R015話 アメリカの大地に立つ!
【筆者からの一言】
今回で「大君主作戦」の駒は出揃った事になります。
摂政がアメリカの大地に送り込んだ最後の者達のお話。
「者達」というからには複数です。
ただし、番外的な扱いなのでした。
1942年◯◯月◯◯日 『日本 東京 皇居 摂政執務室』
閑院宮摂政は一通の請願書を読むと窓の外を見た。
木々に小鳥達が飛んで来て枝にとまって楽し気に鳴いている。
平和だった。
世界大戦が起こっていても、日本は戦争をしていても、日本国内は平和だった。
摂政は再び請願書に目を落とす。
この請願書は昨年の11月に宮内省に届けられた物だ。
それは史実と同じである。
陛下がご健在ならば、陛下の所までは届かず、宮内省で留められていたかもしれない。
これはそういう類のものだ。
しかし、陛下はまだご回復されておらず、閑院宮摂政が代理をつとめているので宮内省は恐る恐る意向を窺う形で請願書を届けたようだ。下手な事をして閑院宮摂政の怒りに触れるのを恐れたのだろう。
戦争直前に届けられたので、忙しい閑院宮摂政はその処理を後回しにしていた。
摂政は机の引き出しから用紙を取り出して一つの命令書を書き上げた。
そして侍従武官に渡し速やかにその命令を実行させるように告げたのである。
その数日後……
とある家に憲兵隊が雪崩れ込んだ。
そしてその家の主を逮捕する。
腕を掴み捩じり後ろ手にして逮捕する。
主は抵抗した。
抗議もする。
「な、何をする!
わ、儂が誰か知っての狼藉か!
ええぃ離せ、離さぬか!
儂こそは!」
だが、憲兵隊の者達は容赦しない。
「煩い! 黙れ! この大逆人め! 摂政殿下の命によりお前を逮捕する!」
「…………」
家の主は摂政の名を聞くと呆然とし、直ぐに悔恨の表情を見せ、そして全てを諦めた。
同様な憲兵隊による逮捕が日本各地で行われていた。
全て摂政の命令によるものだ。
逮捕された者の総計は20人。
中高年の者が多い。
それらの者達は憲兵隊により、千葉にある陸軍の臨時飛行船専用基地に移送され「桜華部隊」に引き渡される。
そしてアメリカに増援部隊と物資を運ぶ予定の「東遣航空艦隊」の飛行船の片隅に閉じ込められ、太平洋を渡り、日本軍「桜華」部隊占領下のカリフォルニア州の港町クレセント・シティに到着した。
そこからはクレセント・シティにて接収された漁船にて海路密かにサンフランシスコやロサンゼルス近郊に運ばれる。
そして、夜間に一人ずつバラバラに上陸させられ、現金も持たされずに身一つで放り出されたのである。
その中で最後に放り出された人物に、この作戦指揮官から閑院宮摂政の伝言が伝えられた。
「お前が南朝の末裔と言うのなら南朝の天皇達のように戦って見せろ。
初代天皇たる神武天皇のように自分で国を切り開け。神武天皇も当時は異民族とされた者達を切り従えたぞ。お前に天皇の血が流れているというのならできる筈だ。それにアメリカ大陸にも日系人は大勢いるぞ」
その言葉を聞いた熊沢寛道は砂浜に呆然と立ち尽くすのみだった。
熊沢寛道……
南朝の天皇の末裔と主張するこの年53歳になる男である。
その主張は、熊沢寛道の父、熊沢大然が明治時代に始めたものだ。
明治維新により日本の体制は大きく変わった。
その中の一つが、それまで国内に燻ぶっていた「南朝正統論」の扱い方だ。
南北朝時代、日本の朝廷は二派に分かれその覇権を競っていた。
最終的には北朝が勝利し、現代に至るまで北朝の血統が正当な天皇家として続いている。
問題の萌芽は徳川幕府を開いた徳川家である。
徳川家の祖先は新田氏であり、徳川家の直接の先祖を辿っていくと、南朝側についた人物である事がわかる。
北朝として皇統を維持して来た朝廷からすれば、南朝は逆賊の扱いである。
しかし南朝側だった末裔の徳川家としては逆賊扱いは不満だ。
ましてや幕府を開き天下をおさめている。
その徳川家から出て来たのが徳川光圀が編纂した「大日本史」による「南朝正統論」である。
この「大日本史」の刊行について朝廷は幕府に許可しなかったが、江戸幕府は朝廷の意向を無視して刊行した。
結局は実権を握っている方が強いのだ。
そうなると当然、徳川幕府の世であるから「南朝正統論」が武士階級に広まる。
ましてや南北朝の時代は日本が二派に分かれて戦っていたのだ。
先祖が南朝について戦った者など大勢いる。
「南朝正統論」に傾倒する者が世に増えるのは当然の成り行きだった。
そして明治維新が起き朝廷の有り様も変わった。
その中で政府を主導した維新志士達は朝廷に南朝の扱いの見直しを求めたのである。
そして南朝を正統として扱う事を討議する枢密院会議が開かれる事になった。
しかし、この時は明治天皇が理由も明かさず欠席している。
理由も明かさず欠席というのが尋常ではない。
やはり北朝の血統として正統なる皇統を維持して来たと考える明治天皇からすれば、南朝を正統として認めろという話しは面白くなかったのかもしれない。
欠席は無言の抵抗であり抗議だったのかもしれない。
しかし、結局は南朝を正統とする勅裁が発せられる事になった。
その結果、南朝方の武将の末裔で歴史の流れの中で零落し、さしたる身分ではなかった者でも華族に列せられた。
故人の楠正成なども改めて正一位が贈られている。
そんな時代に熊沢大然は南朝の天皇の末裔と名乗り出た。
宮内省に自分は後亀山天皇の曾孫、信雅親王の末裔であり、信雅親王の合祀を皇室にお願いしたいと請願書を出したのだ。
この熊沢大然が本当に後亀山天皇の末裔であるかは確たる物証は無い。
信雅親王自体が公式の記録にはない。
口伝で伝えられて来た事がその話しの大半であり証拠となっている。
後にとある歴史家が熊沢大然について調査している。
その時、熊沢大然を直接知る者の中には、先祖の墓に菊の御紋があれば、うまく立ち回れば華族になれるかもしれないという話しを熊沢大然が聞き、その気になったらしいと話す人もいたそうだ。
南朝方の武将の零落した末裔が華族に抜擢されていた時代である。
そういう話しも世間に流布していた時代だった。
ちなみに菊の御紋を付けた墓は皇族以外にもある。
木地屋、もしくは木地師と呼ばれる職人集団の墓がそれだ。
木地屋は一種の山の民であり、山から山へと渡り歩き、主に栃の木でお椀やお盆を作る職人だ。
祖先は文徳天皇の第一皇子の縁の者としている。
その墓は「木地屋墓」と呼ばれ昔から菊の御紋を刻む風習がある。
明治以後は一般の市民となり現代ではもう木地屋はいなくなってしまった。
一応、宮内省により熊沢大然の主張の調査が行われはした。
その過程において熊沢大然は自分を皇族に加える場合は序列の一位に、と言っていたらしい。
随分と大きく出たものである。
この当時、明治天皇に男子の子供は一人しかいなかった。つまり序列一位という事は皇太子殿下に何かあった場合は、天皇になるという事なのである。
しかし、宮内省からの正式な回答の無いまま時は流れて行き、熊沢大然は1915年(大正4年)に亡くなり、以後は子の寛道がその主張を受け継いでいく。
熊沢寛道は1936年、1940年、1941年と度々請願書を出している。
史実ではこの後、日本は太平洋戦争に突入し敗戦する。
その後、日本はGHQの支配するところとなるが、熊沢寛道はGHQに自分が正当なる天皇であるとの手紙を送った。
熊沢天皇であると。
その手紙を読んだGHQ翻訳課の中尉は、それをくだらないと取り上げなかった。
しかし、たまたま居合わせた記者が、その手紙を借り受け、他の記者も巻き込んで一ヶ月ほどかけて翻訳と日本の歴史を勉強し、遂には熊沢寛道を尋ねる事にしたのだ。
通訳とカメラマンを加えて6人での訪問だった。
熊沢寛道はGHQの高官が来たものと勘違いして一家勢揃いして出迎えた。その誤解をアメリカ側は解いたと証言している。
しかし、熊沢寛道はマッカーサーがアメリカとイギリスから招いた歴史学者4人と通訳とカメラマンの6人で調査に来たと世間に吹聴している。
熊沢寛道はその後もGHQに皇位回復の手紙を出しているが、その内容はかなり酷い。
昭和天皇を邪統の偽主と呼び、足利氏の落胤の疑いがあるとまで書いている。
GHQでは熊沢寛道の主張について本気にはとらなかったようだ。
GHQの民生局次長は、熊沢問題はユーモアの領域と言っていたらしい。
ただし、GHQ情報部では昭和天皇には脅威にはなっていないが、目的が革命であり共産主義者が支援しているようなので監視すると記録にある。
熊沢寛道を取材した外国人記者達はその記事を当然、本国に送りアメリカとイギリスの新聞に載る事になる。
それを逆輸入でもするかのように、ようやく日本の新聞も記事にした。
これ以後、暫くは熊沢寛道の周りに人が集まったらしい。
GHQが後押ししていると勘違いして擦り寄る人が多かったようだ。
熊沢寛道は各地を回って講演し、この頃は羽振りも良かったらしい。
しかし、昭和天皇の人気には敵わない。GHQも昭和天皇を推している。
3年もすると完全に凋落し人も離れていった。
そして1966年に寂しく亡くなる。
この熊沢寛道が一時的に話題になった戦後すぐの頃、それにあやかろうとしたのか日本の各地で天皇の末裔を名乗る者が相次いだ。
第80代、高倉天皇の末裔を名乗る者が和歌山で自らも天皇を名乗った。
第81代、安徳天皇の末裔を名乗る者が高知県で自らも天皇を名乗った。
第81代、安徳天皇の末裔を名乗る者が熊本県で自らも天皇を名乗った。
第81代、安徳天皇の末裔を名乗る者が鹿児島県で自らも天皇を名乗った。
第84代、順徳天皇の末裔を名乗る者が新潟県で自らも天皇を名乗った。
第94代、長慶天皇の末裔を名乗る者が福島県で自らも天皇を名乗った。
第96代、後醍醐天皇の末裔を名乗る者が愛知県で自らも天皇を名乗った。
第96代、後醍醐天皇の末裔を名乗る者が京都で自らも天皇と名乗った。
第97代、村上天皇の末裔を名乗る者が福岡県で自らも天皇と名乗った。
第99代、後亀山天皇の末裔を名乗る者が岡山県で自らも天皇と名乗った。
第100代、大宝天皇の末裔を名乗る者が愛知県で自らも天皇と名乗った。
天皇を名乗った者は他にもおり、その人数は全部で20人に達する。
全員が自分の名字から名を取った◯◯天皇と呼称していた。
共通するのは誰一人、その正統性を認められなかったという事に尽きる。
そして歴史の流れの中に消え去った。
「自称天皇」……それが彼らに与えられた後世の呼び名である。
閑院宮摂政は、それら史実における後世において天皇を自称した者を憲兵隊に逮捕させ、一纏めにしてアメリカ西海岸に身一つで送り込んだのである。
熊沢寛道は戦前から皇統の血が流れている事を主張し続けていたが、他の者達は史実における後世、戦後の混乱期に主張し始めた者達であり、この時点では何ら主張しておらず如何なる罪も犯していない。
熊沢寛道にしても父の言う事を信じて主張しているだけである。
閑院宮摂政の大逆罪を適用するやり方は正に冤罪である。
しかし、そんな事は知った事ではないのが閑院宮摂政の考えであった。
摂政はこれらの男達の可能性を試してみたのだ。
少なくとも普通の人間ならば自分を天皇だとは言い出さないし、自称したりしない。
それなりの考えがあって言い出し、それなりの目算があり、それなりの心積もりもあった筈だろう。
まぁそれは当時の日本という国の枠内で考えての事ではあろうが。
だが、しかし、少なくとも度胸はある筈だ。
そうした度胸のある男達が言葉も違う敵対するアメリカという国で、金も持たず身一つで、どこまで生きて行けるのか……
もしくは才覚を使いうまく生活していけるのか。
更にはのし上がれるのか……
これはその興味本位な「実験」だった。
その日、閑院宮摂政は窓の外を流れる雲を見ながら呟いた。
「果たして何人生き残れるか……」
その呟きに答えを返すものはなく、空では白い雲がただ静かに流れていた。
【to be continued】
【筆者からの一言】
果たして新たな日本ゆかりの怪しげな王朝がアメリカの大地にたてられるのか?
それともこれらの人物達はアメリカでそれなりの生活をしていくだけなのか?
もしくは野たれ死ぬだけなのか……
それは筆者にもわからない。




