第二十三話 『二十三』
死んでしまった。息をしていなかった。心臓に耳を当ててみたが、鼓動の音は感じられなかった。いや、それだけでは本当に死んでいるのかは分からない。そこに死んでいるのは僕なのだから。何故、僕が僕を見る形になっているのかも分からない。僕は自分の手を見た。死んでいる僕の手ではない。自分の意識がある手だ。透けたりということはなかった。いや、自分自身から見ると透けることなんてないのかもしれない。だから、僕だけでは幽霊になったのかは分からない。他人の眼があって、初めて成立するものとなる。そうだったとしたら、どうやってこの状況を説明することができるのだろうか?いつまで経ってもこのままというわけにもいかないだろう。どうにかして動かさなければならない。停止した物語なんて何の意味もない。僕は何かしらの行動をしなければならない。とは言っても、どうすればいいのだろうか?どうすればこの状況を打破することができるのだろうか?考えるたびに溜め息が出る。
空を見上げる。相変わらず憎い顔した太陽が僕を嘲笑っている。今に見てろよ。お前が望む世界にさせてやらないからな。絶対に、この状況を変えてみせてやる。
とまっている心臓に何度も何度も振動を与えた。人工呼吸もしてみた。初めてのキスを奪ってしまったことになるが。いや、自分自身だからそれはただのオナニーだ。ひとりっきりの行為は全部そういう風に片付けられることができる。たぶん、そういうことになっているんだ、と思う。ただ単に自分がそういう表現を使ってみたいだけという気もするではないが。
「おいおい、勝手に死んでいては困るよ」
僕が死ぬということは自分が死ぬ。あいつが死ぬということは僕が死ぬ。この体がある限り生きていける。逆になければ、全てが消滅してしまう。何もかもが終わってしまう。だからこそ、僕は息のない僕を救わなければならなかった。だからこそ、僕は僕を探し出さなければならなかった。
……ある冬の朝。〇〇県では滅多に降ることのない雪が降ってきた。いや、それはありえないことだった。天気予報にそんなことは流れていなかった。ただ寒い日が続くと、そう言っていただけだ。ここが現実ではないという証拠である。あくまでもここは土のなかである。
僕は森へと向かっていた。そこに行かなければならなかった。変な衝動に駆られたわけではない。ただ、そうしなければならなかった。何度も何度も誰かに用意されたレールを進まなければならなかった。苦痛でしかない。そこに自分の意志が介入することなんてないのだから。一体、僕はこのクソみたいな映画を、いつまで見続ければならないのだろうか?この出来損ないの物語を。その主演が僕だというのだから、笑わせてくれる。
なあ、いつまで続けるんだ?お前はいつになったら満足するんだ?教えて欲しかった。返して欲しかった。あの想いを。あの日々を。あの記憶を。あの夢を。あの世界を。もう終わってしまったんだ。強制的に終わらせられた。悪夢だ。残酷だ。半殺し状態にする。生きても死んでいるようだった。そうだった。いつだって現実はそうだった。誰もが生きさせよう、としている。そして、殺そう、としている。肉体の滅びではない。精神の滅びだ。
僕はある場所に着いた。そこには僕がいて、土を掘っていた。一体、何をしているのだろうか?いや、僕はその答えを知っている。この世界の住人の誰もが知っている。ここは僕だけの世界だから。あいつだけの世界だから。馬鹿げていた。どこまでも、馬鹿げていた。そんなつまらないことをして、一体何になると言うのだ?どこまでも、子供染みているじゃないか。いや、そもそも僕は子供だった。まだ成人していない幼い子供だった。だから、誰もがこの光景を見て笑っている。馬鹿にするように笑っている。だが、それは苦痛ではない。だって、僕個人ではないから。子供だという大きな枠組みにさせられているから。別に何かに苦悩することはない。ただ個人で見られた瞬間、悪いのは僕だけになってしまう。
『今に見てろよ。いつまでもお前ばかり喋っていた。いつまでもお前は僕を憎み続けていた。許せない。好き勝手にやりやがって。絶対に苦しめてやる。絶対に殺してやる。半殺しのままにしてやる。生きているような感覚を失くしてやる。死んでも生きている、そんな感覚をいつまでも味あわせてやる。くっくっくっく、笑いがとまらないぜ。今度はお前の番だ。自分だけが逃げれると思うなよ。絶対に引き摺り降ろしてやる。今に浮かぶ。あいつの憎む顔が』
あいつは土を掘りながら、笑いながら、そう言い続けていた。醜い奴だ、と思った。結局のところ、それは自分の首を絞めているようなものだった。憎む相手を間違っていた。どんなに下手でもやり続ければよかったんだ。いや、間違いなんてないのかもしれない。あいつはそれで満足できるのかもしれない。それでも僕は馬鹿だ、と思った。ただ単純にそう思った。
『こんな素敵な時間は今までに一度もなかった。人を懲らしめるのがこんなに楽しかったなんて。いじめる奴の気持ちがよく分かるよ。確かに悪いことなのかもしれない。いじめられている奴に申し訳ないことをしているのかもしれない。だけど、彼らはそれで自己満足していたんだ。それで生きる糧にしていたんだ。本当のところはよく分からないけど。本当はそうじゃないのかもしれないけど。もしも、ただの自己満足なら、いじめられている奴だってそうじゃないか?いじめられている自分が正義だと言っているんだ。そうやって、自分だけが不幸な主人公。そう感じているじゃないか。皆、一緒なんだ。だからいいじゃないか。人を苦しめていもいいじゃないか。今、適当なことを言っているのかもしれない。そんなに僕を責めないでくれ。そんなに僕をいじめないでくれ……』
悲しい人間だ。あいつは慣れていないんだ。いつもいじめられていたから。いつも自分だけが不幸だ、と嘆いていたから。逆の立場になりたくなかったんだろう。だからあんなにも言い訳をしているんだろう。そうやって、自分の行為を正当化させようとしているんだろう。どこまでも僕らしかった。人を傷つけることが苦手な僕だった。本来はこんなことをしなくてもいいはずだった。そんなことをしなくてもよかった。誰かを意識的に傷つけることなんかしなくてもよかった。だけど、あいつの身はもう持たなくなっていた。支えられることができなくなった。何もかもを受け入れたせいだ。
僕はあいつの行動に対して、とめるつもりはなかった。見守り続けるだけだった。今の僕はただの傍観者だ。いや、強制的にそういう立場にさせられている。一歩も動かせないようにしている。僕はあいつの馬鹿げている行動を見なければならない。とめることすらもできずに。一体、誰がこの世界のリモコンのスイッチを握っているのだろうか?こんなもの早く消して欲しかった。もうたくさんだ。あいつの苦しむ顔を見て、一体何が楽しいと言うのだ?四百字の原稿用紙二枚で説明して欲しかった。いや、別にそんな長くなくてもいい。一言で言えるのならそれでいい。
『もうすぐだ。もうすぐでお前を貶めることができる。少し待ってろ。今に見せてやるからな。絶対に忘れさせないからな』
そうして、あいつは掘るのをやめた。随分と深く掘っていた。丁度、人が埋まるぐらいの。これからの展開を考えると、滑稽に思えてくる。まるで、ひとり芝居ではないか。いや、まさにその通りなのだが。あいつは土の中に入って、そこで眼を瞑る。たぶん、あそこで死のうとしているのだろう。
「はあー」
ここで溜め息ひとつ。もうそろそろ来る。もうひとりのあいつがやって来る。僕はその前にやらなければならないことがある。やっと動けるんだ。だが、本当の自由ではなかった。ただ単に体が動けるようになっただけで、それ以上のことはできない。それも意識的ではなく無意識に、だ。俺は土の中に入っているあいつのところに近づいた。全く息をしていなかった。一体、どうやってこんな芸当ができるのだろうか?土のなかにいるからと言ってしまえば、それまでなんだけど。
「今のお前には聞こえていないだろうな。だけど、僕はお前に言いたいことがある。こんなことをするために僕を巻き込むな。自分で処理しろ。僕にだって僕の意識があるんだからな。それだけが言いたかった。まあ、今回は付き合ってやるよ。お前の望みどおりのことをさせてやるよ」
僕はあいつの死体を埋めた。どうせ、息を吹き返すのだから死体というのはおかしいかもしれない。とにかく、これで僕の仕事は終わった。物語のレールどおりに行った。たぶん、あいつはこれで満足したのだろう。たぶん、苦しむもうひとりのあいつを見ながら、満足しているのだろう。
「君がやっていることは自傷行為に過ぎないよ。いつか滅びてしまう。また苦しい目に遭うよ。ああ、そういえば今君は死んでいるんだっけ?そんなこと構わずに言い続けるよ。僕は一番自分が可愛いと思っているから」
……何でいつもこうなるんだろう。何で僕だけが不幸になるんだろう。一体、僕が何をしたのだろう?一体、僕の何が悪いのだろう?分からない。何にも分からなかった。自分すら救えない自分が情けなかった。
雪が降っていた。今年一番の降雪量らしい。いや、それは嘘だった。ニュースでそんなことは流れていない。ただそう言ったほうがもっともらしかった。そうすれば、物語が自然に入ってくる。だけど、ここはあくまでも土のなかだ。言わなくてもいいことまで言ってしまう。そういう性分なんで仕方がない。語りたくて仕方がない。ある意味では破滅した物語なのかもしれない。ここに劇的なドラマがあるわけではない。ただ、語るだけなんだ。自己満足的な物語でしかない。少し喋りすぎた。他の奴に怒られてしまう。本当はこんなことなんて言いたくはなかった。
「こんなことになったも全部お前のせいだからな。お前が勝手に死ぬからだ。絶対に許さない。自分だけぬくぬくとしやがって。何でお前だけが逃げることができているんだよ。何で僕だけが今も苦しみ続けなければならないんだよ。何もかもが阿呆みたいに見えてくるじゃないか。これからどうすればいいんだ?」
僕はあいつを抱え込んだ。最悪だ。何だって、雪が降っているんだ。雨のほうがよかった。そうすれば、この涙も隠しきれていたのに。頬に伝う涙が見えなくなっていたのに。涙は次々頬に流れていって、最終的に積もる雪に落ちる。その落ちた場所の雪が少し溶ける。どこまでも残酷だった。
『どうだ?十分に苦しんだろう。これで満足だろう。お前のオナニーはこれで終わったのだろう。もうそろそろ戻っていいじゃないか?』




