エルフさんと学ぶ憲法、その3:平等とは?
1対1の授業の利点のひとつは互いの都合が付けばどこででも授業ができる点だろう。
アキラとラティは夕飯の買い出しを済ませた後、近所のコーヒーショップで教科書を開いていた。
足元のマイバッグから覗く野菜からは所帯じみた匂いがするが、和気藹々とした2人の前ではさしたる問題にはならない。
この二人、何気に半ば同棲なうの関係である。
「法律の分野では日常よりも厳密な意味で、あるいは異なった意味で使われる単語があります」
「いわゆる法律用語ですね。僕も法律用語辞典は持ってますよ」
「この前まで本当に持っているだけでしたね」
「うぐ……」
カップを片手に、頭の準備運動の段階でもラティは容赦がない。一緒に卒業するという約束が未だ危機に瀕したままだからだ。
エルフにとって心からの約束とは時に命を賭けるほどに重いものなのだ。
ラティがアキラの勉強をみるのには使命感が2割ほど含まれている。
無論、あとの8割は言わずもがなである。
「法律用語の中でも日常との乖離が激しいのは『善意』と『悪意』ですね」
「そのふたつは僕も印象に残ってます。
法律分野では、善意は『ある事情を知らないこと』、悪意は『知っていること』を意味していて、道徳的な善悪を意味するものではないんですよね」
「正確な理解です、アキラさん。この法律的な意味における善意悪意の使用例としては民法94条2項が有名ですね」
>民法第94条
①、相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。
②、前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
(※日本の条文は×条○項◇号の形で書かれています。条数は太字漢数字、項数は①②表記ですがたまに省略されて、×条○号の形式の条文もあるので注意してください。
尚、94条2項の該当部分を現代語訳すると『虚偽の意思表示を知らなかった第三者』となります)
「さて、憲法においても日常的な使用とは多少意味の離れた単語があります」
「平等、ですね」
アキラも段々とラティの授業についていけるいけるようになってきていた。
憲法の条文の順番に教えれていることに最近ようやく気付いたのだ。
「そうです。元来、平等という言葉は“神の前の平等”を意味していました。英国のマグナカルタに続く人権宣言の先駆けであるアメリカ独立宣言はややこのニュアンスを含んでいるように思われます。
その後、フランス革命では『法の下の平等』の思想を下敷きにして『自由・平等・友愛』を掲げています」
「法の下の平等という時の『平等』は、日常的に使用する“平等”とは違うんですか?」
「違う、と考えた方がよいと思われます」
そこで一度、ラティはカップに口をつけて息を整えた。
「アキラさん、一般的な意味において、人間は生まれながらにして“平等”ではありませんね?」
「そりゃそうですね。ヒトとエルフという生まれの違いだけで平均寿命が何倍も違いますし」
「はい。生まれついての貧富、才能、人種、能力、門戸。人間は、あるいは、あらゆる生物は決して“平等”な存在ではありません」
「では、『法の下の平等』の目指すものはどのような平等なんですか?」
「順にご説明します。まず、日本国憲法では包括的に人権を保障する13条に続いて、14条で『平等』が規定されています」
>14条:
①、すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
②、華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③、栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
「ここで云う国家の目指す『平等』とは、大きく分けて、『形式的平等』と『実質的平等』のふたつを意味します。
形式的平等とは、人の現実のさまざまな差異をひとまず置いて、原則的に一律平等に取り扱うこと。
実質的平等とは、人の現実の差異に着目してその格差是正を行うこと、です。
言い換えると、形式的平等は機会の均等、実質的平等は結果の均等を目指すものと言えます」
※ざっくり言うと、100m走でスタート位置を一律正確に設定するのが形式的平等。
なにはともあれ全員一緒にゴールさせようとするのが実質的平等です。
日本国憲法で規定するところの平等とは基本的には『形式的平等』を指し、補充的に『実質的平等』が要求されていると考えられています。
また、今後も出てくるであろう『平等原則』という単語の指す平等も基本的には形式的平等です。
これは資本主義を社会の基本としている日本において、完全な結果の平等を達成することは逆に自由を侵害してしまうからです。
雨の中、傘を差さずに踊る人とシベリアで木を数える人の給料を同額にしてしまうと資本主義が星の彼方に行ってしまうのです。
「次に、『法の下の平等』において等しい法的取扱いとはどのようなものかが問題となります。
これには全ての人を均一に扱う『絶対的平等』と、個々人の差異に注目して、等しいものは等しく、等しくないものは等しくなく取り扱う『相対的平等』のふたつの考え方があります」
「これは普通に考えて、相対的平等が正しいんじゃないですか?
絶対的平等だと、結局なにも平等にならないんじゃないでしょうか」
「そうですね。全ての人を均一に、というのは子供も老人も区別なく同じように働かせないと達成できない考えですので、はっきり言って達成不可能でしょう。
さすがにこの点の解釈は相対的平等で統一されています」
※ざっくり言うと、100m走でカーブがあるなら一律スタート位置を変えて全然無意味なのが絶対的平等、カーブの大小に合わせてきちんと変えていくのが相対的平等です。
憲法分野で『平等』という言葉が出た時は基本、形式的平等+相対的平等を指します。
国家のスタンスは形式的平等(=基本は差別しないよ!!)
個人の取扱いは相対的平等(=合理的な区別はするよ、子どもとか!!)
という形です。
やや矛盾しているように思われるかもしれませんが、例を挙げると、電車の料金が誰でも一律同額な中(形式的平等)、例外的に子どもには子供料金がある(相対的平等)、というのが形式的平等と相対的平等の関係だと考えていただければよいかと思います。
尚、アファーマティブ・アクションやバリアフリーのような実質的平等の要請は、個別にそれっぽい言葉が定義され、運用されているのであまり平等という言葉が使われていない印象をうけます。
また、某ハーケンクロイツの方々が
「平等? 法を適用するときは平等に適用してやるぜヒャッハー!!(法律自体は不平等条項満載)」
をやらかした教訓として『法の下の平等』は立法者も拘束する=法律が平等原則に反している場合は憲法14条違反となる、というのが通説です。
尚、このような法律が憲法に違反する場合を法令違憲といいます。
※原則、憲法は国対人の関係を規定する法ですので、ざっくり言うと、憲法14条は「国家は国民を不合理に差別してはならない」「必要に応じて個別にフォローはする」ということを規定した条文であるといえます。
・余談
憲法14条1項の>人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係~、は歴史的に特に差別されてきたものを挙げていると考えられていますが、この列挙にどれだけ意味があるのかは論争のある点です。
ただの例示だ派vs.限定列挙してるんだ派が争って混沌としています。
判例は例示説であると言われています。
また、14条違反については、平等権=裁判によって不平等を是正される権利として保障されているというのが通説判例ですが、訴訟においては「平等原則に反している」といった主張の仕方の方が一般的なように思われます。
基本的に両主張に差はないのですが、外国人の人権が問題になった場合などの限られた状況では平等権≠平等原則となるようです。
その3、終了