5-10 焚き火そばで
その夜、前哨地近くの小さな砦に戻った頃には、空はすっかり暗くなっていた。
外では負傷者のうめき声と、治療班の短い指示が飛び交っている。砦の内側は、焚き火の光だけが壁を赤く染めていた。
太郎は荷車から最後の木箱を下ろし、帳面に印をつける。
「前線宛て、矢束あと三箱……薬草は、これで全部か」
指先がかすかに震えている。戦闘の緊張が、まだ抜けていない。
焚き火の向こうで、第一小隊の隊員たちが鎧を外しながら低い声で話していた。
「また新人が吐いてたな」
「今日のあれで済んだなら、まだマシだ」
「明日も同じように持つと思うなよ」
冗談めかした調子の中に、どこか「慣れた諦め」が混じっている。
(……これ、職場で聞いた会話と同じだな)
現世で、夜遅くの休憩室で聞いた愚痴と似ていた。
ただ、ここでは「明日」が本当に命に関わる。
イルスが湯気の立つ木椀を二つ持って近づいてきた。
「太郎さん、これ。薄いスープですけど……」
「あ、ありがとう。助かる」
受け取った椀から、肉と野菜の匂いが立ち上る。味は薄いけれど、胃に落ちていく温かさだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「……今日の引き方、すごかったです」
イルスがぽつりと言った。
「すごかったって、荷車押してただけだぞ」
「いえ。反撃の合図を聞いてから、退く列が崩れなかったの、初めて見ました。いつもは、誰かが勝手に走って、誰かが取り残されるんです」
イルスは焚き火を見つめたまま、言葉を続ける。
「今日も怖かったですけど……“ここまで下がればいい”って線が、少しだけ見えた気がして」
その言い方が、太郎の胸に引っかかった。
(線、か)
太郎は足元の土に、指でざらりと線を引いた。
「イルスさん」
「はい?」
「さっきの場所をざっくり描くと、こんな感じでしたよね」
土の上に、森の縁と前哨地の広場、そこに陣形の円を描いていく。荷車の位置と、太郎たちが下がったラインも、簡単に印をつける。
「ここが前線。ここが荷車。で、このあたりが“退き始める地点”」
イルスは興味深そうにかがみ込んだ。
「……こうして見ると、分かりやすいですね」
「現場に出る前に、こういうの……見せてもらったこと、あります?」
「ありません」
即答だった。
「出撃前に、軽く号令がかかるくらいで。どこまで行くかと、どっちから回るかくらいは聞きますけど……“どこまで下がっていいか”は、教わったことないです」
(やっぱり、そうか)
太郎は、土の上にもう一本、線を引いた。
「じゃあ……仮にですけど。明日も同じ場所で戦うとして」
前線の少し後ろに、半円を描く。
「ここから先は“絶対に無理しないライン”って決めるのは、どうですかね」
「絶対に、ですか」
「はい。ここを超えて踏ん張るのは、隊長と、選ばれた人だけ。それ以外は、ここまでで限界。それを、先に全員で共有しておく」
イルスはしばらく土の図を見ていた。
「……それだけで、変わりますか」
「全部は変わらなくても。“どこまで頑張ればいいか分からない”よりは、少しマシになるはずです」
現世の現場でも、同じような話をしたことがある。
残業の上限、任される仕事の範囲、責任の線引き。
それだけで、潰れずに済む人間は何人もいた。
「本当は、もう一段階手前に、練習とか説明とか欲しいんですけどね。いきなりぶっつけ本番だと、そりゃ新人はパニックになりますよ」
「練習……」
イルスはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
「最初から戦場じゃなくて、“戦場ごっこ”みたいな場所、あればいいんですけどね」
「そんな場所、作れるんでしょうか」
「作らないと、たぶんこのままです」
太郎は図の横に、小さく丸と線を描き足した。
人形のような簡単な記号で「新人」「先輩」「退く方向」を示す。
「俺、現世では新人教育も少しやってたんですよ。そのとき一番きつかったのが、“教える側も教わってない”って状態で」
「教える側も……?」
「“ちゃんと教えてもらえなかった人”が、そのまま“ちゃんと教えられない先輩”になるんです」
イルスの表情が、ほんの少しだけ曇る。
「……心当たりがあります」
「だから、どこかで、誰かが止めないといけない。どこまで戦えばいいのか。どこまで下がっていいのか。どうやって生きて帰るのか。それを最初に教える人を、ちゃんと決めないと」
ちょうどそのとき、足音が近づいてきた。
「何の図だ」
ガルドだった。鎧は外しているが、肩の動きはまだ固い。
「今日の前哨地の簡易図です」
太郎は立ち上がりながら答えた。
「どこまで出て、どこまで下がるか。それを最初に決めて、全員で共有できないかと思って」
ガルドは土の上の線をしばらく眺めた。
焚き火の光が横顔を照らす。額の古傷が赤く浮かび上がった。
「……退き方を教えるってことか」
「はい。できれば、退く前に“教える場所”も作りたいですけど」
「戦場に出る前に、戦い方を教える時間なんて、今はない」
ガルドの声は短かったが、否定だけで終わらなかった。
「だが――」
彼は、土に描かれた“下がるライン”を指先でなぞった。
「ここの線を、もう少し前に出せるなら。死ぬやつは、減るかもしれん」
太郎は息を呑んだ。
「前に、ですか」
「退く場所が“ここまで”だと分かっていれば、危ない場面で、もう半歩だけ踏ん張れるやつもいる」
ガルドは淡々と続ける。
「それでも無理なやつは、最初から後方だ。前に出すべきじゃない」
「……選別も、必要ってことですね」
「現場を守るならな」
ガルドはそう言って、太郎を見た。
「お前は、線を引くのが得意そうだ」
「線、ですか」
「第二小隊でも、そうだったんだろう。誰がどこに立つか、何を持って動くか。それを整理して、動かしやすくする」
ガルドの視線は真っ直ぐだった。
「“退く線”と“前に出していいやつ”の線。考えてみろ」
言い終えると、彼は踵を返した。
すれ違いざま、イルスが小さく頭を下げる。
ガルドの背中が暗がりに消えたあと、焚き火のはぜる音だけが残った。
「太郎さん」
イルスが、少しだけ笑った。
「さっきの“戦場ごっこ”、本当にできたらいいですね」
「名前からして怒られそうですけどね」
太郎も苦笑する。
「でも、“何も知らないまま出す”よりは、怒られながら準備したほうが、まだマシですよ」
土の上の簡単な図を見下ろす。
前線の丸。退く線。その少し外側、自分が荷車を構えた場所。
(俺は、魔族の側に立ってる。けど――本当は、どっちの味方なんだろうな)
答えは出ない。
ただ、目の前で死にかけている奴らがいる。それをどうにかしたいと思っている自分がいる。
頭の上で、角がかすかに揺れた。焚き火の熱で、空気が揺らいだせいかもしれない。
太郎は土に描いた線を、もう一度なぞった。
「……まずは、ここからだな」
小さくつぶやいて、帳面を開いた。




