【番外編・レオ視点】あの人の背中
僕があの人に出会ったのは、たぶん、もう少しで死ぬんだろうなって思っていた朝だった。
橋の下。雨が音を立てて落ちてきて、誰もいないと思っていたのに、足音が近づいてきた。
顔を見られるのが怖くて、目をつぶっていたら、誰かがそっと上着をかけてくれた。
温かかった。ふわっと、パンの匂いがした。
「ごめんね……少し、痛いかもしれないよ。」
聞いたことのない声だったけど、なぜか怒鳴られる気はしなかった。
腕がじんわり熱くなって、さっきまで感じていたひどい痛みが、少しずつ和らいでいく。
何が起きたのかわからなかった。でも、心の奥の冷たい何かが、ほんの少しだけ溶けた気がした。
気づいたら、声が出ていた。
「……ありがとう。」
その人は、はっとした顔をした。
目を見開いて、呼吸をひとつ、飲み込むように止めて、そして微笑んだ。
まるで、僕の小さな言葉ひとつが、
その人のなかの大きな氷を割ったみたいだった。
僕はその人と暮らすことになった。
名前を訊かれなかった代わりに、「レオ」って名前をくれた。
「もう、怖くない名前がいいよね」って、そう言って。
最初は、夜がこわかった。
眠ってる間に捨てられるんじゃないかって思った。
でも、朝になると、あの人は台所にいて、パンをこねていた。
「おはよう、レオ。今日も雨だから、畑はおやすみね。」
いつもと同じ声で、いつもと同じ笑顔だった。
少しだけ、声を出して返事ができた。
ある日、焼きすぎたパンをふたりでかじりながら、僕は聞いた。
「ソフィアって、ほんとは何してた人なの?」
あの人は少しだけ黙って、それから外を見た。
「昔は、神さまの言うことをちゃんと聞かなきゃいけないって思ってたの。でも……目の前で苦しんでる人がいたら、そんなこと、後回しでいいよね。」
そのときの横顔は、少し寂しそうで、でもきっぱりしてた。
その背中を、僕はずっと覚えてる。
誰かのために、自分を捨てられる人。
でも、どこかで自分の傷をずっと抱えてる人。
僕はまだ子どもだったから、難しいことは全部はわからなかった。
でも、ひとつだけ確かに思ってた。
――この人は、ほんとうにすごい人だ。
あの人は、どこかへ行った。
誰かをまた助けに行くんだって、そう言ってた。
僕がちゃんと独り立ちできるようになって、心配が減ったからだって。
わかってたよ。きっと、ずっとそうするつもりだったんだ。
誰かを助けるたびに、自分のことなんか後回しにして、
それでも「笑っていられるから大丈夫」って言うんだ。
だから、僕はちゃんと勉強する。
あの人がくれたものを、僕も誰かにわたせるように。
そして、いつかまた会えたら言うんだ。
「今度は、僕があなたの背中を守るよ」って。