第8話 悪霊と囮
「じゃあ、俺達はしばらく離れるからな。その円から絶対に出るなよ」
「宮地さん、何か異変がありましたら、すぐに大声をあげてくださいね!」
「お、おぅ!」
休憩室から出て行く二人を見届ける。俺は今、テーブルや椅子を端に寄せ、ぽっかりと開いた休憩室の真ん中、赤い紐で円を作ったその中心に一人佇んでいた。何故こんなことになったかと言えば。
『つまり、俺が囮になればいいってことだよな』
『そう、なりますね…。勿論、危険が伴いますし無理に囮になる必要はありません! 成功するかも分かりませんし!』
『大丈夫だよ、やらせてくれ』
あの後、俺達は異変が起きないか休憩室で待ってみることにしたのだが、待てど暮らせど驚くほど何も起きなかった。このフロアの探索もしてみたが収穫は無し。そこで考えたのが囮作戦だ。
今のところ、霊達は社員である俺に集まって来ていて、霊障も俺にだけ発生していた。つまり、俺がターゲットにされている可能性が非常に高い。
探しても見つからないのであれば、あちらから来て貰えばいいと言うわけだ。だから囮作戦というわけである。それにしても──。
「こんな紐で本当に大丈夫なのか?」
俺は自分を囲うようにして円を描いている紐を見下ろす。颯太曰く、これは結界なのだそうだ。
『これで簡単な結界を張る』
『何だその紐?』
『これも清められた特別製だよ。こいつで円を作ってと。ん、この円の真ん中に立って』
『こうか?』
『オッケー。この円はアンタを悪霊から守る結界になってる。だから、何が起こってもこの円からでないこと。分かった?』
今、俺を守っているのはこの円のみ。怖くないと言えば嘘になる。一人で居るのは非常に心細い。
俺は辺りを見回した。やけに薄暗い部屋の中、その四隅は更に暗い。誤魔化すように俺は暗闇から目を逸らす。二人の声は聞こえない、あるのは静寂のみ。
(何も、起きないのか?)
俺はただただ待ち続けた。待ち続けてどれくらいが経っただろう。このまま何も起きなければ失敗だ。
それなのに、何も起きないことにどこか安堵している自分もいた。覚悟を決めたというのに情けなさすぎるだろ。
(しっかりしろよ俺! 最初の時とは違うんだ。二人がいる、結界もある、だから何も──)
視線を感じる。どこだ、いったいどこから。独特の寒気が体を襲う。壁に掛けられている時計が狂ったように反対に回りだす。自販機の灯りが点滅を繰り返す。
ギ、ギィ、ギィ、ギィ、ギギ
(来た!)
そう思った瞬間、既に目の前にあの霊の姿があった。スーツを着た男性の姿、首には縄の跡がくっきりと浮かんでいる。虚な眼差しで俺を見つめている。俺は声を上げた、つもりだった。
「……!?」
声が出ない。
(嘘だろ、なんで!?)
俺は焦る、声どころか身動き一つ出来ない。もがけばもがくほど、埋まっていくように、沈んでいくように、ようやく自分が金縛になっていると気がついた。男はゆっくりと俺の方に歩いてくる。
(頼む、頼むから、せめて動けよ……!)
男は赤い円の前でぴたりと立ち止まった。その目に、その澱みに、俺は息を呑む。男は口を力無く開ける。
「あ゛、あァ、あ゛ぁあ、アあ、ァ」
言葉にならない呻き声、真っ黒な澱みに仄暗い憎しみが溢れ出る。怨嗟の声は何重にも重なり、多くの苦しみが溢れ出す。
男の顔が膨れ上がり、無数の顔が現れる。直接浴びせられる憎悪の針、恐怖に揺らぐ己を何とか押し留める。自分の役目を果たすために。後悔と向き合うために。
(動け!このっ……!)
死にものぐるいで体にありったけの力を込める。結界は効いているようで、悪霊は円の内側には直接入れないようだ。
瞬間、まるで何かが弾けたかのように体が動いた。その勢いで前によろけるも、咄嗟に大声を上げる。
「来たぞ!!」
しかし、よろけてしまった俺は、円から腕が出てしまっていた。悪霊はその瞬間を見逃さなかった。
「うぉっ!」
物凄い力で円から引き摺り出される。なす術もなく悪霊に引き寄せられ、そのまま首を掴まれた。触れている手は驚くほど冷たい。首を掴む手はどんどん強くなっていく。
「がはっ、はっ、ぁ……!」
足が地から離される。体が宙に浮く。息ができない。苦しい。必死にもがいても腕はびくともしない。視界が眩む。苦しい。苦しい。
苦しい、苦しい、憎い、どうして、憎い憎い、苦しい、憎い憎い憎い、苦しい、辛い、憎い憎い憎い、憎い憎い憎い憎い、辛い、憎い、憎い憎い、憎い、どうして、痛い、憎い憎い、苦しい、憎い、痛い、辛い、憎い憎い憎い、助けて
数多の感情が直接頭に入り込んでくる。
「っ…! おぇ、うぇ!」
俺は堪らず胃の中のものを全て吐き出した。碌に食べていなかったからか、殆どが胃液だった。
目の前の無数の顔は、皆泣いていた。俺は意識が本格的に遠のいていくのを感じる。もう抵抗する力も残っていなかった。
(田辺さんも、この会社を、ここの社員を、俺を、こんな風に恨んでいるのか)
薄れていく意識でそんなことを考えた。
「いい加減その手離せや」
背後から男の心臓を貫くように刃が突き刺さっている。これは、紛れもなく天寺くんの刀だ。二人が来てくれたのだ。
「ア゛ァあアあ゛あァぁぁぁ!!」
霊達の絶叫が響き渡る。
「くそっ!かってぇなぁ!」
刀は突き刺さったものの、切り裂くことが出来ないのか、天寺くんは苛立った声を上げる。俺を締め上げる手の力は緩まることを知らない。これ以上は流石に、もう──。
「颯太、しっかり握っててください!やあぁ!」
善城院さんは片足を垂直に上げると、その勢いのままに刀目掛けて踵を振り下ろした。
刀は一気に男の腹部まで切り刻まれる。霊達の絶叫が部屋に響き渡ると同時に、俺は地面に投げ落とされた。
「かはっ!げほっげほっ、はっ、うぇ……!」
投げ落とされた衝撃と、急激に入り込んできた酸素に咽せ返る。
「宮地さん!」
善城院さんが俺の背中を素早く支える。
「宮地さん、大丈夫ですか!? 呼吸はできていますね?」
「あ…あぁ、なん、とか……」
今だに喉を締め付けてくる感覚は抜けないが。
「手こずらせやがって」
天寺くんは再び刀を構え直すと、再び男と対峙する。男の顔は今なお増殖と肥大化を続けており、かろうじて人間の形を保っているような状態だった。
「天寺くん…! その人は、その人達は、憎んで、苦しんで、痛くて、辛くて、助けを求めていた……! だから、頼む!」
何とか声を上げて天寺くんに伝える。その間にも、霊達は呻き声を上げながら、天寺くんに向けてその腕を伸ばしていた。
しかし、その腕が彼に届くことはなかった。天寺くんは一言「分かった」とだけ呟くと、迷いなく男の首を断ち切った。それは本当に一瞬の出来事だった。
男の体が砂のように霧散していく、崩れていく。俺はただその光景を静かに見つめていた。そして、その姿は完全に消え去った。
「……その人達は、解放されたのか?」
「解放はされちゃいねーよ、これだって一時的なもんだ。時間が経てば、また形を成す」
「そう、か……」
天寺くんは刀を鞘に戻し、俺を見る。
「救いてぇんなら、根源を断たないとな」
♢
「跡が残ってしまっていますが、首は大丈夫ですか? すみません、私達がもっと早く駆け付けていれば……」
「そんなことはないって。多少違和感はあるけど、今はもう平気だし。また助けてくれてありがとうな、二人とも」
しかし、善城院さんの表情は心配に染まったままだった。ちなみに、天寺くんはいつも通りの通常運転だ。
ただ、この首に残った生々しい手形が消えるまで、暫く包帯か何かで隠す必要があるなと頭の片隅でそんなことを考えていた。
「さっきの悪霊の集合体、あの中に佐々木透、藤本昌信がいたな」
床に座り込んでいた俺は、「え」と天寺くんを見上げた。善城院さんも天寺くんを見上げる。
「そうですね、写真で見た顔でした」
根源の候補に挙げられていた二人が先程の霊だった。だとするとそれは──。
「自殺した三人の内、二人は根源じゃなかった。そうなると、根源の可能性が高いのは、残り一人である田辺咲だな」
「田辺さんが、根源……」
身近であった人物が、この呪いを起こしているかもしれない。それは、俺に更なる衝撃を与えるのに充分だった。




