第29章 遠征3日目①
岩壁にもたれたまま、夜を見張り続け――やがて、空の色がゆっくりと変わり始めた。
黒だった闇が、わずかに青を帯びる。
木々の輪郭が浮かび上がり、岩肌のざらついた質感が戻ってくる。
夜の間じっとしていたせいで、皮膚が張りついたように冷たい。
息を吸うたび、鼻の奥がツンと痛む。
吐く息は白く、すぐ白けた空の中に溶けた。
やっと朝が来た……
結局、一睡もしていない。
耐え切ったと言えば聞こえはいいが、体は正直だ。
……しんどい。
鉛を詰め込まれたみたいに、関節が軋む。
指先を曲げるだけで鈍い痛みが走り、肩は石みたいに固まっている。
それでも、立ち上がれないほどではない。
――動ける。
だが、寒さで体の動きが鈍い。
防寒はした。
服もありったけ被り、バックパックの即席シェラフも、やれる限りはやった。
だが冬の野宿は、やはりきつい。
岩壁が風を止めてくれているはずなのに、芯が冷えた感覚が抜けない。
体温が削られるって、こういうことか……と、改めて思い知らされる。
本来なら、体を動かし続けるのが正解だ。
血を巡らせ、熱を生む。
止まるほど体は冷える。
吹雪もなく雪もないこの場所で、歩ける程度の山道であれば、歩き続けて町まで行くのが理屈としては正しい。
だがこの世界では、動き続けることは――奴らに居場所を教える行為になる。
足踏み。
衣擦れ。
小石を蹴る音。
枝を折る音。
そのひとつが、どこかの奴らをこちらへ刺し向ける。
だから俺たちは、じっと耐えるしかなかった。
動きたいのに動けない。
寒いのに震えることすら、どこかで躊躇う。
まるで拷問のような時間。
……それでも、バックパックシェラフで足が冷え切らなかっただけでもまだマシだ。
足先の感覚が残っている。
この差は大きい。
冬の山では特に。
本来なら、二日目の目的地であるあの一軒家で眠れていたはずであった。
屋根の下で、壁に囲まれて。
もしそれが無理で野宿になったとしても、佐藤がいて寝袋があったなら――もう少しマシだっただろう。
だが予定通りにいかないのが、この世界の常識だ。
むしろ予定通りにいく方が珍しい。
だって死体がうろついて襲ってくる世界なんだから。
そんな世界だからこそ、どんな想定外のことでも乗り越えるしかないのだ。
乗り越えれなかった場合、仕方ないでは済まない。
正直死か、感染して奴らの仲間入りの未来が待っている。
俺は鈴木を見る。
暗闇の中で小さく丸まっていた背中が、朝の薄明かりに照らされる。
顔色が悪く唇も乾いている。
髪も乱れ、頬はこわばっている。
それでも、こちらを見る目はまだ焦点が合っていた。
初めての野宿が真冬の装備なしでは憔悴しても仕方がない。
ただ……折れてはいないな。
「……少しは休めたか?」
鈴木は一瞬だけ言葉に詰まり、喉を鳴らしてから答えた。
「……大丈夫です。動けます」
休めたとは言わない。
そして声に力はない。
“動ける”って言葉の裏に、「動くしかない」が透けて見える。
本当なら無理するなと言いたい。
だが今は、無理をするしかない。
「水、少し飲みな。少しずつな」
喉を潤す程度。
一気に飲むのはもったいないし、冷えた胃に流し込めば体がさらに重くなる。
そんな理屈を頭で回しながら、俺も自分に同じように少しだけ流し込む。
冷たい水が喉を落ちていく感覚が、妙に現実を引き戻した。
もう町まで行くしかない。
ここまで来て引き返す選択肢はないし、佐藤が無事なら必ずホームセンターへ向かっているはずだ。
……無事なら。
その二文字が胸の奥に引っかかる。
考えるなと言っても考えてしまう。
昨夜、何度も闇の中で左の道の方角を思い浮かべた。
佐藤が引き連れた二体。
あれがどこまで追ったのか。
追いつかれたのか。逃げ切ったのか。倒したのか・・
もしかしたら奴らにやられ、傷を負ったのかもしれない。
俺はずっと、佐藤は生きていると信じている。
信じるしかない、じゃない。
信じている。
もし奴らにやられていたら――なんてことは無いはずだ。
佐藤のことだ。
そんな簡単にくたばる男じゃない。
鉄パイプを背負って、二ヶ月一人で生き延びてきた男だ。
生きるための判断ができる。
逃げるべき時に逃げられる。
……そういう男だ。
たった一週間ほどの付き合いだが、もう本当の盟友のような気がしている。
この世界じゃ、一週間は長い。
昨日会ったやつが次の日死ぬなんて当たり前の世界で、一週間分の地獄や天国を一緒に見た相手は、簡単に他人に戻らない。
もし本当に奴らにやられて、ホームセンターにも拠点にも帰ってこなければ――
その時は、必ず探し出して俺の手で終わらせてやる。
そしてあの村で、家族と一緒に弔ってやる。
……いかん。
佐藤はまだ死んだと決まったわけじゃない。
勝手に“終わり”を想像するのは縁起でもないし、何より今の俺たちの心を弱くする。
それを確かめるためにも、行くしかない。
重い体でも。寒さが残っていても。
今日の目標は町。
そしてホームセンターだ。
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まずは、自分たちがどこにいるのか把握する必要がある。
昨夜は暗くなってからも獣道を勘で進んだ。
なるべく忍足で藪を抜け、木々を抜け。
今は朝で、視界がある。
それだけで状況は少しだけ変わる。
昨日の道へは戻れない。
あの一軒家付近には感染者がいたし、さらに銃を持った生存者もいた。
仮にそいつが感染者を倒していたとしても、安全とは限らない。
むしろ武装している時点で、感染者より危険な可能性だってある。
俺の経験上、法律もない世界では強い力を持ったやつが正義だ。
そんなやつにまともな理屈は通じない。
少なくとも、今までの俺の経験ではそうだった。
それに、生存者がやられて感染者が増えている可能性もある。
……いや、そっちの方が確率は高い。
銃声の後に静かになったのは、生存者が勝ったからとは限らない。
銃は、思っているほど奴らには効かない。
確実に頭を打ち抜ける技術があればまだしも、経験者でも簡単じゃない。
体を撃っても止まらないし、むしろ「ここに獲物がいる」と合図する呼び水になる。
となれば――一軒家のバリケードが破られ、奴らにやられて静かになった可能性だってある。
生存者が死んだ、もしくは感染者側になり静かになった。
そう考える方が自然だ。
ならば、道なき道を町の方角へ進むしかない。
俺たちはゆっくり歩き出す。
音を立てないように、一歩ずつ。
落ち葉の上は避け、土が見える場所を選ぶ。
ここの場所が明確で無い以上、堂々と歩くわけにはいかない。
鈴木の足取りを横目で確認しながら、ペースを落としすぎないように進む。
ただのんびりとしてはいられない。
遅いと、また日が沈む。
なるべく今日中に町へ辿り着きホームセンターには向かいたい。
二日連続の野宿は、本当に死へ誘う。
しばらく進むと、切り立った坂道に出た。
その下に、銀色の線が見える。
ガードレールだ。
――二車線の県道。
見つけた瞬間、少しだけ胸が軽くなる。
道は、確実に行き先を教えてくれる。
山の中の勘歩きとは違う。
まだこの道がどの道かわからないが、少なくとも町へ繋がっている可能性は高い。
だが同時に、背筋が硬くなる。
県道は、人が多く通る場所だ。
人が通る場所には、奴らも集まる。
しかもこの坂――もし奴らが下から来ていたら、俺たちに逃げ場はない。
俺は一度立ち止まり、周囲を観察する。
音はない。動きもない。気配も感じない。
……静かすぎる。
この静けさが安全を意味するとは限らない。
ただ、今は見えていないだけで、降りれば“こんにちは”なんてこともあり得る。
石を投げて確認する手もある。
だが音を出せば、こちらから奴らを呼ぶようなものだ。
なのでやらない。
「ゆっくり降りる。気をつけて。」
鈴木が小さく頷く。
俺は先に一歩足を出し、足場を確かめる。
砂利が崩れない場所を選び、体重を乗せていく。
滑れば落ちる。落ちれば音が出る。音が出れば終わる。
慎重に、慎重に坂を下る。
手のひらで地面を押さえ、木の根を掴み、膝で衝撃を殺しながら。
互いに声は出さず、目の合図だけで動く。
やがて県道に出た。
そして――視界が開ける。
周りに奴らの気配はない・・
ひとまず安心だ。
坂の下には町の景色が広がっていた。
朝の光を受け、建物の輪郭が浮かび上がる。
そこに生活の気配はない。
ここからは動くものは・・・見えない。
双眼鏡でも覗くが、ここからは距離がまだありしっかりと確認はできない。
……ただ確実に奴らはいるだろう。
本来なら夜景スポットや絶景ポイントと呼ばれただろう場所だ。
見晴らしが良く、空が高い。
世界が終わらなければ、観光客が写真を撮っていたかもしれない。
だが今は違う。
ここから見えるのは、静かな死の街だ。
俺は無意識に唾を飲み込み、前を見る。
鈴木も同じ景色を見ている。
彼女の肩が小さく震えたのが分かる。
その震えは寒さだけじゃない。
「ここからは、さらに慎重にいく」
市街地に入れば危険は一気に増す。
今から、奴らが多数いる場所へ向かうのだ。
出くわす可能性も跳ね上がる。
――というより、必ず出くわす。
隠れる場所は増えるが、同時に死角も増える。
音は響く。匂いも届く。
ここからが本番だ。
俺はバットを握り直す。
奴らとは極力出会わず行きたい。
正直町の真ん中で出会ったら逃げきれない可能性がある。
なのでうまく地形を利用し、死角や建物内を進む。
そして見つかっても、撒けるルートを常に確保し続ける。
それができなければすぐ死ぬ。
俺と鈴木は覚悟を決め・・・
そして町へ、足を踏み出した。




