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敬神

 そして、時代が下るほど、現代人は現代人になる。

 尊敬に値する実在する他者は減って、尊敬する人物像は完全な空想に近づいていく。


 だから人は、宗教的になるしかない。

 死んでしまった兄や姉に祈るかのように。

 彼らの美しさを、神という概念に収束して、誠を捧げる。


 だって、世間にあふれる世俗的な価値観と、自分の価値観はもう遠く隔たっているもの。

 世俗にあるのは、優れたものほど栄えるという、完全に狂った価値観だけ。

 客観的に正しいのは、身を切って損を引き受けることが正義のむしろ基本的な性質だという、死と正義への崇拝。

 歴史という、畏怖すべき才能の海。

 大地という、地平線までつづく戦死者の絨毯。


 書店には、人生における考え方に助言するような本が多く売られている。

 俗なものとしては、どういう考え方をすれば人生が成功するかとか。

 ましなものとしては、どういう考え方をすれば幸せに生きられるとか。

 それらは様々に妥当で貴いが、自分の立場から見ると、自分の幸せを追求する考え方は、すでに完全に間違っている。

 家族や友人の幸せを追求することすら、完全に間違っている。

 正義に関する真理とは、それを反転したところにある。


 正しいことをすれば損をする、という選択に立たされる事態はある。

 ひどい場合には、一つ正しいことをすることで人生が破滅したり、文字通り死ぬ。

 ゆえに、正義を行うことは、原則として、深い恐怖とともにある。

 奈落のように深い恐怖と。

 利己的に生きる俗物の人生など、それに比べれば、わずかなくぼみを避けて歩いているようなものだ。

 自分の幸せを犠牲にすることは、それがわずかであってすらとても恐い。同様に、家族を犠牲にすることも、友人を犠牲にすることも恐い。

 あるいは正義とは、祖国や人類すら犠牲に捧げろと言いかねないものなのだ。

 自分だけかわいい人には、家族を犠牲にする恐怖はわからない。家族だけかわいい人には、祖国を犠牲にする恐怖はわからない。しかし優れた人にほど、自分の痛みより他人の痛みのほうがずっと痛む。

 真に正義を歩もうとする道にあるのは、無限大の恐怖である。


 どれだけ涼しい顔をしてその地獄を歩めるかどうかが、人間の格だというのだ。

 翻って庶民は、法令遵守がモラルだと履き違えているのだから、滑稽なものだ。

 現代社会はまるで、ほとんど誰でも完全な善人になれる。

 しかし痛みなく誰でも到れるその善性は、真の善性のまさに対極である。


 真理が見える者にとって成功した人生とは、兄や姉の隣に倒れる以上ではない。

 だがその哲学は、必ずしも死を請求するものではない。

 真に尊敬すべきものを尊敬することをやめて、狂った自尊心に溺れることを、戒めているだけだ。

 人類幸福を破滅させる行為に加担することを、戒めているだけだ。


 そのような良心への憧憬は、実は歴史的には珍しくはなかった。

 人間という動物にとって、それは案外、自然な哲学にすぎないのだ。

 むしろ特殊なのは、人間を利己的な存在だと規定した、個人主義思想のほうである。しかし、多数派の愚かな脳が都市化に適応するためには、そんな単純化のほうが好都合だった。

 ゆえにむしろ、現代のあらゆる情報は、若者達を倫理主義的な哲学から遠ざけている。

 経済を中心とする権威からの言わば洗脳によって、人生訓を言う図書らまでもが、利己を前提にしてそれに加担している。

 実際には人間存在にとって、利己はどうといって前提ではない。

 利己が前提であるとは、西洋近代を流路とする一種の宗教にすぎない。

 しかしながら、それを指摘することもとうに虚しい。異なる時代の異なる社会の心理を類推できる知性など、今は稀にもありえないからだ。

 真に倫理主義的な哲学は、体制や秩序の正当性を常に相対化するから、いかなる権威からも好まれることがない。正義以外の、それら偽りの権威からは。


 本当にすごい人というのは、天下の人々のために、涼しい顔をして身を切ることができる人々のことだ。

 つまり、いわゆるいい暮らしをしているとかは、価値ではないし、身を切ることの逆ですらあるから、基本的にはネガティブな価値だ。

 つまり、生を受けてこの世で生きるということは、前提的にすべてネガティブな価値だと言える。

 なぜなら、本当にすごい人は、生きるのに必要なものを、何か正義のために犠牲にして死んでいってしまうから。

 死まで行かずとも、正義や良心というのは常にそういう構造をしているということである。

 だから、才能に欠ける自分達が、恥ずかしがりながら質素に衣食を味わうくらいが、人生の美しいあり方だと言える。

 究極的にすごい人々は、瞬時に爆散してしまうので、抽象的・概念的、ひいては宗教的な存在である。ロジックで究極を考えて部分の正しさを知ることを、数学的帰納法などという。最も強力で、なおかつ愚者には無縁の道具だ。


 しかし、かなり高い程度の善意は、歴史的には無数に、現代にもそれなりに、見えにくいだけで実在している。

 善を神と呼ぶならば、無数の神が存在し、その一部はまさに同時代に現象していることになる。

 その社会の互助に十分に感謝して生きる道は、人間の限られた情報処理能力においては、半ば宗教的でしかありえない。よく感謝して暮らすことは正しい。


 こうすれば幸せに暮らせる、という人生訓は、卑しい。

 人間の本来の尊ぶべき誇るべき生き様とは、痛みや損失を引き受けていくところにこそある。

 そうして、社会の一員として、人情の海のなかに生まれ落ちいつか死ぬ者として、万事にロジカルに満足した人生をまっとうすることができる。

 そこには一抹の欺瞞もない。敬愛するすべてへの、偽りなき誠意だけがある。

 人間ほど美しい生き物はいないと、もし鏡を見て言えるならば、その人生はきっと、一人の祖先も、一人の子孫も、人類の誰一人として裏切らずに済むのだろう。


 この道を一語で呼ぶならば、敬神。

 神のために戦って、戦って、戦って、死んだとき、人は神になる。

 そしてそれは、さほど珍しい神ではない。

 ゆえにそれは、さほど孤独な神でもない。

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