第二十一話 『二十一』
『お前が全部悪いんだ』
『お前がいるから』
『お前さえ生まれてこなければ良かったのに』
『何でお前が家の息子なんだ』
『もういいよ』
『お前なんか知らない』
『勝手にしろ』
そんな言葉を僕にずっと聞かせていた。死んでくれ、と言っているようなものだった。いや、本当にそう思っているのだろう。皆、悪を創るのがお上手ですね。僕はいつも必死ですよ。自分が生きやすいように必死になって、悪を創っていますよ。でもね、中々上手くいかないんだ。明確な相手にしよう、と思っても、気付けばいつも不明瞭なものになっている。怒りの矛先を他人よりも上手くすることができない。親とか兄弟とか学校の人たちを悪にしても、全てが空回りしている。どんな悪でも、辿り着くのは虚無。結局、僕は何の意味も見出せず、自分が傷つけられたことを自慢話のように語っているだけだ。それが自分の創った言葉なのか、本当に言われたことなのか、区別が付かずにいる。その区別の曖昧さ故に悪を見失う。本当に言われた言葉だったならば、その言った奴を悪にすればいい。逆に創った言葉ならば、悪も創ればいい。だが、僕の憎むべき悪はどちらなのかが分からない。自分のなかで、はっきりしないものを悪にすることはできない。他の人なら器用にやれるのかもしれない。そんな風にできた皆が羨ましかった。妬ましかった。
自室から見える太陽を僕はずっと睨んでいた。彼を悪に仕立て上げることもできるのだろうか?彼は強大すぎて、僕にどうこうできる問題ではなかった。それに、彼を悪にする動機がない。だけど、不思議と上手くいくのではないか、と思い始めていた。その強大さが僕の悪として活躍できるのではないか。彼は常に僕の生活に干渉している。それはまるで僕を嘲笑っているようだった。これなら、上手くいくかもしれない。こうして、僕の生活は豊かなものになりました。
……結局、僕に残ったのは虚無だけだった。上手くいかなかった。悪を創ることに向いていなかった。余計に死にたくなった。だが、僕はいつになっても死なないだろう。死ぬ勇気もないんだ。人を殺す勇気もない。ずっと何かを嘆きながら、生き続けるのだろう。この世界は地獄だ。何で皆は平然と生きることができるのだろうか?ああ、そうか。皆は上手くいっていたんだ。悪を創ることができたんだ。全部、悪のせいにして生きることができたんだ。何で僕だけができないのだろうか?一体、何が原因なのだろうか?馬鹿だからか?言葉を知らないからか?本をあまり読まないからか?本を読んだとしても、何にも考えていないからか?オナニーばかりしているせいなのか?童貞だからなのか?声が低いからなのか?眉毛が濃いからなのか?髭が生えているからなのか?学校で友達がいないからなのか?顔が悲惨だからなのか?夢を見るせいなのか?一体、何に問題があるというんだ?一体、僕が何をしたというんだ?ただ、真面目に生きていたはずだ。無遅刻無欠席のはずなのに。成績だってそこそこ。そんな僕が、何でこんな目に遭わなければならないんだ。不公平だ。何であいつらだけは上手くいってんだ。何で僕よりも成績の下の奴が上手くいってんだ。ああ、憎い。殺してやりたい。でも、上手くいかない。どんな悪でも上手くいかないのはあの太陽で証明された。よく考えれば、悪いのは自分だった。悪を創る自分を非難している自分がいるせいだった。そうだ、きっとそうに違いない。そいつがいるから、何も動けずにいたんだ。進めることができなかったんだ。あんなことが起こったのもそいつのせいだ。何だか笑えてきた。最も憎むべきものは自分だった。正確に言うと、自分のなかにいるもう一人の自分だった。
外はやけに騒がしかった。普段は人通りもなく、車もほとんど通っていなかった。なのに、今日に限って、人の声やら車のエンジン音がやたらによく聞こえた。一体、何があったのだろうか?カーテンから外を窺う。僕は眼を疑った。そこにはいるはずのない人物が立っていた。外が騒がしい原因もそいつだった。そいつの周りには警官がいた。警官は凶器に警戒しながらそいつを取り囲んでいた。そいつが凶器を持ってろうが、持ってなかろうがどうでも良かった。存在自体があったはならなかった。まず、自分の身体はきちんとあるか確認した。もしかしたら、僕が幽霊になっているから見えているのかもしれない。どこも透けているところはなかった。足もきちんとある。とは言ったものの、本物の幽霊がそんな感じなのかは知らない。自分から見た身体はただの人間と変わらないのかもしれない。だから、自分が生きているのか、死んでいるのか、分からなかった。ならば、あそこにいる人物をどう説明すればいいのだ?僕とは別の誰かが入って、それによって僕は追い出されてしまった、と考えればいいのか?そうだとしたら今の僕の状態に納得がいかない。幽霊なはずなのに、物に触れることができるし、水も飲むこともできる。僕が思い描く幽霊とは大分かけ離れたものである。
何も分からずに事が進むのは一番厄介だ、と思った。どのように考えて、どのように対処すればいいのか、行動のしようがないのだ。そこから一歩も進むことができない。ヒントがどこかに用意されているのだろうか?それは今ではなくて、数日後に明らかにされるのだろうか?それが訪れるまで、僕は待ち続けなければならないのだろうか?ずっと幽霊なのか、ただの人間なのか、分からないまま?いや、今考えるべきことはそういうことではない。先のことを考えるべきではない。あそこにいる人物を考えるべきだ。だが、どんなに考えようとしても、何故僕がここにいて、そいつはあそこにいるのか、説明することができない。確かめるためには、あそこに行かなければならないのだろうか?
僕は外へと向かう。だが、途中に窓にぶつかってしまった。そんな情けない自分に呆れてしまった。自分が幽霊だ、と認めてしまったのだ。だから、壁も通り抜けられるのだ、と思っているんだ。一体、自分の身に何が起こったのだろうか?
僕は普通の人間と同じように(本当に幽霊と認めてしまっているではないか)玄関から出て行った。玄関の閉じる、バタンという音にそこに集まっている全員が振り向く。僕はやあという感じで手を挙げたが、誰も僕個人を見ていなかった。意識は玄関のドアだけにしか向いていなかった。自分が幽霊だ、ということを認めざる得なかった。だが、不思議とそのことには何にも感じなかった。やっぱりな、と思った。そんなことだろう、と思った。これからのこと、どうしようかな、と考え始めている。何故、こんなことになってしまったのか?は考えないことにした。それよりも、何故僕がこのようなことにならなければならないのか?を考えるほうが有意義に感じた。それを考えていたほうが、日々の生活を過ごしやすい。原因ばかりを考えていると、ずっとスタート地点から進めることができない。そんなことを考えていたって、この状況をどうにかすることなんて何ひとつできない。いや、もしかしたら、上手くいく可能性だってあるかもしれない。だが、そんな可能性を縋って日々を過ごすなんてごめんだ。そんなことをしている間に廃人になるのが眼に見えている。それよりも街に行き交う女のパンツを覗いたり、女の脱衣場を堂々と入ったりする(実際にはそんなことはしないが)ような日々を過ごすほうが有意義に感じられるはずだ。どのようにしたら元に戻るのかというよりも幽霊だと自覚していたほうがいい。諦めるといくらか楽になるものである。
僕は進む。どんなに分からなくてもいい。結局は行動しなければいけないんだ。何も考えなくてもいい。ただ、動き続ければいいんだ。自分のやるべきことを探し出さなければならない。何故、自分が幽霊にならなければならないのか?誰も僕を見ない。あいつすら僕を見ない。僕の体を持ったあいつさえも。少し腹が立った。僕の体を奪ったあいつは僕の存在を認めていない。元々僕のだったものを何の悪意もなく、自分のものにしようとしている。そんなことを考えていたら、余計に腹が立ってきた。一回、殴り飛ばしてやろうか。そうすれば、僕の存在に気付いてくれるのかもしれない。何故か知らないが、僕は物体に触れることができる。ああ、ちゃんと示すことができるではないか。見えなくなっても、自分がここにいると示すことができるではないか。自分を示したところで、何の意味があると言うのだ?ある意味、自分が見えないというのは好都合ではないか。やりたい放題ではないか。いちいち人の眼なんか気にしなくてもいい。あんな生活からはおさらばできるんだ。ついに僕は地獄のような独房のような日々から解放されるんだ。僕はこの状況を喜ぶべきなんだ。僕が望んだことなんだ。
……とは言ったもののもう一人の自分を放っておくわけにはいかなかった。今、あいつは警官に囲まれている。そして、武器を持っている。いくら、今の自分が何の身体も持ち合わせていないただの魂の抜け殻だとしても、あそこにある身体は元々僕のものだ。戻ったときに本当の独房に入ったら、笑い話では済ませられない。どうにかして、あいつを警察から離さなければならない。
これで何人もの犯罪者を捕まえてやる、というのが身体に現れている筋肉質の男の肩を僕は叩いた。その男は振り向く。もちろん、筋肉質の男が僕の姿なんかを捉えることなんてできない。すぐにあいつのほうへと戻るだろう。とは言っても、一瞬であるが隙ができる。あいつがそれを見逃すはずがない。二人の警察官のうち、ひょろそうな奴を彼は金属バットで叩き付けた。気持ちのいい甲高い音がする。金属バットで思いっきり叩き付けられた警察官は気絶する。その間に全速力であいつは逃げ出した。どうやら、あいつには人を殺せる程度の力を持ち合わせていないようだ。
筋肉質の男はあいつを追いかけようとするが、隣では仲間が気絶している。仕方なく、胸元にある無線で何か話しかけている。たぶん、警察の応援でも呼んでいるのだろう。見つかったらただでは済まされないだろうな。まともな生活なんてこれからあいつに訪れることなんてないだろう。
とりあえず、僕は警察官二人を置いて(そのままいても、今の僕にとって何の意味もない)あいつを追いかけることにした。そこまで遠くには行っていないだろう。とは言っても、あいつは全速力で走っている。僕は幽霊のように空中で浮遊することができない。どうやら、僕は他人から見えないだけで、それ以外は何の支障もないただの人間に過ぎない。これでは幽霊と言うよりは、透明人間と言ったほうがいいではないか。だが、肉体はあいつが持っている。だから、僕は透明人間であると断言することはできない。あり得ないことが起こっている。世界を覆すようなことが。形として成し得ていないものが、形として成し得ているものに触れている。
気分が悪くなりながらも、僕は何とかあいつを見つけることができた。だが、そこにいたあいつはおかしかった。ゲラゲラと笑いながら、土に向けて拳を叩きつけている。何度も何度も殴って、拳が割れて血を流している。僕にはあいつの行為が分かっていた。結局のところ、あいつは僕で、僕はあいつだった。憎しみの対象が見つけられずにいた。そこから逃げ出せずにいた。だからこそ、あそこに立ち止まって、土をアスファルトと見間違えて、いつまで経っても森へと近づくことができない。馬鹿みたいだった。いや、もう馬鹿そのものだ。本当に僕とあいつはできなかったんだ。悪がどこにいるのか、見つけることができなかったんだ。
そこで僕は気付く。あいつは僕の頭のなかにいる住人に過ぎなかった。この映像もそのなかで流されているに過ぎないんだ。そう考えると自分は何て馬鹿らしいことをしているのだろう?と思い始めてくる。軽蔑するように僕はあいつを見た。今もまだ森に辿り着けない、と嘆いている。永遠にそうやっていればいい。僕はいつまでもお前を嘲笑ってやるよ。独りよがりの人生の負け組になっていればいい。その言葉はある意味では自分に言っていることになる。僕は自分を批判しているのだ。そうすることで自分を満足させようとしている。
『お前だけは許さない。この世界で殺したとしても許せない。もし、違う世界にいたとしたら、そのお前も殺す。何度だって殺す。お前がいなくなるまで殺す』
誰かがそう叫んでいた。いや、眼で確認しなくても誰なのかは分かっていた。それはあいつだった。今も地面に拳を叩きつけているあいつだった。
『包丁で心臓を突き刺してやる。鈍器で頭をかち割ってやる。頑丈な縄で首を締め付けてやる。拘束してじわじわと痛めつけてやる。どんなやり方でもぶっ殺してやる。確実に殺してやる』
そういえば、何故僕はこの世界で物理的干渉をすることができたのだろうか?ただの映像ならそんなことあってはならないことだ。もっともな話、自分の頭のなかのはずなのに、勝手に事が進むなんておかしい。もしもだけど、これが僕の世界じゃなかったら?もしもこれが……。
『全て、お前のせいだ。こんな世界を創ったのもお前のせいだ。僕をこんな性格にしたのもお前のせいだ。死にたい、と思うようになったのもお前のせいだ。ペットが死んだのもお前のせいだ。この前のテストの成績が落ちたのもお前のせいだ。最近、体調が優れないのもお前のせいだ。車に轢かれそうになったのもお前のせいだ。人に笑われたのもお前のせいだ。悪夢ばかり見るようになったのもお前のせいだ。昨日、シャワー浴びるのを忘れていたのもお前のせいだ。今朝、歯磨き粉が切れていたのもお前のせいだ。あらゆるすべてのことがお前のせいだ』




