後の行に一文だけ書き足した。
――明日の朝、自分もこの線を守る。
ペン先が止まる。
その言葉を書いた瞬間、ようやく腹の底にひとつ重心が落ち着いた気がした。
頭の上で、角がわずかに揺れた。
焚き火の熱で揺らいだ空気のせいかもしれない。
太郎は帳面を閉じた。
「よし。五分で終わる話を考えないとな」
小さくそう呟き、焚き火のほうへ歩いていった。
夜はまだ深いが、明日の朝は、もうすぐそこまで来ている。




