2 聖女の暮らし
「掟なき癒しは、神に背く行い。奇跡の私用は重罪である。」
ソフィア・ルミエールへの判決は厳しかった。矯正院での二年の労働。そして、再犯防止のための“封印契約”――癒しの魔法に強制的に制限をかける神官印の刻印。
ソフィアは黙って受け入れた。掟に従うことを誓わなければ、出所は叶わない。彼女には選択肢がなかった。
やがて、かつて孤児たちと暮らしていた山裾の小屋に戻ることが許された。子どもたちはすでに神殿の指示で遠方の保護施設へ送られており、今そこには誰も残っていなかった。風と静寂だけが寄り添う、小さな場所だった。
癒しを行おうとすると腕が痛み、“それは悪いことです”という言葉が、耳の奥に自動的に響いた。誰かの苦しみを見ても、動こうとする気持ちに重しがかけられているようだった。解放されたソフィアには、自分に何が残っているのか、もうわからなかった。
けれど、それはある朝の出会いで崩れた。
雨の降る橋の下に、ひとり蹲る少年がいた。痩せこけた身体に、泥にまみれた頬。まだ幼い少年は、言葉も出せずに、怯えた目でこちらを見ていた。髪はぼさぼさで、顔立ちも痩せすぎていてよくわからなかった。けれど、その目だけが、どこにも居場所がないことを語っていた。
ソフィアは彼に何かを聞くこともなく、そっと自分の上着を肩にかけた。そのとき、少年の腕に傷があることに気がついた。深くはないが、化膿しかけている。
――もう、しないと決めたはずだった。
けれど。
「ごめんね……少し、痛いかもしれないよ。」
ソフィアは周囲を見渡し、誰の目もないことを確かめると、制限の隙を突いて、かすかな癒しの奇跡を使った。痛みをやわらげ、傷の熱を鎮める。術を終えたとき、契約の刻印が激しい熱を持ち、顔をしかめそうになる。
少年がそっと口をひらいた。
「……ありがとう。」
それがすべてだった。ソフィアはその子に「レオ」という名前を与え、そっと家に連れて帰った。見つからないように、神官印は布で隠し、術を使うときは慎重に。ふたりの、ひっそりとした暮らしが始まった。
レオは人の目をまっすぐに見られない子だった。くすんだ栗色の髪はまだ手入れが行き届かず、伸び放題だった。けれど少しずつ整えられ、顔色にも血色が戻りはじめる。ソフィアは彼に、毎日少しずつ語りかけた。
「大丈夫。ここでは怒鳴る人も、叩く人もいないよ。」
「大丈夫。あなたは、愛されていい。」
レオは少しずつ笑うようになっていった。夜はふたりで布団を分けて眠り、朝は小さな畑を耕した。ときどき、パンも焼いた。焦がしてしまって笑い合ったことも、一度や二度ではなかった。
「このまま、静かに暮らしていけたらいいな。」
ソフィアは毎晩そう祈りながら眠った。だが、世の中は静かにはさせてくれなかった。戒律騎士団――かつて彼女を裁いた騎士が、再び動き出していた。テオドール・モレル。神殿からの指示を受け、仮釈放記録と癒しの術の痕跡を辿って、彼女の居場所を突き止めようとしていた。
ある日、ソフィアは街の裏路地で見覚えのある影を見つけた。あの鉄の瞳。あの歩き方。
「……来たのね。」
ソフィアはレオの手を取り、その夜のうちに荷をまとめた。逃げることしかできない。けれど、今度は守るものがあるから。この子がいる限り、自分は止まれない。
夜のうちに馬車に乗り、また別の町へと姿を隠す。けれど、胸の奥ではもう知っていた。“彼”は、きっと追ってくる。